8 産業の発達

「第8章 産業の発達」(全23ページ)は藩政時代から昭和までを対象にしている。

第1節 農業生産  (藩の本領と生産高、東十二丁目の村高、経営基盤、戸数人口等の動き)
・「藩の本領と生産高」の項に、盛岡南部藩の石高の推移が記され、また表高(御公儀高、軍役高)と内高(賦課実収高)について解説されている。
・「東十二丁目の村高」に、寛文5年(1665)から天保14年(1843)までの生産高(内高)の推移表がある。
・「経営基盤」に、昭和35年の集落別水田・畑等の面積と集落別農家の戸数・人口等がある。
・「戸数・人口等の動き」に、寛政7年(1795から平成元年(1989)までの戸数・人口の推移表がある。

第2節 稲作り  (品種のうつりかわり、苗の育成、稲作作業の変遷、水稲生産力の向上、米価の推移)
第3節 畑作  (畑の面積と石高、畑の作物、生産の動態)
・この2節では稲作・畑作の品種や稲作作業について解説されており、花巻農学校卒業・元宮野目村農会技手の著者・石崎先生の面目躍如といったところ。
・「水稲生産力の向上」として、県の水稲10㌃当り収量の推移が示されている。それによれば、
   明治15(1884)~19年  138kg
   昭和47(1972)~51年  475kg
 なお、平成30年(2018)産水稲の岩手県の10㌃当たり平年収量(注1)
              536kg

第4節 其の他の産業  (馬産、養蚕、酒造技術の伝承、酒造と神祭り)
・南部領10ヶ郡の馬の飼育が、安永10年(1780)頃戸数4万戸弱で馬9万匹弱だったのに対し、東十二丁目村では寛政9年(1797)に戸数152戸で馬158匹であったとある。
・南部藩で養蚕が始まったのは寛保年間(1741~)のことであるらしいが、東十二丁目村では大正年代(1912~)に最盛期を迎え、昭和10年(1935)以降は次第に減少したようだとある。

・本節に、酒造のための出稼ぎ(杜氏など)については解説されているが、何故か東十二丁目に本誌執筆当時現存していた醸造業(酒、味噌・醤油、酢)のことが全く記されていない。著者にとっては余りに身近過ぎて、見過ごしたものか。
・東十二丁目に戦前から続く醸造業3社
   「白雲酒造」    天保元年(1830)頃創業、平成26年(2014)廃業
   「丸一食品工業」  明治26年(1895)創業、味噌・醤油等の製造販売
   「押切酢店」    醸造酢の製造販売
 著者は昭和5年(1930)頃に一時「丸一」で働いていたことがある。

[補足]
(注1) 水稲の10㌃当たり平年収量:ある年の水稲の栽培を開始する前に、その年の気象の推移や被害の発生状況などを平年並みとみなし、最近の栽培技術の進歩の度合や作付変動等を考慮し、実収量の趨勢を基にして作成されたその年に予想される10㌃当たり収量をいう。

(2021.10記/22.2改)