賢治の見た北上川

(小沢俊郎著「北上川に沿って」(「宮沢賢治研究叢書②賢治地理」 1975 学藝書林)より)

…(註1)…本流についてはどうだろう。学生時代の北上川観を見ることは、また盛岡附近の北上川観になろう。ただし、「北上川」の名が最初に出てくるのは、

そのおきな / をとりをそなへ / 草明き / 北上ぎしにひとりすわれり

である。大正3年4月作だから、中学卒の在花巻時代の作になる(註4)。盛岡での作には、

北上は / 雪のなかより流れ来て / この熔岩の台地をめぐる  (大五・三より)

というスケールの大きい歌などがある。…
しかし、そのあといくらも経たぬうちに賢治の北上川観は変る。いや、盛岡の北上川に対し花巻の北上川が異なるのだといってもいい。「青びとの流れ」と「北上川第一夜」以下とをまず見よう。「青びとのながれ」は賢治の心の暗部を示していると思われる凄惨な景である。《生者と死者とが闘争しながら川を流れ行く叙述》で《人の世の実相に「修羅」を認めた「社会的修羅」ともいうべきもの》で《川自体が、玲瓏や透明でなく「修羅」なのである》そして《「いづちの河のけしきぞや」とは言うが……こういう意識の母胎として、北上川が考えられているのであろう》(註5)。この凄惨な短歌が出来たのは、大正7年(おそらく秋)で、高農卒業後の助手生活も切り上げた頃、そして「手紙」を印刷したりして宗教活動へ突入していった頃であり(補註2)、そこにもこの幻想の実感が生まれる一因が見出せようか。

一年後、「北上川第一夜」以下四夜、連続して夜の川岸に行った。二十四首の連作である。第一夜八首、第二夜一首、第三夜四首、第四夜六首のほかに第一夜「夜をこめて行くの歌」五首がある。これから、まず北上川を形容している語句を探そう。

そらぞらしくもながれたる北上川
虚空のごとく流れたる北上川
うつろしくながれ来て鳴る北上川
北上川そらぞらしくもながれ行く
ほのじろの川をうれひひたしぬ   (以上第一夜)
黒き指はびこりうごく北上
黒き雲ひろがりうごく北上
よるふかき雲と風との北上   (以上第四夜)

第一夜では北上の流れに何か虚しさを感じており、第二夜は「まぼろしの底」にあると第一夜を受け、第三夜は「よるの微光と水うたひ」の中に「あやしきものをわれ感じ立つ」環境に我を奪い去れと呼び掛け、第四夜は黒雲の北上川に太古の姿を感じて、「劫初(ごうしょ)の風はわがころも吹く」と歌っている。ひっくるめていえば、北上川に呑まれたのである。その大きさに自分が消え入る思いをしたのだ。北上川が恐ろしく、自分が虚しいのだ。この心象は、大正8年「店頭にて家事を手伝い」という年譜の一行を反映しているのではないか。「青びとのながれ」につぎ、花巻へ戻った賢治にとり、北上川は何かやりきれない気持を起させる場となった。憶測すれば、そういう店番の暇を盗んで散策し、自分を凝視する場だったということの方が原因で、川自体が重いものと感じられたのであろう。…

…ここで再び北上本流に戻ろう。
まず、恩田氏が論及された「あけがた」がある。

川はあんまり冷たく物凄かった。おれは少し上流にのぼって行った。そこの所で川はまるで白と水色とぼろぼろになって崩れ落ちてゐた。そして殊更空の光が白く冷たかった。
(おれは全体川をきらひだ。)おれはかなり高い声で云った。
ひどい洪水の後らしかった。もう水は澄んでゐた。それでも非常な水勢なのだ。波と波とが激しく拍(う)って青くぎらぎらした。

なぜ嫌いなのか。この作品が幻想風なものであるにせよ「(おれは……)」は賢治のことばである。水は澄んでいるのに、である。あまり烈しすぎるのか、軌(よ)り合いすぎるのか、暴虐すぎるのか。流れるということが悲しいのか。この作品中の川が北上本流であるかどうかはわからないが、これが川そのものであるとはいえよう。恩田氏はこれに《とにかく、川の示す或る様相は、賢治にとって暗い意識を誘う要因となっている。あるいは人類相剋の社会を思わせ、あるいはあまりに非情な姿が反撥を感じさせている》と説明された。
私は、この後に洪水の幻想がつづいている所から、洪水を通しての自然の暴虐への恐れが嫌悪の中心と考えたい。そういえば、「北上川第一夜」以下で見た北上川の悠久に触れた無力感が、怒れる川を恐れ、その激しい闘争に耐えがたかったのだといえないこともなかろう。なお「あけがた」は教師二年目の作で、まだ川のどす黒いほどの力にぶつかってはいない。農耕一年目8月の作「増水」はその恐ろしい力をまざまざと見た詩である。

悪どく光る雲の下に
幅では二倍量では恐らく十倍になった北上は
黄いろな波をたててゐる
(中略)
下流から水があくって来て
川あとの田はもうみんな沼になり
豆のはたけもかくれてしまひ
(中略)
水はすでに
この秋の糧を奪ひたるか

自然の暴力は生活を根底から押し流す。この時北上川は敵である。「春と修羅 第二集序」に記しているように、

北上川が一ぺん汎濫しますると、百万疋の鼠が死ぬのでございますが、その鼠らが、やっぱり、わたくしみたいな言ひ方を、生きてゐるうちは、毎日いたして居りますのでございます。

懸命な一人一人の生活をあっさり奪い去る自然の暴威への恐れと怒りと、しかも個々の生活を続けずにいられない意欲とが溢れている。
北上川は、敵でなくとも嫌な所を持つ。上流の清らかさと異なって、大河北上は清濁合せ呑む。清濁合せ呑むという人間が、往々濁濁合せ呑むように、北上の岸には汚辱がまつわる。「夜」「(鉛いろした月光のなか)」の嬰児遺棄場、酒買船のルートとなる北上川。再び恩田氏の言を借りれば、《人間生活のさまざまの澱のようなものをもふくみ、悲哀や汚濁や確執の影を映しうす濁りの水をたたえて大河は重く流れている。》
誰もやるように、賢治も川岸に一人で立った。ひとりになるために。すると思慕がそそられる。「たったもう一つのたましひと」行こうとする思いを観念では否定しているだけに、苦しい。「修羅」と自らを意識する。北上川は「修羅の渚」となる。賢治の「修羅」意識が最も強く出るのは、抑圧された性を感ずる時と思われるが、その典型的な場が北上岸だったし、イギリス海岸であった。…

私としては、北上川のプラス面にも触れずにいられない。一つは地史的なことで、もう一つは郷土意識である。
地史的な興味については、…イギリス海岸で化石を拾ったということが、どんなに賢治の想像力を飛躍せしめたであろうか。まざまざと目前に太古の姿を描き出す。「北上川第四夜」で劫初の風を感じた時は、まだその太古の地形までは目に浮べていなかったろう。「イギリス海岸」や「作品第一〇一三番」では、くるみの木やはんの木の茂った様子、火山が噴火する姿、入海が埋ったり、どうやって木々が化石となってゆくかが、まるで遅速撮影フィルムで写したように描かれる。
地学的知識と詩的想像が融け合っている。悠久を感じたのが知ったことと重なって、ちょうど科学と宗教の重なりのように、独特の文学となっているのである。そういう地史的な興味がことにこの場合著しいのは前述したように化石の故であろう。具体を通して一きょに本質を掴むというのが賢治の発想だから。
北上川と地史の他の例として二つ引く。前者は文語詩、後者は「第二集」である。

ま白き波をながしくる / かの峡川と北上は / かたみに時を異にして / ともに一度老いしなれ  (眺望)
ふたたび老いる北上川は / あるかなしに青じろくわたる天の香気を / しづかに受けて滑って行く  (有明)

一度老いる、とか、二度老いる、とかは、地形の幼年期、青年期、壮年期、老年期という循環を思い浮べてのことと思われる。何気ない一句中にもこういう句が入るほど、北上川が知的関心を惹き、悠久を感ぜしめたのである。

好むと好まぬとに関らず、自分が自分であるように、郷土もまた郷土である。ある時は恐れを与え、時に悠久の古に連れかえり、時に修羅の心境に引き入れた北上川は、山が憧憬の的であったと対照的に、生活に密着している。北上川の岸での農耕生活はもちろんながら、広く一生が北上川と離れていない。だから北上川は、「生れるから北上の河谷の上流の方にばかり居た私たちにとっては」(イギリス海岸)郷土の象徴であった。故郷を離れて旅立つ農学生が、夜の郷里へ呼びかけたのも、

さよなら、北上山地、北上川、岩手県の夜の風。  (或る農学生の日誌)

であった。旅立つ賢治も幾度か繰り返したことばであろう。…   (昭和37年12月10日)

註1:恩田逸夫氏が「跡見学園国語科紀要10」に「宮沢賢治と川・橋・らんかん」を書かれており、川とくに北上川と賢治との関係を分析解明されている。本稿は同論稿に負うところが多い…
註4:この鳥捕りが「銀河鉄道の夜」の鳥捕りに発展していくと恩田氏は指摘された。
註5:以上引用すべて恩田前掲論文。…
補註2:「手紙一~三」の印刷は、この原稿執筆当時「大正7年8月」とされていたが、…「大正8年9月」と考えられるようになった。

(2014.9.17掲)