和賀岳

稗貫・和賀、百姓一揆の郷

先日帰郷した際に、旧友のS君から「稗貫和賀 百姓一揆の跡を訪ねる」と題した本を貰いました。この本は「稗貫・和賀の百姓一揆を語る会」が昨年7月に出版したもので、地元・花巻の書店では週間ベストセラーの第一位になったことが何回かあったようです。百姓一揆の跡を訪ねる

何故 「百姓一揆」をテーマにした本が今花巻で出版されたのでしょうか?
この会の金野会長が「はじめに」の中で次のように述べています。

「稗貫和賀の百姓一揆発生件数はたいへん多く、全国最多であった南部藩の中でも、一、二位を占めています。現在の花巻市・北上市には多くの史跡があり、それだけに、地域の方々の百姓一揆への関心は高く、私たちが主催・共催した百姓一揆講演会は、いつも盛況でした。
しかし一方では、「このあたりも、百姓一揆があったのですか?」と、びっくりする方が意外に多いことも分り、多くの方々に知っていただく活動が必要ではないか、と考えるようになりました。

百姓一揆は幕府や藩に反逆した暴動、指導者は打首・獄門に値する極悪人という 誤った認識も、まだ少なくありません。村人たちが、自分たちの生活と営農を守り向上させるため、藩の悪い政治を改めるよう要求した規律ある計画的な運動だった、というのが百姓一揆の真の姿でした。
こんな動機と目的から、力不足ながら、小冊子を作成発行いたしました。
凶作や飢謹とたたかいながら築き上げた暮らしを守るため、智恵と力を結集した百姓一揆の跡、打首・獄門覚悟で村人のため先頭に立った指導者の生家跡や墓があります。
この小冊子を手にとられて、百姓一揆指導者のご子孫などへの敬意も表しながら、跡を訪ねて下さることを願って止みません。…」

本書の構成は次のようになっています。

『稗貫和賀 百姓一揆の跡を訪ねる』
はじめに        会長 金野昭人
発刊に寄せて         茶谷十六

目 次
一 延享元年新田開発反対一揆の跡を訪ねる
1 延享元年新田開発反対一揆の概要………… 1
2 新田開発の問題………… 3
3 藤根村四郎右衛門供養碑………… 5
4 猫谷地惣左衛門墓地………… 7
二 寛政の一揆の跡を訪ねる
1 南部藩初の全領一揆の概要………… 9
2 松山寺顕彰碑~錦鍠天佑和尚・下川原嘉右衛門ここに眠る~………… 13
3 一揆勢が結集した松崎阿弥陀堂………… 15
4 藩の処刑場花巻向小路殺生場………… 17
三 天保七年稗貫和賀百姓一揆の跡を訪ねる
1 天保七年稗貫和賀百姓一揆の概要………… 19
[コラム1] ほら貝………… 22
2 天保義民の碑………… 23
3 亀ヶ森村覚十郎墓地・生家………… 25
4 亀ヶ森村喜太郎墓地・喜太郎観音………… 27
5 小山田村吉田宋恕墓地………… 29
6 一揆勢が役人と衝突した「寺の下」………… 31
7 百姓一揆と関口番所跡………… 33
[コラム2] 処刑地「三方塚」………… 35
四 天保八年仙台藩越境一揆の跡を訪ねる
1 天保八年仙台藩越境一揆の概要………… 36
2 藩境塚………… 39
3 一揆勢が越境した三十人町………… 41
4 一揆勢が突破した鬼柳番所………… 43
5 一揆勢が押し寄せた仙台藩相去番所………… 45
6 笹間村忠右衛門生家・墓地………… 47
7 上根子村喜四郎が眠る法領公葬地………… 49
8 太田村与右衛門生家跡………… 52
9 太田村万助墓地………… 53
五 慶応二年減税一揆の跡を訪ねる
1 慶応二年減税一揆の概要………… 55
2 藤右衛門墓地・生家………… 57
3 重兵衛墓地・生家………… 59
4 頒徳碑~藤右衛門・重兵衛~…61
[コラム3] 同口M園固慶慮二寅ノ巻………… 63
[コラム4] 一揆密談の地 ぬだっ川原(から)…………64
六 稗貫和賀の餓死供養塔を訪ねる
1 南部藩四大飢饅とは………… 65
[コラム5] 石碑「地獄鬼畜生」の謎………… 67
2 花巻の餓死供養塔………… 68
・松庵寺の餓死供養塔
・矢沢 宝昌寺・高木寺観音堂
・北湯口 五龍墓苑・狼沢稲荷神社
3 石鳥谷の餓死供養塔………… 73
4 大迫の餓死供養塔………… 75
5 東和の餓死供養塔………… 77

資料1 稗貫和賀の主な百姓一揆一覧………… 79
資料2 盛岡南部藩地域別一揆件数………… 81
資料3 全国の百姓一揆発生件数………… 83
資料4 南部藩の重税………… 84
あとがき・編集委員………… 87

表 紙 写真(天保義民の碑、あんどん祭り音頭上げ)
裏表紙 写真(頒徳碑)

疑問2
南部藩の百姓一揆発生件数が全国一であった理由として、稲作北限地での無理な開田・耕作、気候不順による冷害・飢饉の多発、さらには藩の悪政・失政が挙げられていますが、その南部藩の中でも稗貫・和賀両郡の発生件数が一、二位を占めるとのことです。
本書によれば、南部藩で起きた214件の一揆の内、稗貫郡が56件、和賀郡が43件、三位の閉伊郡は31件とされています。
南部藩の中では農業適地が多かったと思われる稗貫・和賀2郡で百姓一揆が多発したのはなぜなのでしょうか。
農業適地であればこそ、藩の要求が過大だったのか、それともこの先進地域の農民の要求レベルが他に比べて高かったのか?
本書の第二章「寛政の一揆の跡を訪ねる」の中には「盛岡以南鬼柳藩境までの地域は南部藩穀倉地帯であり、歴史的に藩の収奪の中心地となってきた地域である。この地の百姓が怒り一斉に蜂起したのは当然であった」とあります。

本書では百姓一揆を「藩の悪い政治を改めるよう要求した規律ある計画的な運動だった」と位置付けていますが、その実相はどうだったのでしょうか。
とりわけ一揆を先導することも多かった村肝入役等の有力者の生活、意識・心情など興味は尽きないのですが、残念ながら自分で探究する知力も気力もありません。
村の肝入は一面では藩の行政執行機関の末端として機能し、他方で農民の代表者として藩に対峙する立場でもあった…という複雑で微妙な役割を担っていたと想像するのですが。

藤右衛門・重兵衛頌徳碑(しょうとくひ)
S君からこの本を貰った翌日に頌徳碑を見てみようと、北上市和賀町山口瀬畑を訪ねました。
まず驚かされたのは雪の多いこと。花巻市東十二丁目から南西に直線距離約15km、車で30分程度のところなのですが、積雪量が全然違います。
ちょっと意外だったのは、瀬畑橋のたもとにある店で写真を見せて頌徳碑に行く道を聞いたのですが、分からないと言われたこと。ほんの2~300mしか離れていなかったのですが。
「山口小学校の跡」と言って、何とか分かりました。

頌徳碑

さて、私がこの碑を見ようと思ったのは慶応二年減税一揆の指導者、藤右衛門と重兵衛のためではありません。この碑は2人の他に佐藤源太郎と高橋周吉をも顕彰しているのです。そして私が関心を持ったのは、耕地整理に功績を残したという佐藤源太郎。東十二丁目にも北上川の堤防建設などに尽力した佐藤源太郎という有力者がいました。ひょっとして同一人物では?と気になり、確かめに行ったのです。深い雪の校庭跡を横切り、碑にこびり付いた雪を払って碑文を読んでみると…全くの別人!

「稗貫和賀 百姓一揆の跡を訪ねる」の出版記念講演会と祝賀会が、2月14日に花巻のホテルで開催されました。

 (2015.2.19掲)

“稗貫・和賀、百姓一揆の郷” への2件のフィードバック

コメントは受け付けていません。