組合立花巻中学校の創立 -八木英三の成功と無念-

(八木英三著「花巻市制施行記念 花巻町政史稿」(S30.1.20 花巻郷土史研究会発行)より)

組合立花巻中学校(注1)の創立(注2)
…私が盛岡中学校から花巻高等女学校に転任して来たのは大正14年の9月であったが、花巻町には明治時代からすでに高等女学校があったけれども、男子の中等学校というものが何もなく、郡立の花巻農学校がやっと二三年前に県立に昇格したばかりであった。それ故に町内有志の聞に「花巻中学校」の声が夙(つと)に挙り、大正3年には前町長松川他次郎等の主唱で私立中学校が纒(まと)まりかけたが中絶のままになっていた。
私が明治末年に東京の夜聞中学校に就職していたことがあり、その組織や認可が甚だ簡単であることを知っていたので箱崎圭助や宮沢恒治やに相談したところ積極的に賛意を表してくれ、先代箱崎庄吉が卒先して創立者となってくれ、寄附金の初筆五百円を出資したので話がトントン拍子に進んだ。 続きを読む 組合立花巻中学校の創立 -八木英三の成功と無念-

教育者/新聞人/政治師 八木英三の戦後

□□□ 昭和20年(1945) 8月15日、天皇、戦争終結の詔書放送
□□□ 昭和21年(1946) 3月、松田浩一、花巻で戦後最初の新聞「岩手大衆新聞」を創刊
□□□ 昭和21年 4月10日、終戦後はじめての総選挙、八木が擁立した高田弥市(注1)は落選

…「戦争を好むちから」の流れが堰止められるや、八木英三は新しいときの流れに乗った。
敗戦後はじめての、昭和21年4月10日施行の総選挙に、高田弥市を立候補させようと動いた。 続きを読む 教育者/新聞人/政治師 八木英三の戦後

教育者/新聞人/政治師 八木英三の終戦まで

□ 明治19年(1886) 9月、「巌手日日新聞」(「岩手日報」の前身)が発刊される
■ 明治20年(1887 0才) 八木英三、元花巻城士大関時五郎の次男として里川口村(後の花巻町)に生れる(注1)
・祖母の実家八木家に入籍
□ 明治29年(1896) 宮沢賢治、里川口村(後の花巻町)に生れる
□ 明治36年(1903) 賢治、町立花巻川口尋常高等小学校(現花巻小学校)に入学
■ 明治38年(1905 18才) 花巻川口尋常高等小学校へ代用教員として赴任。
・3年生の担任となり、宮沢賢治と出会う。
□ 明治38年(1905) 賢治、担任の八木英三先生から、エクトール・マロ原作・五来素川翻案「家なき子」や、「海に塩のあるわけ」などの童話や民話を読み聞かされる。
■ 明治39年(1906 19才) 花城尋常高等小学校(旧花巻川口尋常高等小学校) 4年生の担任。
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更木の水利-明治以降-

(「更木島東部土地改良区の歩み」(2008.7 同土地改良区)(注1)より)

   旧田地区(注2)
江戸時代中頃の当地区のかんがい用水は更木村金栗の平野仁兵衛氏が区民の協力を得て私財を投じ着工から3ヶ年の歳月をかけて元禄14年(1701)に完成した仁兵衛堰によっていた。
仁兵衛堰は猿ヶ石蓑淵(みのふち)から取水し、猿ヶ石川の左岸を高木村妻上まで北流させ、そこから南流し東十二丁目村を通って更木村久田で北上川に放流するまでの延長4,654間(8,461m)の水路で179町…(178ha)(うち東十二丁目村63町…(63ha)、更木村84町…(84ha))の水田を潤していた。 続きを読む 更木の水利-明治以降-

堰を守る

(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28)より)

用水堰の補修
土と木材によって出来た用水堰は、洪水による箱倉の破壊や、水路に沈積する土砂、或いは土手の破損などで、速急な修復が必要となり、年々の手入の外屡々(しばしば)補修の工事がなされている。それらの記録をまとめたものはないので、全容を知ることは出来ないが、手元にある古文書によって要約して表示すると次の通りである。

宝永6年(1709)、正徳5年(1715) 水門補修… 続きを読む 堰を守る

仁兵衛、堰を開く

(中村萬右衛門編纂「更木村誌」(S5.12. 発行者不詳)より)

■■ 灌漑排水路 ■■
更木村水田二百町歩の内 臥牛(ふしうし)部内の田と山手方面に於ける沢水利用の小面積の棚田を除ける大部分は仁兵衛堰及中井堰の用水に依るものである、此の用水堰は猿ヶ石川の水を利用せるもので蓑淵(みのぶち)と云う所より高木島を経て本村を流過せしむるもの 之を仁兵衛堰と云うのである。これ今より約二百年の昔 金栗仁兵衛が五ヶ年の歳月を費して開鑿(かいさく)せるもので 其延長三里余、高木島、更木の三部落に亘り 其灌漑反別大凡(おおよ)そ三百五十町歩にして 実に大なる恩恵に浴している。 続きを読む 仁兵衛、堰を開く