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「東十二丁目誌」と石崎直治先生

MrIshizaki私が東十二丁目のあれこれを調べるに当ってまず参照するのが「東十二丁目誌」(平成2年刊)、その著者が石崎直治(なおはる)先生です。
先生は私が中学生の頃の矢沢中学校の教頭でした。昭和30年代のことです。先生は社会科と職業科を教えていましたが、私達の学年の担任ではなく、授業も担当していなかったと思います。そのせいもあって学校での先生の印象は薄く、あえて言えば、失礼な言い方ですが、「面白くもおかしくもない先生」という感じだったように思います。

そして先生のことを思い出すこともなく数十年が過ぎ、父の書架に「東十二丁目誌」を見つけたのが平成10年頃だったでしょうか。最初に読んだときはあまり興味を引きませんでした。史料からの引用が多く、通読し難かったからです。
しかし今では、先生の解釈だけでなく、史料の原文や読下し文をそのまま読むことができる本書は大変貴重なもので、有難く思っています。

先生がいつ頃、どのような意図を持ってこのような大部の著作を志したのか?
「東十二丁目誌」のあとがきで次のように述べています。

  あとがき
齢七十を数えたのが昭和五十七年、その年「古稀の回想」を記して私の人生の一区切とした。そしてこれからの生きる目標を何に求めようかとあれこれ考えたが、想定されたテーマは「ふるさとの探求」であった。
山と川の美しい自然に恵まれたこの村里に生まれ、育ち、生き長らえ、やがては故山に眠るであろう私であるが、長い年月を過ごさせていただきながら郷土について余りにも知ることの少いことは申訳ないことであり残念なことで、これに残された自分のエネルギーを燃焼させて見ようと考えた。

歴史的な素養も無く、参考の図書や関係の資料なども手許に無い、全く無の出発であるから大変心細く思ったが、幸いに昭和五十二年度以降市の教育委員会から、博物館資料調査員の委嘱を受けて居り、矢沢地区の旧家を尋ねては、古い歴史の所産であるいろいろな器物や古文書を見せていただき、昔のこと、古いものに愛着と親しみを感じていたことが、せめてもの勇気づけになりスタートにふみ切った。
春夏秋冬と月日は容赦なく進むし、仕事は思うように進捗せず迷いが続いたが、まず東十二丁目の古文書の収集に始まり、更に村に関係のある文献や図書を探しコピーすることで三年程は過ぎてしまった。次の難関は古文書の解読で資料価値の高いものから手をつけたが漸く三分の二程度を終り、残りはこれからの課題となっている。現地踏査は新たな見聞が多く楽しいものであった。

老化現象は待ってくれない、資料の整備も不十分であったがまとめにかからねばならなくなり昨年から書きはじめた。時代区分の決定、各時代の年表、バックとなる地方史の概要、それに調査した資料を年代別に配置するような形で進めたが、ここでは内容の乏しさが痛感されたし、資料を原文のままで書いて見たが、読みにくい文体が多く読み下し文に改める等で余分な時間がかかり、またある事項については二者択一が出来ず結論を後日に委ねたものも数件あった。

七年に亘る挑戦の結果は実り少いものに終ったが、老後の学習に免じていただき、東十二丁目の「ふるさとの探究」の一つのレポートとしてお読み下さるなら誠に幸甚の至りであります。
おわりに「東十二丁目誌」刊行にあたり、長期にわたり御指導を賜りました古川正見氏、佐藤昭孝氏に深く感謝を申し上げますと共に、古文書や資料を提供下さいました地区の皆様並びに発刊について特段の御尽力をいただきました北上プリント中島良氏に対し厚く謝意を表するしだいです。

平成元年十一月三日

Hgsh12mshCover「東十二丁目誌」  目次

私の父は大正2年生れで石崎先生と一つ違い、同じ中学教師でした。必ずしも初めから教師を志していたわけではないこと、先の大戦での戦地体験、昭和36年の学力テスト実施問題で教頭と教組組合員という二足の草鞋を履かされ苦労したことなど、重なる部分が多く在ります。しかし大きく異なるのは、父は何も書き残さずに逝きましたが、石崎先生は「古稀の回想」と「東十二丁目誌」という著作を残されました。

昭和57年(1982)に発刊された自叙伝「古稀の回想」の中で、ご自分の経歴を次のように記されています。

 □  経歴の概要
明治45. 3.15  出生
大正7.4.1   矢沢尋常高等小学校(島分教場)に入学す
大正15.4.3  岩手県立花巻農学校に入学す
昭和4.3.30  同校卒業
昭和5.7.31  宮野目村農会技手拝命
昭和8.1.20  盛岡騎兵第二十三聯隊に入隊す
昭和9.11.30  満期除隊
昭和10.1.31  八重畑村農会技手拝命
昭和10.3.31  矢沢村役場書記を命ぜらる
昭和11.2.5   稗貫郡外川目村立外川目青年学校指導員を嘱託さる
昭和11.10.31  宮野目尋常高等小学校代用教員に採用となる
昭和11.12.15  同校訓導に補せらる
昭和13.3.31  宮野目青年学校助教諭となる
昭和15.7.15  動員下令野砲第八聯隊に入隊、独立輜重兵第十九中隊に編入
         8月1日弘前出発、南支及び中支を転戦す
昭和21.6.1   召集解除となる
昭和21.10.31  矢沢国民学校勤務を命ぜらる
昭和22.4.1  矢沢中学校勤務を命ぜらる
昭和27.9.1  産業教育に関する内地留学生として岩手大学農学部に於て研修(5ヶ月)
昭和34.4.1  宮野目中学校教諭に補せらる
昭和35.4.1  花巻中学校教諭に補せられ同校教頭を命ぜらる
昭和40.4.1  大槌町立赤浜小学校長に任命さる
昭和41.4.1  釜石市立大松中学校長に任命さる
昭和42.4.1  釜石市立釜石西中学校長に任命さる
昭和44.4.1  花巻市立湯口中学校長に任命さる
昭和46.3.31  定年により退職す
昭和46.5.19  矢沢農業協同組合理事に選任さる
昭和46.6.1  矢沢公民館分館長に任命さる
昭和47.7.1  花巻市社会教育指導員の依嘱を受く
昭和49.10.1  湯口中学校講師を命ぜらる
昭和50.3.1   人権擁護委員に委嘱さる
昭和50.3.31  湯口中学校講師解任
昭和51.8.1   矢沢公民館長に任命さる
昭和51.10.1  花巻市図書館協議会委員に任命さる
昭和51.12.20  花巻市博物館資料調査員の委嘱を受く
昭和53.4.1   下組公民館長となる
昭和53.8.5   島南集落センター建設委員長に選任さる
昭和55.3.31  矢沢公民館長解任
昭和57.4.13  矢沢地区部落公民館連絡協議会長に選任さる

現在(昭和57年)
人権擁護委員・花巻市図書館協議会委員・花巻市博物館資料調査員・矢沢地区部落公民館連絡協議会長・花巻市明るい選挙推進協議会委員・花巻市老人趣味の会書道部講師・花巻史談会委員・花巻農業高校同窓会会計監査・同校八〇周年記念会館建設委員・下組公民館長・島南少年少女教室実行委員長・花巻市人材銀行講師・島南書道塾経営・胡四王史談会副会長・神明社世話人(会計)

先生は平成6年3月30日に亡くなられました。享年 82才。

“「東十二丁目誌」と石崎直治先生” への3件のフィードバック

  1. 拓男様
    実に懐かしく、いい写真を見ることができました。約60年前の写真と思いますが何か時間の経過を感じさせない写真です。
    しかしどうしても4人の先生方のお名前を思い出せないのが悔しいです・・。
    私にとって強く印象の残っている授業は志村先生の理科の授業です。
    先生のお人柄についてはいろいろ見方があったようでしたが、授業自体はとても理解しやすく、理科の分野に興味を持たせて貰えた様に思います。
    思い出すと先生は現在の富士重工の前身の中島飛行機で技術者をしておられたとのことで、やはり教え方や内容が具体的だったため理解しやすかったのだろうと
    思ってます。〔試しに送付してみました〕
       2015.2.25  征男

    1. 征男兄
      今、花巻です。
      写真は中学校の卒業アルバムからのものです。
      先生のお名前は、帰宅後確認してからコメントします。
      なお、ネットにフルネームを晒すのはどうかと思い、勝手に貴兄の苗字を外しました。

  2. 同じアルバムにあった先生方の寄書きとマッピングしてみると…
    前列右側から、志村、川村晴夫、梅津誠介、安藤寛、石崎、多田盛雄、熊谷の各先生、
    後列右側から、川村、大村孝子、古川ミサ、小野崎、みつぎ(千田貢)、市野川、高橋良孝の各先生。

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