「東十二丁目誌」の著者・石崎直治先生が、東十二丁目の石碑を調査された際に撮影された写真のアルバムです。撮影時期は明記されていませんが、昭和60年前後(1980年代)と思われます。
写真
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(連番) 碑名 (寸法 cm)
建立時期 所在地
熊野神社境内
(1)松尾二柱大神 (238×90)
明治26年(1893)4月8日
(2)稲荷大神 (50×45)
(3)馬頭観世音
熊野神社境内
(4)馬頭観世音 (44×25)
(5)馬頭観世音 (58×48)
明治26年(1893)10月28日
(6)馬頭観世音
(7)百万遍 (70×50)
安政3年(1856)3月15日
熊野神社境内
(8)庚申塔 (100×60)
文化6年(1809)7月2日
(9)月山 湯殿山大権現 羽黒山
文政2年(1819)9月15日
(10) 月山 湯殿山 羽黒山
慶応元年(1865)8月8日
(11)湯殿三山 (124×38)
明治23年(1890)6月8日
熊野神社境内
(12)月三山 (160×76)
大正2年(1913)7月15日
(13)為古川孫三先生 算術塚 (104×46)
明治24年(1891)10月15日
神明社境内
(14)足尾山 (186×58)
明治29年(1896)9月16日
(15)古峯神社 (143×57)
昭和10年(1935)9月15日
(16)象頭山 秋葉山 山神 (140×100)
天保4年(1833)3月18日
(17)尾崎大明神 (144×104)
文政10年(1827)9月15日
神明社境内
(18)雷神 (110×45)
安政2年(1855)9月吉辰
(19)当国三十三所観世音 (94×95)
明治22年(1889)3月17日
(20) 当国三十三所観世音 (116×40)
明治21年(1888)3月17日
(21) 当国三十三所観世音 (100×90)
明治15年(1882)3月17日
神明社境内
(22)五七庚申 (124×46)
大正14年(1925)旧10月17日
(23)幸神 (115×103)
明治3年(1870)4月吉日
(24)月山 湯殿山 羽黒山 (170×130)
慶応2年(1866)4月8日
(25)弔忠碑 故陸軍歩兵上等兵大木彌左ェ門君之碑 (290×90)
明治35年(1902)7月28日
神明社境内
(26)為大木安清 筆塚 (170×70)
明治15年(1882)4月吉日
(27)奉献之碑 (170×65)
明治41年(1908)
歓喜寺境内
(28)聖徳太子 (172×55)
大正15年(1926)3月22日
(29)畜霊塔 (130×110)
歓喜寺西
(30)百万遍供養 (135×60)
万延元年(1860)9月15日
(31)有縁無縁三界万霊供養 (73×25)
昭和6年(1931)旧7月
(32)養塔 (80×50)
(33)先祖代々供養
(34)念仏供養 (90×45)
寛政10年(1798)7月16日
(35)南無阿弥陀仏
(36)南無阿弥陀仏
(37) 念仏供養塔
歓喜寺境内
(38)庚申供養
(39)庚申供養塔
(40) 庚申塔
(41)為照井元與先生 筆塚 (190×96)
(42)忠魂碑 (270×100)
明治40年(1907)4月8日
(43)鎮魂 日支事変大東亜戦争戦没者 (315×117)
昭和34年(1959)11月3日
歓喜寺境内
(44)古川氏之碑 (245×90)
(古川忠栄氏(文政7年(1824)~?)彰徳碑)
(45)裁縫先生謝恩碑 (160×70)
昭和6年(1931)旧10月7日
(46)〇無阿弥陀佛
(47)教育之碑 島小学校跡 (100×150)
昭和57年(1982)11月23日
島保育園
(48)南無妙法蓮華経 (200×56)
弘化2年(1845)2月12日
藤左ェ門家墓地西
(49)照井長門藤原武弘墓 (高さ4尺)
安政2年(1855)7月
二津屋旧墓地内
東崗公園
(塚根より移す)
(50)尾崎供養 (75×50)
文化6年(1809)8月吉日
(51)馬頭観世音 (90×60)
慶応元年(1865)7月19日
(52)馬頭観世音 (70×55)
嘉永2年(1849)
(53)天下泰平 奉納大乗妙典日本廻国 国土安全 (120×90)
寛政10年(1798)8月吉日
東崗公園
(塚根より移す)
(54) 天下泰平 大乗妙典日本廻国 国土安全 (95×65)
文政11年(1828)6月吉日
八ッ森山 秋葉社
(55)秋葉山 (145×86)
文政8年(1825)
(56)牛頭天王 (124×57)
(57)妙見大菩薩 (96×90)
弘化3年(1845)8月吉日
(58)鳥海山 (120×80)
嘉永2年(1849)6月8日
(59)法然上人 親鸞聖人 蓮如上人 (102×45)
明治41年(1908)11月28日
揚場の後
(60)(道標) 右山道 左ハ土沢 やすの渡在 (63×43)
八ッ森
沼御前社
(61)馬力神 (46×30)
明治22年(1889)3月19日
(62)沼御前 (36×33)
(63)七庚申 (60×33)
明治36年(1903)
(64)湯殿三山 (80×60)
明治22年(1889)4月8日
小袋 稲荷社
(65)山神 (60×36)
(66)馬頭観世音 (70×40)
文久2年(1862)11月19日
(67)馬頭観世音 (46×28)
長根 金毘羅社
(68)古峯神社 (160×70)
(69)庚申塔 (83×60)
天保5年(1834)
(70)明治二十七、八両年日清戦争従軍凱旋記念碑 (310×85)
明治30年(1897)6月吉日
竹原
(71)讃州 象頭山 金毘羅 (100×70)
安政5年(1858)3月10日
竹原山神社東方
(72)馬頭観世音 (65×57)
明治7年(1874)2月17日
竹原入口
(73)庚申 (77×44)
文政12年(1829)3月26日
八雲大神境内
穂貫田 稲荷社
(74)足尾山 (103×80)
嘉永7年(1854)9月8日
(75)大石明神 (42×38)
元治元年(1864)5月15日
(76)馬頭観世音 (40×25)
3月29日
(77)馬頭命 (62×56)
嘉永4年(1851)10月16日
(78)?
穂貫田 小田島金六家西
(79)聖徳太子 (53×34)
文久2年(1862)12月22日
(80)馬頭尊 (30×20)
明治19年(1886)
長志田
(81)秋葉山 金毘羅 (145×160)
文化14年(1817)4月3日
長志田上り口
(82)三峯山塔 (56×44)
長志田上り口
(83)尾崎参詣供養塔 (110×60)
文化3年(1806)6月13日
長志田上り口
(84)馬頭観世音 (45×30)
明治10年(1877)12月11日
長志田馬捨場
長志田
(85)馬頭観世音 (65×23)
昭和9年(1934)12月19日
長志田馬捨場
(86)馬頭観世音 (50×30)
昭和12年(1937)7月
長志田馬捨場
(87) 馬頭観世音 (50×37)
明治8年(1875)4月29日
長志田山神社下
(88) 馬頭観世音 (45×35)
明治30年(1897)6月19日
長志田山神社下
長志田
(89)稲荷社
明治16年(1883)
長志田 旧畑福家宅地
(90)馬頭尊 (30×15)
明治13年(1880)11月13日
長志田 旧畑福(薫)家宅地
(91)馬頭観世音 (47×26)
明治9年(1876)9月14日
長志田 旧畑福(修)家宅地
[補足]
(1) 「東十二丁目誌」の「第6章 むらの民俗」 / 「第6節 民間信仰」の「路傍の祈り」の項に東十二丁目の石碑の一覧表が載っていますが、著者は「…まだ残っているものもあるようで、今後更に調査して万全を期したいと思う。」と記しています。
(2019.9.3掲)