棟梁 藤原金次郎

(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28)より)
天保7(1836)年3月10日東十二丁目村に生れ、大正8(1919)年11月10日84才の高令をもって病没。氏の著作を出版順に掲げると次の通りである。
・明治新撰規矩的当図解(注1)   全1冊  明治36年7月5日発行
・振墨一覧卒業         全1枚
・振墨鼻隠並投曲尺墨仕様  全1枚  以上2点、明治38年4月5日発行届出
・扇棰割計算及図法新案   全1枚  明治38年9月24日発行届出
・工学応用智恵鏡      全4枚  明治40年10月22日発行届出
・文明開化星繰合掛割早算   1組  明治42年11月17日発行届出
規矩的当図解は現代の数学家が見ても非常に勝れたもので、当時これだけのものを書き上げたことを絶讃しているし、星繰合掛割早算は今の計算尺と同じものらしい。

藤原金次郎
78才の藤原金次郎

なお氏の経歴伝は歓喜寺にあり次のようである。

良匠藤原金次郎翁伝
良匠藤原金次郎は、稗貫郡矢沢村東十二丁目の人なり。天保7年3月10日東十二丁目字立野の農家に生る。幼時工匠たらんと欲せしも家貧にして望みを達する能(アタ)わず、17歳にして他に雇役し家計を助けたり。
20歳に至り遇(タマタマ)同部落に大火災あり5戸を全焼す、為に俄((ニワカ)に大工職の必要を生じたり。大工勝治なるもの翁を勧めて弟子となす。本より其の望む所なれば大いに精励し暫時にして技大いに進む、後5年岩手郡雫石村の観音堂建築を托せられ苦心遂に之を完成せり。堂は三間四面母屋造りにして工匠の至難とする扇棰木の構造を竣工す大いに好評を博するに至り後寺院其他を建築せしこと頗(スコブル)る多し。

於是(ココニオイテ)(マスマス)其の奥を究めんと欲するも良師なし、明治維新に際し函舘に渡航し従業中、南部藩の大工棟梁たりし木林常将氏に師事し更に其の教えに依り東京に赴き大匠旧徳川幕府の大棟梁たりし平ノ内大陽先生を訪(ト)う時駿河に移りて在らず、大いに失望し更に周(アマネ)く求めて本所緑町巨匠鈴木正豊先生に師事するを得たり。先生は「軒廻り図解」の著ありて有名の巨匠なり、居る2年余、其の奥を究め始めて多年の宿望を達するを得たり、其喜び知るべきなり。

家に帰りて子弟に教う、明治12年盛岡市に出て規矩術指南の標札を掲げ、且つ如何なる算術にても規矩を以て解答すべき旨を附記したるに、市内の少壮之を慢(アナド)り、種々の難問を試みるものありしも一々明答を与えたるに、却(カエッ)て種々無実の誹謗を新聞紙に記載せり。一日同盛岡新聞社員某来り試問する所あり、且つ同社に於て算数大家立花正蔵氏と立合わんことを求められ、直ちに快諾し、2月15日夜、立花氏に会し、其の問題に対し一々規矩を以て解答せしに其の正当なるを認め、翌日の新聞紙に其の実況を記し賞讃せられ大いに面目を施したり。

後専ら弟子に教授すること数十年、旁(カタワ)ら自ら考究発見する所を記し「規矩的当図解」1巻を著わす。明治36年出版し頗る斯界(しかい)の好評を博し大正2年大阪市に於て第2版を出すに至れり。之を帝国大学工科及び東京高等工業学校、並に大阪高等工業学校に寄贈せしに、皆之を嘉納し永く参考書に供すべき旨丁重なる謝辞を受けたり。明治37年東京に出て専ら規矩術を教授す、数年にして大阪に 転じ、教授すること7年にして帰る。其の弟子県内外を通して幾千人、盛なりと云うべし。規矩的当図解
今年翁正に84元気末だ衰えず、頃日(ケイジツ)弟子相謀りて翁の為に寿筵(ジュエン)を開き且つ其伝を石に録して之を後世に伝えんとす。
翁に請う翁来りて予に謀(モトメ)る、予不文を以て辞すべからざるものあり、敢(アエ)て其の聞く所を叙すと云う。翁二男あり長男正家業を承(ウ)く次男政治小原氏を嗣ぎ、花巻町に住し、夙(ツト)に商業に従事し頗る産を興して名あり、次に花巻町会議員たり。鳴呼(アア)翁の如きは身を貧家に起して幼にして其志を立て、艱苦を経て志益(マスマス)堅く能く之を大成し徒を教うる幾千人、書を著して永く斯界に益す、真に範を後世に垂るるものと云うべし。
松川他次郎  識   (以上…は矢沢村誌による)

[参考]
(注1) ⇒「規矩術(きくじゅつ、規矩法とも)

(2014.5.29掲)

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