箱庄・箱圭 – 高木耕地整理組合史外伝 –

第四代組合長 箱崎庄吉
菓子種(注1)の製造販売で財を築くと共に、公共事業にも力を尽くした実業家に箱崎庄吉がいる。
庄吉は慶応2年(1866) 花巻城下の鍛冶町の佐藤庄兵衛の四男として生まれた。明治18年(1885) 20歳のとき箱崎家の養子となり、同25年苦心の末、箱崎式選(?ママ)菓種機械を発明、菓子種の製造を始めた。
この商売は、大正3年(1914) 同業者を抜いて頭角を現わし、質の面でも価額の面においても他の追髄を許さなかった。
この理由は、製造機が精巧であったことよりも、原料となる米の選抜にあった。当時は地元の軟質米を使っていたが、庄吉は硬質米に眼をつけ、価格の安い台湾米を原料にしたところ、良質の菓子種が2割も3割も多く出来あがり、このことが同業者に分からない間に、すっかり資産を築きあげ、実に国内総産額の4割を占め、全国各地に販売をしたという。

この商売で財を成した庄吉は花巻に味噌・醤油醸造業を操業、さらに、大正14年(1925) 箱庄酒造店を組織し、石鳥谷町の七福神を買収して経営するなど、当地方の実業界稀にみる手腕家として君臨した。
また、各面で公共事業にも力を尽くし、特に大正3年(1914) 110余町歩の開田を起工した高木土地改良事業の四代目の組合長として、漠大な資金をつぎ込み、遂にこの難工事を軌道にのせた功績(注2)をはじめ、同8年には時代に先がけて多くの町民を朝日屋に招き、成人講座を開き、機関紙「成人」を配布したり、昭和4年(1929) 花巻川口町と花巻町との合併運動に少なからぬ資金を出したり、同6年(1931) の組合立花巻中学校の創立の影の立役者として、多額の寄附をするなど、公益事業の推進に尽力した。
晩年は、仏教に信心し、長久寺住職の佐藤祖林に師事し、禅の道を修業したり、書の道にいそしんだり、庭造りなどに趣味をもったが、昭和8年(1933) 69歳で世を去った。(注3)
なお、書道は一流で、多くの軸に書き残されている。
     (「花巻の文化を高めた先人・百七十人」(注4)より)

第五代組合長 箱崎圭介
株式会社箱庄商店(注5)の専務箱崎圭介は新堀村(現・花巻市石鳥谷町新堀)の藤原家の出である(注6)。それだから明治41年に三鬼隆や後藤清郎達と一緒に盛岡中学校を出た時も大正3年に慶応大学の理財科を出た時もまだ藤原圭助で、箱崎家に入ったのは大正4年である。暫時足尾鉱山に勤めていたが箱庄家の長男文秀は商店向の人間ではなかったので養父庄吉に呼戻されて家業の菓子種店を営業させられた。箱庄はこの頃已(すで)に日本の箱庄になっていて得意先は北海道樺太から関西方面にまで広がっていた。これを個人経営の形式でやっては何かと不便があり信用上からも株式組織にすべきだと考えたのが圭助であり、会社のマークを〇の中にKを入れたのは其の商魂を示したものと言えよう。

先代庄吉健在の頃から業務は概ね圭助任せであったけれ共、昭和8年物故の後は長男文秀が庄吉を襲名して社長の形を取ったばかりで、実質は專務のファッショであつた。
圭助の商才と事業欲とは無尽蔵で、一時花巻町に「箱圭時代」が出現した観があつた。先代の在世当時であったが、小原政治、橋本喜助、佐藤忠治等から無理に推されて花巻町長の候補者に立たされたこともあったが、町会の大御所佐藤金太郎を向うに廻して、自分は片言隻足の運動もしないのに開票の緒果は正に同点であった。

それから間もなく支那事変に突入するのであるが箱崎工場は陸軍の御用を專門に働くこととなり主として粉味噌の製造を命ぜられていた。終戦の5日前味噌工場は戦災(注7)の為に烏有(うゆう)に帰したが焼失した大豆、白米の数量は驚くべきものであった。
その頃東光亜炭の経営もやっていたが1干万円を投じて大鉄索の出来た頃から石炭事情も好転した為に亜炭の経営が困難になり箱庄商店はこの点でも相当の痛手を負った。然し最近味噌工場の焼け跡に壽デパートを起し、花巻文化劇場を建築し、更に東北銀行の花巻交店を建てて大きな弾力性を示した。家業の菓子種屋の復活も遠くはあるまい。
     (「稗貫風土記」(注8)より)

[補足]
(注1) 菓子種:米粉の一種で、道明寺、上南粉などの粒状をしたものの総称 (道明寺粉:蒸煮した精米(もち米)を乾燥して干飯(ほしい)とし粗砕したもの、上南粉:蒸煮した米を乾燥して粗砕したもの)、主に和菓子の材料として使われる
(注2) 高木土地改良事業:[高木用水 -甦る楢山開田計画-]を参照されたい。この新田開発で箱庄がどれ程の農地を入手したかは不詳。
花巻町商人の農地所有:昭和12年(1937)頃、上町で10町歩以上の農地を所有する家が4軒あり、それらの家の所有地の合計は約172町歩であった。
(深澤あかね著「商業町における祭りの変遷」(社会学年報 No.40 2011)より)

(注3) 箱崎庄吉:箱崎庄吉は大人物であつた。彼は営利事業家であると同時に社会事業家であり、一方発明の天才を持っていた。若い頃は大八車を引いて行商してから、夜は深更まで発明に苦心色々な物を工夫したが、結局箱崎式煎画(?ママ)種機械という形になって完成した。その同商売の工場は県下に数ヶ所あって競争の形であったが、大正3年頃から断然同輩を抜いて頭角を現わし、…すっかり工場と資産とを造り上げて了った。
彼は石鳥谷の酒屋七福神を買収して経営し、花巻郊外矢沢村の原野100町歩を開拓し…。これ等も彼の発明癖から半分は来たことで、水田は田植に依らず粒まきにすべしとの持論であり、並酒は杉のエキスに依って品質の向上を計ることが出来ると考えた。両事共に完成はしなかったけれ共、事業としては今日立派に遺っている(注3a)
彼は公共事業には何くれとなく卒先して寄附した。…けれ共彼は町長にも町会議員にもならなかった。…昭和8年癌を患い東京小石川の康樂病院で多彩の69年を安らかに眠ったが、郷里に於けるその葬式は未曾有の盛儀であつた。全国に商網を張った大人の最後を飾る自然の現象であったろう。
     (「稗貫風土記」(注8)より)
(注3a) 七福神:七福神の蔵元・箱庄酒造店は昭和50年に盛岡の菊の司酒造と合併。石鳥谷での酒造りは平成17年まで続けられたが、その後は七福神も盛岡で作られるようになって現在に至っている。

(注4) 「花巻の文化を高めた先人・百七十人」:佐藤昭孝著・発行、H10.1.10 非売品
(注5) 株式会社箱崎庄吉商店:大正8年設立、現・ハコショウ食品工業株式会社
ホームページ 現社長インタビュー

(注6) 箱崎圭介:明治21年(1888) 12月9日に戸塚で生まれた。大正3年(1914) 栃木県足尾鉱業所に入所したのち、花巻の箱庄商店の長女と結婚し…昭和27年(1952)4月27日に67歳で亡くなった。
     ([はなまきまなびガイド]より)

(注7) 花巻空襲:昭和20年8月10日、北上市後藤野の岩手飛行場や花巻市街に米軍艦載機グラマン15機が飛来、靄のかかった状態の中で、午後1時半ごろから500ポンド爆弾等20発以上を投下、市内の各所を機銃掃射した。花巻駅は鉄道のレールや駅を破壊するために、多くの爆弾が投下され駅や機関車などを爆破。
焼失家屋 673戸、倒壊家屋 61戸、死者 42名、負傷者 150名と記録されている。
この空襲では、宮沢賢治の生家が焼失し、同家に疎開中の高村光太郎は炎の中を逃げ惑い、中学生だった山折哲雄は機銃掃射を間近に受けたが、疎開先である母の実家・専念寺は類焼を免れた。

全国主要都市戦災概況図 -花巻町-hanamaki_war_damage

(注8) 「稗貫風土記(第1巻)人物編」: 八木英三編・発行  1951.4.10

 (2015.7.11掲)