高木・東十二丁目・更木、幕末の百姓一揆

(及川 惇著「花巻の伝説-稗貫・和賀地方―(下)」(S58.1.30 国書刊行会)より)

南部藩の宿老、楢山佐渡の所領の中に、高木・東十二丁目(ともに花巻市矢沢)・更木(北上市更木)の三村があった。佐渡は、のちに、南部藩の秋田征伐の責任を一身に引き受けて、盛岡の報恩寺に刑死した人物である。
元治元年(1864)といえば、明治維新に先立つ4年前のことである。高木以下の3村は水田が比較的少なく、畑地と原野が多い所であった。そこで、楢山家では、この地域に新田を開発することを企画したものである。
平時であれば、もちろん歓迎されるべき事業である。しかし、当時は、天候の不順や洪水があって不作がつづき、減税や免税を訴えて、そちこちに百姓一揆が勃発していたころである。(注1)
藩では、行き詰まった財政の打開に根本的な方策を講じようともせず、ただ水田に重税を課しては過酷な督促をしていた。畑地を水田に切り替えることについては、いずれの村でも、反対の気運が濃厚であった。佐渡は、明らかに時勢の判断を誤ったものといわなければならない。(注2)

開田のことについて藩主の許可を得た佐渡は、翌慶応元年になると、大光寺市右衛門を臥牛(北上市更木)に派遣して、実地測量にあたらせるとともに、その事業の奉行に任じた。土木工事には、和賀郡飯豊(いまの北上市)の斉藤易次郎と、岩手郡大更(いまの西根町)の工藤寛得の両士が起用されて、これにあたった。易次郎は、猿ケ石川沿岸の蓑淵(みのぶち)の上流に人夫小屋や事務所を設けて、権現淵から上水する見込みで工事を開始した。
ところが、人夫たちの食糧として、土地の者から米・味噌などを買い入れようとしても、さらに売ってくれる者がない。いくら値段をつり上げて交渉してみても、むだである。易次郎も、これには、ほとほと手をあげてしまった。このときには、同じ楢山家の家士であった矢沢の態谷徳寿郎が、事の成り行きを案じて、これらの食糧を供給している。
この年の10月にはいると、大勢の土工たちが盛岡から乗り込んできて、工事もようやく順調な進捗を見せた。そのさなかに、台風の襲来に遭って、せっかく構築した水路がそちこちで崩れたりするなどの災禍もあったが、それもどうやら修復することができた。

12月15日は、折から東十二丁目村の鎮守、熊野神社と、その東南にある竹原の牛頭天王社の火たき祭りの日である。この日の夜には、この地方の者たちは、女や子供にいたるまで、大勢が両社の境内に集まって、ときの声をあげる風習があった。
3村の百姓一揆の準備は、この祭りの日を好機として着々と進められていた。この祭りの前日、14日の夜には、各村の同志たちが長志田(東十二丁目)の山中に集まって、浮田(和賀郡東和町)・更木・臥牛・東十二丁目・高木・平良木(花巻市矢沢)などの村民を駆り出す手はずをととのえている。
翌15日は、いよいよ火たき祭りの当日である。一揆の中枢は、この日、熊野神社の境内に集結していた。宵やみの迫るころから、火たき祭りの行事がはじまった。その喧騒とときの声に紛れながら、一揆の人数は、四方から行動を開始した。
一揆の首脳部は、その夜のうちに、態野神社からさらに更木に移動して、以後の方策について協議を行ない、各戸から必ず一名の参加者を勧誘することに努力を集中した。
その翌日、12月16日の夜にはいると、村々からは、貝の音が響き、むしろ旗が動きだした。
そして、
  「やー、出ろやー、出ろやー、出ないと、踏み込むぞやー」
と、ときの声をあげながら、所定の場所に向かって進みはじめた。平沢(北上市立花)や更木の人数が北方に動いていくと、たちまちにそれは大群集となり、高島道路を通過して高木小路に出た。

高木小路には、花巻城の下級役人が出張っていて、いちおうひととおりの止め言葉があったが、もちろん、そんなことで踏みとどまるような一行ではなかった。後から後からと詰めかける群集は勢いを増し、盛岡に行こうという声が起こって、一行は、たちまちのうちに安野の渡船場に押し寄せた。
渡船場の舟は、花巻城からの通達によって、すでにことごとく引き揚げられていた。一行は、そのまま、ざぶざぶと猿ケ石の川中になだれ込んだ。折から寒中の凍るような川水をものともせずに、この大群集は、一隊また一隊と渡渉をつづけた。
冬の川を渡りきった一揆の群集は、17目の夜明け方に、矢沢村の態谷家に立ち寄って、たき火を所望した(一説には、乱暴を働いたともいう)。そして、昼ごろには、八重畑(稗貫郡石鳥谷町)の五太堂に到着した。ここで、一行は、小原多助の家に立ち寄って、炊き出しを受けた。
この一揆の群集が行進するのに、更木から八重畑の関口まで、およそ後5里(約20キロ)の行程に2日間を費やしている。互いに人員を点呼して、落伍するのを防ぎながら歩いたためであるという。「あ」と「うん」の語をその合い言葉とし、東十二丁目組は烏組、更木組は桜組というように呼び、各村に責任を持たせて進んでいった。

八重畑関口まで行くと、そこには、北家の家士が出ていた。北家は、花巻城草創のころの城代、北松斎の三男、九兵衛直継の後裔である。文政4年(1821)の「惣御高目録」によると、稗貫では関口・滝田・猪鼻・八重畑・戸塚・黒沼(いずれもいまの石鳥谷町)、和賀では下小山田(いまの東和町)、それに、閉伊では上・下宮守(いまの上閉伊郡宮守村)などを、当時その所領としていた。その先祖が、和賀・稗貫の二郡に仁政をしいて農民を大事にした余徳が残っていて、百姓たちも北家には一目置いていた。
北家では、一揆の群集に向かって、願いの趣は必ずすぐに盛岡に取り次ぐゆえ、しばらくとどまるように――と話した。一揆の人数は、ここで炊き出しと宿割りを受けて、その夜は関口に宿った。
翌18日になると、北家の取り次ぎが効を奏したものと見えて、盛岡から早馬で、大崎富栄・照井謙三の両士が駆けつけた。両士は、一同を集めると、こう言った。
「そのほうたちの願いは、必ず聞きとどけてつかわすゆえ、歎願の趣をこれに申し出よ」
かねて用意してあった陳述書が、一揆の代表者たちによって差し出された。その内容は、
  一、未納者は免除のこと
  一、畑地変換中止のこと
  一、買米中止のこと
の3ヵ条であった。一同は、こうして、そのまま帰路についた。その途中で、群集は、蓑淵の人夫小屋と事務所に火を放って、これを焼き払っている。

一揆の同勢は、関口で陳述書を提出したことによって、その目的は達せられたものとばかり思っていたのだが、事はそのようには運ばなかった。翌慶応3年になると、藩から捕り手の役人が下って、更木の目明かし役の小田島玉蔵方に逗留し、一揆の首謀者の探索に乗り出したのである。
首謀者の一人、小田島守治は、このとき、いちはやく仙台領に逃れ出た。検挙されたのは、押切藤左衛門(注3)・佐藤源四郎(注4)・佐藤源右衛門(注5)・小田島伝三郎・菅源右衛門らである。古川孫左衛門(注6)は、一月ばかり隠れていたが、のち自首して縛についた。矢沢上組頭の某は、拷問に耐えかねて北上川に飛び込み、自殺をはかるなどの悲劇も出て、各村ともたいそうな騒ぎになった。
小田島伝三郎と菅源右衛門の二人は、そののち、議言(ざんげん)によって罪を着たものであることが判明して、その年の暮れに放免された。その外の者たちは、盛岡の牢に入れられて、厳しい取り調べを受けた。そうこうするうち、陳情書をしたためたのは、更木の永昌寺住職であることがわかり、捕り手が更木に急行した。しかし、永昌寺の得丈和尚は、そのとき、すでに東磐井郡黄海村(いまの藤沢町)の宝珠寺に逃れていた。

時に慶応四年(1868)、鳥羽・伏見の役にはじまった動乱は、東北地方をもその渦の中に巻き込み、南部藩は官軍に降伏した。明治と改元されたのは、この年9月のことである。藩は廃されて、新たに県制がはじまった。百姓一揆の責任者の断罪などは、論外の時勢となって、一同は、牢から釈放されて、それぞれの村に立ち帰った。

南部藩は、百姓一揆の件数の多いことで全国的にも知られている。三陸地方を中心に発生した弘化・嘉永(1844―1854)の大一揆は、その中でも特に著名なものである。封建制度は、いよいよその矛盾に満ちた体質をあらわにして、その根幹から揺らぎはじめていた時期のことである。旧稗貫・和賀地方に起きた一揆も、もちろん、けっしてこれのみにとどまるものではない。
ここには、参考までに、他の2件を付記しておく。
この一揆のあった慶応2年(1866)にも、稗貫地方の農民は、和賀郡岩崎(いまの和賀町)の検見(その年の作柄の調査)に関する強訴に同じて一揆を起こし、志和(紫波)にいたっている。高木以下の3村から起こった一揆もまた、それに連動したものであったのはいうまでもない。
また、これより先、天保2年(1831)には、稗貫・和賀・志和三郡の農民が騒動を起こし、翌天保3年の正月にいたって、稗貫・和賀両郡の農民は、大挙して仙台領に越境して、南部藩の非政を訴えた。驚愕した藩当局は、このとき、新税の廃止と年貢の減免を約束し、また越訴の首謀者を罰しないことを誓約して、事態を収拾した。しかし、そののち、この一揆の代表者7人は、捕らえられて、はりつけに処されている。(注7)

[補足]
(注1) 開田計画の評価:「東十二丁目誌」が引用する「矢沢村誌」(1954.3)では、「当時この開拓を完成してあったならば、現在本村に於て大なる恩恵に浴したであろう。此の頃他方面にも広くこの暴挙に雷同蜂起するものあって、安俵、中内、春山、谷内方面にも現れたということである。要するに直接本事件に関係なくも気候不順の上凶作であったから、農民の苦境甚だしく藩に納める買米を免除されたい為に示威運動をしたということである。」と評しています。
(注2) 楢山家の事情:この開田計画前後の推移など、楢山家の事情が「『戊辰前後の楢山氏』について(紹介」」に詳しい。
(注3) 押切藤左衛門:押切総本家当主
(注4) 佐藤源四郎:音坂佐藤家当主、私の祖母の曽祖父
(注5) 佐藤源右衛門:佐藤総本家当主
(注6) 古川孫左衛門:古川総本家当主、肝入、私の母の実家の本家、孫左衛門家のその後がこちらにあります。
(注7) 天保2年・3年とありますが、天保7年(1836)・8年とするのが通説です。

(2015.1.5掲/2.20改)

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