7.2 明治の島小学校

(島区民会編「島小百年史」(S48.11.3 同会発行)より)

1. 小袋小学校の前身
島小学校の沿革、特に草創期を知るには、まず古川忠栄(孫左衛門)氏の事蹟、特に永年にわたって私塾(寺小屋)を開いて地方の子弟に対する教育に尽くしたことを挙げなければならないと思う。縁筋に当たる古川一郎氏の保存している貴重な記録により、次のような略歴を知ることができる。

『古川忠栄氏は文政7年(1824年) 忠助の二男として生まれた。幼い頃は永助と呼ばれ長じて彦次郎、のちにいみなを孫左衛門、あざなを忠栄と称した。忠助の長男は5才で若死したので二男の永助が後を継いだ。家は近郊屈指の富豪であったのでひたすら学問に励むことができた。明治維新前後、郷里の子弟のため多大の私財を投じ私塾を開いて、その教育に専心した。』

氏の死後、門人その徳を讃(たた)え、相談した挙句その恩を長く伝えるために当時としては実に立派な碑を歓喜寺境内に建立した。その碑は現在も境内の一隅に建っていて、碑文は漢文であるが…

明治5年(1872)「学制」公布日本初の近代的学校制度を定めた法令
明治6年(1873)4月、公立小袋小学校創立
 9月、公立高木小学校創立
明治8年(1875)1月、公立矢沢小学校を設置
 9月、公立高松小学校創立
明治12年(1879)「学制」が廃止され、「教育令」により16ヶ月の義務制となる

2. 小袋小学校時代
前記のように古川忠栄氏の私塾で近郊の子弟は教育されていたが、明治5年(1872) 「学制」発布により小学校の開設を東十二丁目村から要望されて、明治6年4月10日それまでの私塾を第7大学区第18中学区45番小袋小学校と改称して開校した。同7年1月24日文部省より開設許可の通知が届いている。…
同12年9月29日には再度学制制度が改正されて義務教育制となり、新制度による小袋小学校と改称された。

開設当時は古川家の当主古川忠栄(孫左工門)氏が教鞭を取っていたが、その後長男の茂兵衛氏が盛岡に開設されていた教員伝習所の課程を修了して帰郷したので、子息に譲って辞任した事になっている。而(しか)しここで考えなければならない事は忠栄氏の弟である勇助氏に対する「世話掛」という県辞令である。本当に得難い貴重な資料(明治8年10月20日の日付)として今も残って居る。当時の教師の正式の名称が「訓導」とか「准訓導」とかでなく「世話掛」であったことは興味がある。これらのことから推定すると、勇助氏の在職期間ははっきりしないけれども、とにかく初期の小袋小学校は古川忠栄氏、勇助氏、茂兵衛の順序で教鞭がとられ、勇助氏の在職は短期間だったと思う。明治15年以後勇助氏に対する「学務委員」としての辞令が実在している点から考えて、小袋小学校は古川累系一家で支えられていたことは間違いのないことである。

このたび島小学校百年誌の編集、特に草創時代明治初期の編集にたずさわってみて、わが郷土島部落の初期における子弟教育のため長い間物心両面から多大な尽力をなされた古川宗家の南米移住、及びその後の動向を追録してみるのも意義のあることであり…

〈古川宗家の南米移住については「もうひとつの南米移住」(⇒https://hitakami.takoffc.info/2014/06/anotheremi/)をご覧下さい。〉

明治19年(1886)「小学校令」公布。小学校を尋常小学校と高等小学校の2段階とし、尋常小学校修了(3~4年)までを義務教育期間と規定
 小袋小学校、島尋常小学校に改称
明治20年(1887)島尋常小学校、教師後継者が得られず高木尋常小学校と合併
明治21年(1888)島・高木各尋常小学校に再び分離し、夫々独立校となる
明治22年(1889)矢沢・高松・幸田・高木・東十二丁目の5ヶ村が合併し、新・矢沢村が発足
明治24年(1891)東十二丁目第14地割に校舎を新築 (4学年の単式編成)
明治29年(1896)1月、本校校舎全焼
 11月、校舎平屋44坪の新築なる

3. 小袋小学校を島小学校と改称す
明治19年(1886)には「小学校令」の公布で4年制となり同年4月1日より小袋小学校を島小学校と改称した。しかし其の後も引続いて古川茂兵衛が教鞭を取り同氏宅を校舎として教育していた。その間約1か年で、20年5月1日高木尋常小学校と合併ということになった。

4. 高木小学校と合併
東十二丁目村小袋小学校として、古川茂兵衛氏宅の教育は約14年、その間教育に専念していた茂兵衛氏は諸事情によって教師を継続する事が出来なくなり、適当な後任が得られずやむなく高木尋常小学校と合併せざるを得なくなつた。当時の高木小学校は現在の花巻市高木古舘…佐藤千春氏(昭和48年現在)宅にあった。高木小学校との合併期間は僅かに1年2か月位の短期間であつた。…当時島から入学した者があるので合併したことは事実だといえるが、しかし(島部落の)全部が高木小学校に通学したのか、あるいは一部分派して島の地元で勉強した者があったのか判らない。その当時と思うが(年代は明確でない)現在(昭和48年)の古川喜代志氏宅で学習し、火災に遭って照井節郎氏宅に移ったという言い伝えもある…

5. 仮校舎時代
島全区から高木までの通学上の不便解消は全村民の熱願だったろう。折りも良く同村出身の高橋久平氏が教師の資格を得て帰郷されたので、21年(1888)7月1日高木小学校から分離独立し、押切彦八氏別宅を仮校舎とし高橋久平氏が訓導に任命され島小学校として開校した。
当時の仮校舎は現在(昭和48年)の押切東吾氏所有の通称お蒼前下の広場にあった。校舎は現在の押切省三氏の宅で…

6. 島小学校独立校舎誕生
転々と民家を借りての仮校舎の教育は何んとしても不便だったろうし、また年と共に教育に対する関心も高まり独立校舎の必要に迫られ、村民の世論が強まって実現の運びとなった。そして協力一致、長年の念願が叶って明治24年(1891)9月10日に現在地東十二丁目第14地割38の2番に2階建萱葺(かやぶき)のモダンな校舎が新築された。その間、押切彦八氏の仮校舎に移ってより2年10か月、明治6年4月10日小袋小学校として発足してより18年目にして名実共に独立校舎を持つ島小学校が誕生したのである。当時、並み並みならぬ協力と努力とが払われて新築された校舎は郡内屈指の立派なものと言われたらしい。

しかしわずかに4年4ヶ月位使用されたばかりで、残念なことには29年1月29日午後7時40分頃、失火全焼の悲しみに出遭った。失火の原因は箱火鉢の過熱らしい。そして勅語や謄本を始め諸帳簿、諸器具類ことごとく皆灰となってしまった。

7. 再度仮校舎へ移転
校舎失火焼失のため、1月29日より2月4日まで臨時休校し、2月5日より再度押切彦八氏の別宅を借りて仮校舎とし授業が行なわれた。机も皆焼失したので各自机を持って行って勉強したものだと当時の生徒で生き残りの古川一郎さんは話している。

明治29年3月仮校舎で卒業証書を授与された者は男子11名であったという。
同年学習証書を授与された者は
  乙組  男  5名  女  0
  丙組  男 17名  女  2名
  丁組  男  4名  女  2名
…明治初期の学校入学はほとんど男子だけで、女子は珍しかったようである。義務制となっても、依然として男尊、女卑の風習が残っており、男子が断然多かった。入学・卒業も一応は規定があっただろうが、当時の記録では入学時期など全くバラバラで、4月に入学する者もあれば、8月、10月の入学もあった。卒業も一緒であったのか、まちまちなものやらよくわからない。

明治始めの入学許可証のようなものや、卒業証書など貴重なものを手にしてみて推察すると、入学した1年修了時の卒業証書があることから考えて、学年ごとに発行されたに違いない。…

8. 独立校舎再建 (同校舎4年制教育時代)
焼失した独立校舎の再建のために部落民は力を合わせて一生けんめいに努力した結果、同年11月3日の佳き日に落成式を挙行する事になった。
前校舎に比べてすべて質素を旨とし、備荒貯蓄米を基本(資金)とし、若干の寄附金を募集し、総額450円で地元大工藤原金次郎氏(注1)が請負い、後に20円を追加し、炭小屋が増築された。そして80年の星霜に耐えて現在も部落民の研修の場として大いに活用されている。島小学校はまさしく島部落文化の源泉の場として集いと憩いの場として、懐しみの気持ひとしおのものがある。

火災により焼失した勅語謄本の御下賜の申請をしていたが、天長節の佳節に再度御下賜になったので、落成式と同時に勅語奉読式が挙行された。
落成式には赤飯や篤志者より戴いた饅頭を各4個ずつ生徒に与えた。落成式後、引続いて兼ねて本校舎新築費並びに敷地購入費寄附につき、その賞としてさきに御下賜になった銀盃の披露会を開いた。…

◎再建校舎での諸行事

〇明治33年(1900)財産造成の目的で学校林を設定した。
  学校林
一、樹栽地反別  1町歩
□ 位置  矢沢村大字東十二町目第9地割148番の内
一、造林計画
明治38年(1905年)度より毎年杉2千本宛の植付をし1万本を達成し、栽植後50年目に至り(15年後には3千本を残す程度まで間伐をなすものとす) 3千円の財産を得る見込みにして、3分の2を学校基本財産に編入し、3分の1を地主に交附す。…
一、植樹方法
樹栽地の下草刈払人夫は通学区域内人夫の賦役とし、植付は児童をして行なわしむ。…
一、保護方法
下草刈及び手入等に関する作業は通学区域内住民の共同義務とし、時々これに当らしむ。   (以上)  

〈この造林計画がその後どのような経緯をたどったかは不明だが、本書の「島小学校時代 / PTA活動26年」の中に「昭和28年度 3月 区有林に植樹 1,200本」とある。
今では「区有林」と呼ばれる旧・学校林について登記簿を見ると、「148番の1 山林 11,287㎡」とあり、所有権は201人の等分共有になっている。〉

明治33年(1900)矢沢高等小学校、安野に開校
明治40年(1907)「小学校令」改正。義務教育6年(尋常小学校を卒業するまで)と規定
明治41年(1908)矢沢高等小学校を廃して、高木尋常小学校を同尋常高等小学校に改称
高松尋常小学校に一本椚(いっぽんくぬぎ)分教場を設置
明治44年(1911)高木尋常高等小学校を矢沢尋常高等小学校と改称
島・矢沢・高松各尋常小学校と一本椚分教場を廃し、島・矢沢・一本椚各分教場と高松分教室を設置

9.義務育6年制になる / 2階建柾葺(まさぶき)5教室増築す
時代の進展により義務教育の延長が図られ、明治40年(1907)3月21日「小学校令」改正となり、教育年限6年制となる。
従って、校地、校舎が狭くなって、その拡張が課題となり、41年まず校地の拡張を実現し、42年2月28日校舎増築に衆議一決して新築工事に取りかかった。…同年中に2階建校舎5教室75坪を増築した。…部落民の努力の結晶であるこの校舎も独立校としての使用僅かに2年で、明治44年3月31日矢沢村内小学校統合のため矢沢尋常小学校となり、島分教場と称し6年複式2学級編成となった。こうして明治時代の島小学校は終わり、長い島分教場時代となつた。6年制島小学校時代の主な行事は左のようなものである。

◎42年3月21日、稗貫郡選出の本校初の模範生の表彰式を挙行した。
 表彰者  本校第5学年 古川マツヨ …

明治42年模範生表彰記念写真
(右から 村長 内堀昌一、校長 古川純三(27歳)、教員 宮川伝吉(22歳)
模範生 古川マツヨ(12歳)、教員 千葉ヨシノ(22歳))


◎同年左の様な諸規定を制定して厳重に実行せしめる事にした。
  島尋常小学校児童動作規定
第1条  児童は毎朝始業前10分までに登校せしめ、放課後は当番の外は直ちに帰宅せしむべし。
第2条  児童登校したる時は直ちに携帯品を一定の場所に置かしめ、運動場にありて始業を待たしむべし。(ただし冬期間及び炎天、雨天の際は控所にて待たしむ。)
第3条  始業の号報ありたる時は直ちに規定の場所に整列せしめ、当番教員一斉に号令を下し、その整頓せるを待ちて各自教室に率い入るべし。(ただし雨、雪その他やむを得ざる場合を除く外は、第1時において校庭に朝礼を行なうものとす。)
第4条  終業の号報ありたる時は直ちに教授を止め、生徒を校庭に率ひ出し、敬礼の後解散せしむべし。(ただし雨天の際は控所において解散せしむ。)
第5条  教室の出入は児童を2列にし歩調を整え静粛に歩行せしむべし。(ただし児童教室に入りたる時は起立のまま教師の入室を待たしむべし。第1時間目においては用具整頓の上起立せしむべし。)
第6条  児童教室出入の際は級長これを統率す。
第7条  級長は行進の始終及び解散には号令を用うべし。
第8条  教授時間外には児童をして教室に在留又は出入せしむべからず。
(ただし教師の許可を得たるものはこの限りにあらず。)
第9条  児壷の欠席したる時は必ず届出せしめ、遅刻したる時又は早帰せんとする時は教師に事由を陳(ちん)してその指揮を乞わしむべし。
第10条  授業の始終には児童をして起立して敬礼せしむ。(ただし教師の教壇に直立して受礼の容を示すと同時に、児童は一斉に敬礼するものとす。)
第11条  教授中敬礼すべき人来りたる時は、教師教壇を降りて先ず一礼して後児童に紹介して敬礼せしむべし。(ただし特に校長より通知なき時は敬礼せしむるに及ばず。)
第12条  教師は児童を呼ぶには敬語を附す。
第13条  着席起立交具の出し入れは静粛にして迅速ならしめ、かつ成るべく一斉ならしむべし。
第14条  児童発言せんとする時は、先ず机側に直立して姿勢を正さしむべし。(ただし簡単なる発言は着席のままにてなさしむべし。)
第15条  教師の命にあらずして席を離れ又は発言せんとする時は、挙手して教師の許可を待たしむべし。挙手は左手を下臂(ひじ)を真直ぐに挙げしむるものとす。   (以上)

  児童心得  (本文省略)

〈児童に対する規定だけでなく、教員に対する規定もあった。〉
  教案規定
第1条  教案は1方法単ずつこれを調整し、更に適宜に分合して1時間教授すべき分量を明示すべし。
第2条  教案の様式は別に定むる所に準拠するものとす。
第3条  教案は該授業前日の始業前までに、校長に差出すべし。
第4条  教案は受持交代の際取まとめて校長に差し出すべし。   (以上)

  批評の要点  (本文省略)

10. 代用教員 古川一郎の追憶
私は、学令に達しない明治27年(1894)、農繁休業あけの6月に島小学校に入学させていただきました。
その入学した日、習字の時間は清書で、五十音のサ行を書くのでした。私も高橋久平先生のお世話で、どうやら「サシスセソ」の五字を書きました。
…尋常小学校を卒業し、高等小学校も年令の少ないのに卒業させていただきました。現在では許されないことです。
で、この中道(なかみち)の校舎には明治27年から4年間お世話になったのですが、…その頃のいろいろのことを思い出すまま書くことにいたします。

まず教科書ですが、それは
 実験修身入門(上級になれば「日本修身書」)
 日本読本(郡村用)
 小学習字帖
の3冊だけでした。学用品は
 石盤・石筆・石盤拭・硯・墨・
 筆・ぬり板・そろばん
以上のもの位だったと思います。

石盤は粘板岩を薄くして板の枠をつけたもの、石筆は石盤に書くため蝋石などを筆のように持ちやすくしたもの、石盤拭きは石盤に書いた字などを拭い消すためのものでした。
あとで紙石盤ができましたが、これはボール紙にざらざらした黒い塗料を塗ったもので普通四枚続きのものでした。石のものと違って、床に落としても割れないことや、書く面の多いこと、軽いことなどで、急に紙石盤がはやり出しました。
ぬり板は習字用で、半紙判の板の両側を朱の漆で塗ったもの、書いた字は布巾で拭きました。半紙を幾枚も綴った草紙を使う人はまれで、大ていはぬり板でした。
硯・墨・筆などは主として習字用。そろばんは算術用でした。

教科書や石盤などは毎日家に持ち帰ったのですが、重い硯や、そろばんは学校の机の中に置きっ放しでした。教科書など家に持ってくるものは風呂敷に包んだのです。革の肩にかける鞄もあり、私も買ってもらったが、一度も使いませんでした。やはりみんなと同じ風呂敷包みがよかったからです。

成績表示は
 善・能・可・未・否
の5段階のを使いました。甲・乙・丙・丁も時には使ったようだが、善・能・可の方がよく使われました。
学習をはじめる時は、一・二・三の掛け声で用具をそろえました。
 一で、机のふたをあけ
 二で、教科書や石盤、石筆等を出し
 三で、机の蓋をして姿勢を正し、先生の指図を待つ
という順序でした。この動作はドイツの学校のをとりいれたのだったとは後で知りました。

嬉しかったのは4月になって一年生が入学して来た時です。父兄は必ず1帖か2帖の半紙を学校に持ってきて先生はその半紙を上級生に平等にわけて下さったからです。
急に偉くなったような気がし、一年生をかあいがってやろうという気になりました。

明治29年1月29日、学校が焼けた時は困りました。学校に置いた硯や、そろばんを焼いたこともくやしかったが、これからどこで勉強するのかしら……という不安の方が大きくて、泣きたい気持ちでした。幸い押切彦八さんの別宅を仮校舎として借りて、2月5日に家にある古机を持ち寄って坐って教えられた時は、やっと安心しました。
仮校舎のわきの沢で蟹をつかまえたり、裏の山に登ったり、案外楽しい思い出が残ってます。その年の11月3日新校舎が落成しました。

それから私の代用教員時代のこともよく人から聞かれますが、明治38年度の1年間月給金3円で雇われました。20坪の教室(現在の西溜り(講堂))一つしかない校舎では内堀卯八郎先生の助手でしかありませんでした。一度も教壇に立って教えたことのない単なる助手でした。でもみんなから「先生、先生」と慕われて愉快でした。

この思い出多い百年の歴史を誇る、わが島小学校もいよいよ廃校になるそうですが、名残惜しさで一杯です。…

11. 模範生 大木チヨノの回想
私達が学校に入りましたのは、明治37年(1904)4月だと思っております。その当時は、今の学校のようではなく、今にくらべますと、まるで見当もつかないような学校でした。冬になると、ストーブというものもありませんでしたので、小さい教室に四方四角の大きな火鉢で、それに火をおこし今のように靴というものがなかったものでしたから、藁で作った「つまご」というものをはきましたから、雪の降る日等は凍ってかたくなり、それを皆んなで火鉢にほして、はいて家に帰るようなまるでみじめなものでした。それでも何も不自由と思わず、楽しく勉強したり遊んだりしたものでした。

そうして4年間、その学校で学びました。幸にして私達は5年生の時から義務教育、6年と言うことになりましたので、私もその新しい校舎に移ることになりました。その時の楽しかったこと、今でも思いだされます。又遊ぶものといいますとブランコに遊動木、あの丸太で作ったもので、それで遊んだものでした。そしてあの桜の木、その頃は幼木でしたのに、今は大樹となっております。もっとも私が学校を出てからもう60幾年ですものね。その間いろいろの先生方に教わりました。…学校時代はずい分腕白者でしたけれども同級生達は皆んなよい生徒達でした。そして特に仲の良かった友達は荒屋敷の佐藤末吉さんのお姉さんの古川マツヨさんと言う人で、とても良い人でした。そしてとてもやさしかった女の亀谷先生、裁縫室で裁縫を教えられた事が思いだされます。1年間は短かいもので、古川マッヨさんが5年生の時模範生として郡長様から賞状と碩箱1ヶと記章を戴き、6年生は私が戴きました。その時のうれしい事といったら、皆さんもどうぞ想像して下さい。

そしていよいよ卒業式の日となりました。私も紋付に袴をはいて学校に行きました。私のような生徒を模範生として指導して下さった先生方の御恩は一生忘れることはできません。
あの「仰げば尊とし」の恩師への歌、そして「螢の光」を歌って皆んなと別れるその時のさびしかったことを思い出すと、今でも涙が出てくるようです。思い出すまま記しましたが、最後に一言
 なつかしや ああなつかしや なつかしや
 百年前のあの校舎 今廃校になろうとは

12. 卒業生数 (明治27年度以降、男女別)

西暦和暦男子女子備 考
1895明治28年909 
1896明治29年4 4 
1897明治30年17118以下尋常科4年卒業生
1898明治31年505 
1899明治32年606 
1900明治33年606 
1901明治34年13417 
1902明治35年13114 
1903明治36年7310 
1904明治37年9615 
1905明治38年101121 
1906明治39年9514 
1907明治40年81725 
1908明治41年9211以下尋常科6年卒業生
1909明治42年71421 
1910明治43年10717 
1911明治44年71017 
1912明治45年10818 
1913大正2年11920 
 合計17098268 
(注記) ・「島小百年史」掲載の卒業生名簿から集計。各年3月の卒業生数を示す。
・4年卒業生と6年卒業生の両方に計上されている者が数名いる。
  
明治43年卒業写真
大正14年(1925)矢沢尋常高等小学校、高松に移転し、高松分教室を併合
大正15年(1926)一本椚分教場を廃止し、矢沢分教場に合併
昭和16年(1941)「国民学校令」公布。義務教育8年と規定されたが、戦時下のため高等科2年は実現せず
 矢沢尋常高等小学校、矢沢国民学校と改称
昭和22年(1947)「教育基本法」・「学校教育法」公布。義務教育9年と規定
 矢沢国民学校、6・3制により初等科・高等科を分離して新制矢沢小学校に改組、新制矢沢中学校が発足
昭和23年(1948)矢沢・島各分教場が矢沢第二・島各小学校に昇格、独立校となる
昭和47年(1972)矢沢・矢沢第二・島各小学校を統合
実質統合まで矢沢小学校の矢沢・矢沢第二・島各校舎と呼称す
昭和49年(1947)3月、矢沢小学校の新校舎完成
 9月、開校記念式典を挙行(新校歌・校章・校旗制定)

[補足]
(注1) 藤原金次郎:
棟梁 藤原金次郎」(⇒https://hitakami.takoffc.info/2014/05/kinjiro/)をご覧下さい。

(2019.11記/21.1改)