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仁兵衛、堰を開く

(中村萬右衛門編纂「更木村誌」(S5.12. 発行者不詳)より)

■■ 灌漑排水路 ■■
更木村水田二百町歩の内 臥牛(ふしうし)部内の田と山手方面に於ける沢水利用の小面積の棚田を除ける大部分は仁兵衛堰及中井堰の用水に依るものである、此の用水堰は猿ヶ石川の水を利用せるもので蓑淵(みのぶち)と云う所より高木島を経て本村を流過せしむるもの 之を仁兵衛堰と云うのである。これ今より約二百年の昔 金栗仁兵衛が五ヶ年の歳月を費して開鑿(かいさく)せるもので 其延長三里余、高木島、更木の三部落に亘り 其灌漑反別大凡(おおよ)そ三百五十町歩にして 実に大なる恩恵に浴している。今 金栗の平野仁右衛門氏に伝わる設計図によりて当時の工事を推想するに その大事業たりしを感ずると共に苦心経営の跡歴然たるを覚ゆるものがある 竣工は元録十四年(1701)なりと云う(注1)

設計書写
大たるみ水門の下 浦倉よりかみ 無さらえ場所二百六十八間。工事区域を五十番に分つ。
五十番 百間 安野 二尺堀 人夫二十人 四十九番 百間 二尺五寸堀 二十五人… 四十四番 百間 三尺堀 土手高二丈 人夫四十人… 三十九番 百間 ホリサラエ十人… 二十一番(松ヶ沢天王林) 六十四間 土手一丈五尺 堰巾二間 中居堰分る 人夫九十人… 二番 百間 堀サラエ七人 一番 百間 堀サラエ十人(注2)

中井堰、島部落松ヶ沢付近より分れ本村平地の中央部を貫きて流れ其延長一千八百三十二間、堰代二間、幅下堤七間上堤五間の排水堰である。

明和年間に於ける用水堰書上惣間数の覚左の如し
仁兵衛堰惣間数の覚
一、四千九百十一間。揚口より鍛冶屋まで、
一、二百間。    鍛冶屋より久田まで、
〆五千一百一間也
中井堰惣間数の覚
一、千八百三拾二間。松ヶ沢の樋尻より久田の落合まで、
□□□明和三年戌(1766)三月
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□高木肝入 惣十郎
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□島 肝入 与兵衛
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□更木肝入 善兵衛
新渡戸伝蔵様
斗内清六様

■■ 平野仁兵衛 ■■
JinbeeMnmnta己を捨てゝ他人の為に尽くさんとする犠牲的精紳に乏しいと嘆かるゝ我が村に、名利を追わず富貴を望まず 真に公利公益の為に図って自巳を顧みなかった平野仁兵衛翁のあったと云うことは実に砂中の金玉とも申すべく又郷土の誇りであらねばならぬ。
翁は本村金栗に生れた元禄時代(1688-1704)の人である。祖先は仙台に住んでいたが寛政(?ママ)の頃当村に移住したとのことで 今の平野仁右衛門氏は其後である(注3)、古来郷党(きょうとう)の名家として今に連綿として継続されている、仁兵衛翁の時代は其最も栄えたる頃であつて資産豊であったとは云うが 而も財を用うるに公共を主眼とし 其事業として万代不易の仁兵衛堰を残せしは実に偉とするに足る、翁嘗(か)つて曰く盛岡に至るまでの小川堰に万年橋を架せんか將(は)た村の用水堰を開鑿せんか。と、其の企何れ劣らぬ公盆の美挙であつたのであるが沈思熟慮遂に後者を撰ぶに至つたのである、当時更木村の用水は渓流溜池等に依るの外なく少しく旱天うちつづけば全村水の不足を嘆ずるの有様で其不便なること其不利なること実に想像の外であつた。茲に於いてか翁挺身此の難工事に当り遂に猿ヶ石川の簑淵より高木島を経て全村を灌概し北上川に通ずる延長五千百一間の用水堰並に其排水渠たる中井堰一千八百三十二間の用水堰を竣工するに至つた、其落成の日には揚口より自宅まで工事用の一切用具を積込たる小舟に乗つて流れて来たと云うことである、其成功の得意将(まさに)に凱旋将軍の意気ありしを見る。
而して此の工事の大規模なる 其経費の莫大なる 其設計其監督に大なる苦心の伴いぬ、而も其影響の長く且広き 誰か其功績の偉大なるを嘆称せざるべき、仁兵衛堰の名蓋(けだ)し永遠に氏の功労を語る記念でなければならぬ。
最後に翁が真に高潔なる人格の所有者であり、真に名利を求めぬ仁者であった一つの挿話(エピソード)がある。それは仁兵衛堰の出来上がった元禄十四年十二月、官其功を称揚し禄百石を与えんとしたが翁は我が家祖先より農を以って業とす、子孫末代士分となってはならぬとの家訓あればお受申すことは出来ない。といって固く辞したということである。宝永二年(1705)九月八日病を以て永眠した、量山永壽居士は其牌名である。(注4)

[補足]
(注1) 堰開鑿工事:「東十二丁目誌」には、「元禄十二年に始り同十三年に堀極め水を通し候得共、至て水流細く相見え、同十四年に再び堀直し通宝に相成り万民の喜び大也」とあります。
(注2) 設計書:「東十二丁目誌」にも同様の工事内容が記されているのですが、人工数が大きく異なり、多くの区間で本書の人数の2倍になっています。詳しくはこちらをご覧下さい。
(注3) 平野家:現在の当主・牧郎氏は更木島東部土地改良区の最後の理事長、北上市議会議長等の要職を歴任され、平成21年に旭日小綬章を受章されました。
(注4) 仁兵衛の功績を讃えた頌徳碑が、同家の北側に昭和12年に建立され、その後昭和63年には圃場整備のため現在の位置に移転されました。

(2015.3.4 掲/3.24改)

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