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あづま海道とは何か

「アズマカイドウ」という道がはるか昔に北上山地の西麓、東十二丁目の東側を通っていたということを、初めて聞いたのは去年の夏のことでした。
矢沢観光開発協議会の今は亡きS氏のお話では:-
・古代・中世の頃、北上山地の西麓を南北に縦貫する幹線道路があり、「アズマカイドウ」と呼ばれたが、後に廃れた。
・近年この古道の再発見が試みられており、北上市や奥州市ではルートの確定、道標の設置などが完了している。
・矢沢ではこれまで特別の取組はなかったが、観光開発協議会の事業としてこれから取組もうとしている。

あづま海道道標これを聞いた時の私の感想は、観光開発のための我田引水・牽強付会の類か…というもので、特に関心を持たずに終ったのですが…
今年の春になって、高木用水を調べているうちに、高木用水の取水口(臥牛)のわきに「あづま海道」の道標を見付け、これをきっかけに少し調べてみました。

「あづま街道(海道)」とは、奥州平泉に中尊寺を建立した藤原清衡が、陸奥の特産 馬・砂金・漆・鷲羽などを京の都に運んだと伝えられている道で、地元では「清衡古道」とも呼ばれています。(『あづま海道紀行(えさし郷土文化館)』より)…などとあります。

あづま海道の今

〇北上市のあづま海道 (右クリックで拡大表示できます)
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〇奥州市のあづま海道 (クリックすると全体が表示されます)
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azuma_road_cover1 (佐島直三郎編集責任「あづま海道 -清衡道とその風土-」(H5.9.30 あづま海道歩くの会)より)

あづまかいどう・古代清衡道

あづまかいどうについては、これまで、東海道、東山海道・東街道等の文字をあてられているが、古文書(古代・中世文書)については、寡聞にして筆者は知らないし、現今、文字でのあてがきも定まっていない。
先学及川大渓は「東山海道」とあてているが、これでは(とうざんかいどう)か、(ひがしやまうみみち)等と読んでしまう。
まして、「東街道」では、近世期の五街道道路と混同され易いと見られそうである。
地元で呼ぶ、「あづまかいどう」は、どんな文字を当てたらよいのだろうか。
本稿では、古代道路と考えているから、「あづま海道(かいどう)(古代清衡道(きよひらみち)」とすることとする。

あづま海道は北上川東部、主として江刺地方の、北上山地から北上川低地に下る西縁台地を南北に走る道路とみられて来た処である。
藤原清衡の生誕の地である餅田は、後三年合戦後の数ヵ年、衣川へ移住する以前の居住地であり、当地方交通の要衝地(北上川渡河点)であったところである。
「あづま海道」と呼ばれる餅田地内の道路、五位塚から南北へ、その道を尋ねて、大日堂、出羽神社、黒石鶴城、白石沢、西館観堂へと南下し、平泉町月館付近から、北上川箱石橋下流付近と、西岸衣川十日市場付近とを、北上川渡河点とするものである。…

北への道 極楽寺より蓮華寺まで (注1)

(右クリックで拡大表示できます)
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本道(あづま海道)は極楽寺前(北上市稲瀬町)にて西の方向稲瀬の渡しに往く道と分かれて、北に進み寺坂と言う急坂を上り、立花毘沙門堂脇へと進む。
ここまでは、あづま海道の跡を認めることが出来るが、それ以北については、古文書並びに言い伝えなどによる点と点を結び往古の道を模索するのみ。
古代にはここ立花の毘沙門堂の後ろまで北上川が流れ、対岸の黒沢尻柵その他への渡船場があったとのこと。
立花-万内-黒岩-鴻巣-八天と北上したものと思われる。八天(古代遺跡で有名、上八天、下八天とあり)-山寺-大竹(平安初期の廃寺跡)と来た道はここで二つに分かれ、一方は東の方向、東和町成島の毘沙門天、更に同町丹内神社への道となる。

丹内神社  草創は上古といわれるが、藤原清衡公の崇敬厚く祭りには清衡公自身が訪れ、さらに耕地二十四町歩の神領を寄進し、神社の建つ堂山一帯に百八ヵ所の社堂を建立、百八体の仏像を安置した。以来基衡、秀衡の三代にわたり厚く信仰された寺院である。又、同社の一の鳥居は、南部藩随一の杉の大鳥居で有名である。

本道としてのあづま海道は、さらに北に進み花巻市の竹原-大沢-高木(現高木団地の東側を通り)-安野-胡四王山に至る。この山上には、胡四王神社が祀られている。伝えによれば、坂上田村麻呂が東征の時に武運祈願として薬師如来像を安置し、医王山胡四王寺としたと言われている。また、竪穴住居址群がある。
道はさらに北に進み、石鳥谷町の五大堂に至る。ここには五大尊が祀られ、旧正月七日には奇祭蘇民祭が行われる。寺の背後には古代寺院跡があり、沢を隔てて「すみっこ」館と呼ばれる古代の館跡がある。

北への道 北半

道はここより小高い丘を進み、現在の花巻農高農場の中を通り、南滝田-北滝田-葛坂-蓮花田と進み、さらに北上を続け、彦部の千手堂に至る。ここよりさらに北に進み、後年是信坊が布教のために建立したと言われる、本誓寺のあった石ヵ森を通り定内に至る。
この道(あづま海道)は衣川を出発点として、北に進みその道筋は、おおよそ北上川の東岸の川筋に近い丘の上を、この地迄進んできたのであるが此の地、定内よりは、おおきく方向を変え、東への道をとり山地に向かって進む。所謂赤沢川の流れに添うて、赤沢字田中の音高山の白山神社と蓮華寺(現在廃寺々跡のみ)に至る。

此の地白山神社と蓮華寺が、あづま海道の目的地であるのか、又は、出発点であったのか、とすれば白山神社と蓮華寺とは一体、藤原三代と、どんな関係があったのだろうか。
白山神社は由緒書きによれば、延暦年中(782~805)坂上田村麻呂が、阿加佐和(赤沢)の郷、音高山に勧請したと伝えられ祭神はイザナミノミコトである。
永承年中(1046~1052)亘理権大夫藤原経清が阿部頼良の娘を娶り志波の地に住み、奥州の国司藤原登任から白山神社の管理を任せられ、白山神社の造成、落成を祝し「風吹かば、音高山の榊葉も、色や増すらん神の御稜威に」と詠んでいる。又、白山神社の神威援護のため山麓に蓮華寺が建立された。
この蓮華寺には経清の母(清衡の祖母)が前九年の役の難をのがれて、江刺の豊田館からこの地に移り居住したと言われ、その墓(供養碑)が白山神社の麓に今に伝えている。
往古この赤沢川筋は、奥州で最大の砂金産地でこの地帯の砂金の集納拠点として栄えたものと思われる。…

[補足]
(注1) 北への道 極楽寺より蓮華寺まで:佐島氏は、本書が発行された翌年、平成6年10月に胆江日日新聞に「あづま海道の要点」と題する記事を連載し、極楽寺から蓮華寺までのルートを次のように記しています。

極楽寺・国見山神社→立花毘沙門堂→横町遺跡(古代寺院跡)→多岐神社→白山廃寺→大竹廃寺→臥牛寺→岩根神社(高松廃寺)→胡四王神社(医王山胡四王寺)→五大堂(光勝寺)→彦部千手堂→蓮華廃寺・赤沢白山神社(経清の姥の墓所がある)

前者は矢沢地区内南半のルートを猿ヶ石川の西側としていますが、後者は東側に取っています。しかし両者ともその根拠には言及していません。

 (2015.9.6掲/9.12改)

“あづま海道とは何か” への1件のフィードバック

  1. 「北への道 極楽寺より蓮華寺まで」に補足を加えました。

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