東十二丁目の水利 – 堰以前 –

(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28)より)

「村里は用地の開発により、用地は用水による」と云われるが、開拓の歴史を考える時、郷土の先人達が多くの困難と戦いながら、工事と取組み、築造し、管理し、修理を重ねながら長年代々にわたって受継がれて来ていることがわかる。

私達の村落は、北上山系と北上川の間に存在する集落であるが、南端にある猿ヶ石発電所から山麓にそうて北に進む時、2~300m間隔位に山から沢水が流れ落ちていることに気がつく、そしてそれぞれの沢には小さい俗に山田と称される不整形の水田が棚田となって耕作されている。その沢を登ると大ていはそこに昔使われたであろう堤が確認される。 続きを読む 東十二丁目の水利 – 堰以前 –

稗貫・和賀、百姓一揆の郷

先日帰郷した際に、旧友のS君から「稗貫和賀 百姓一揆の跡を訪ねる」と題した本を貰いました。この本は「稗貫・和賀の百姓一揆を語る会」が昨年7月に出版したもので、地元・花巻の書店では週間ベストセラーの第一位になったことが何回かあったようです。百姓一揆の跡を訪ねる

何故 「百姓一揆」をテーマにした本が今花巻で出版されたのでしょうか?
この会の金野会長が「はじめに」の中で次のように述べています。 続きを読む 稗貫・和賀、百姓一揆の郷

二本の堰

東十二丁目には二本の堰(農業用水路)が北から南に貫流していています。一本は東十二丁目の東側、北上山地の麓を流れ、大堰と呼ばれています。もう一本は長根と小袋、荒屋敷の間を流れているのですが、名前は今のところ判然としません。ここでは仮に西堰と呼ぶことにします。
この堰は猿ヶ石川から取水し、途中大きく山地を迂回し、高木で二本に分かれます。大堰は、かつては更木へと南下してから北上川に流れ出ていましたが、現在では二津屋で南西に向きを変え、神明社の西方、更木との境付近で北上川に出ています。一方、西堰は穂貫田の西でこちらも北上川に出ています。
この二本の堰は旧北上川の河道跡を流れているようですが、その成り立ち、変遷、そして現況などについて見ていこうと思います。 続きを読む 二本の堰

高木・東十二丁目・更木、幕末の百姓一揆

(及川 惇著「花巻の伝説-稗貫・和賀地方―(下)」(S58.1.30 国書刊行会)より)

南部藩の宿老、楢山佐渡の所領の中に、高木・東十二丁目(ともに花巻市矢沢)・更木(北上市更木)の三村があった。佐渡は、のちに、南部藩の秋田征伐の責任を一身に引き受けて、盛岡の報恩寺に刑死した人物である。
元治元年(1864)といえば、明治維新に先立つ4年前のことである。高木以下の3村は水田が比較的少なく、畑地と原野が多い所であった。そこで、楢山家では、この地域に新田を開発することを企画したものである。
平時であれば、もちろん歓迎されるべき事業である。しかし、当時は、天候の不順や洪水があって不作がつづき、減税や免税を訴えて、そちこちに百姓一揆が勃発していたころである。 続きを読む 高木・東十二丁目・更木、幕末の百姓一揆

石崎先生の復員から退職まで

(石崎直治著「古稀の回想」(1982.8.15 非売品)より)

石崎先生   ■ 昭和15.7.15  動員下令野砲第八聯隊に入隊、
             独立輜重兵第十九中隊に編入
         8.1  弘前出発、南支及び中支を転戦す
   □ 昭和16.12.8  太平洋戦争始まる
   □ 昭和20.8.15  天皇、戦争終結の詔書放送
   ■ 昭和21.6.1  召集解除となる

…8月15日、ジャンク船で洞庭湖を航行中、通信の兵隊が、今日終戦の詔勅が出たと教えてくれる。
何か急に気抜けし、ボーツとなって表現し切れない複雑な感情が悩裡を襲う。
口惜しい、情ない、然し俺は生きている。これからどうなる。酒でもあったら、飲んで酔い何も彼も忘れる時間がほしい。
話し合う気力さえなく、皆思い思いの夢に酔っているようである。 続きを読む 石崎先生の復員から退職まで

大正・昭和を生きる – 父の履歴書 –

/西暦 /和暦    /満年齢  /出来事
1905  明治 38.9.5       ・南樺太、ロシアより日本に割譲される(注1)
1907  明治 40.4.1       ・樺太庁発足
1910  明治 43.8.         ・日本、大韓(韓国)を併合、朝鮮と改称
1912  明治 45.3.15       ・石崎先生、生れる
1912  明治 45.7.30       ・明治天皇薨去(61才)、大正と改元
1913  大正 2.9.12   0   矢沢村東十二丁目佐藤家の長男として生れる
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