dahlia

稗貫郡長・葛博と賢治とダリア

宮沢賢治君を憶う      葛 博 (注1)
宮沢賢治君の事に就(つ)き申上ぐる様御下命に接し候(そうろう)(ところ)期限付の御下命に不尠狼狽仕(すくなからずろうばいつかまつり)候 老生元来数字的の頭無之(これなく)時日等の記憶は前後錯誤多く何分数字に触れぬ様申上候間(あいだ)御諒承願上候
賢治君は文壇上大変偉い方だそうですが其様な事は私の関係無之私は稗貫郡の郡長時代に関豊太郎先生を煩わして郡内農業の大辞典を作り猫の目の様に変る勧業産業の技師技手に頼らずとも百姓は百姓なりに自分の耕地に対し適種適肥を自力自成の基礎調査をして安心して耕農に従事せしめん為(ため)郡内全部の土性検査を行う事に決し関先生亦(また)非常な御熱心を以(もって)御引受け下され当時助教授たりし神野先生を連れられ其の際助手として先生の愛弟子の我が宮沢賢治君を願いたるに賢治君も亦気持ちよく引受け呉(く)れ第一段の土性の調査は耕地は勿論早池峰山の頂上より中山峠のてっぺんまで山林と言わず全部調査を了し小区域ながら全国に冠絶する調査報告を得申(えもうし)候 山林の方は主として元農林学校教授たりし小泉多三郎君と賢治君が担当致し候 雨が降っても火が降っても嫌な顔を見せず盛り顔で鼻筋の通った少しそっ歯で餅の好きそうな賢治君頭髪の梢薄く赤味のある髪の賢治君そして詰襟の黒服に下手な巻脚絆の賢治君は何時如何なる時でもにこゝゝして居る 賢治君は何処か競争試験でも受ける様な熱心さを以て而(しか)して申上げては先生の逆鱗に触るゝ恐れあれども何千の学生を振い上らせた関先生の雷叱に対しても泰然自若たる度胸以て迎い相も変らずににこゝゝたりて流石(さすが)の先生も宮沢君丈(だけ)は何時怒るか訳が分からんと言われたる賢治君 尤(もっと)も賢治君は頭が善くって従順で沈勇で熱心で誠意でと来るから或は関先生と雖(いえども)流石(さすが)に一号所の雷叱は放たざりしやも難計(はかりがたく)候 老生年齢と役目の関係から御尊父の政次郎君とは大部御親しく願い賢治君は知らざりしを時の郡立蚕業講習所長現宮城県小牛田町報恩農業館長の工藤文太郎君の絶賛に因り御願したる次第に候
当時花巻時間と称して約束の時間より二時間ぐらい遅るゝ事は平気の平左なりし為(た)め時の警察署長笹井初之進と相談して何とか此の弊を矯(た)める為率先躬行(きゅうこう)時間の励行を奨める事とし勧誘に努めたるも痩官吏の提唱等は須臾(しゅゆ)にして行われず遂には二人丈しか励行せぬ有様となれり 然るに我が賢治君丈は勿論宴会等には出席せざるも如何なる時の約束にして約束の時間前十分には必ず例のにこゝゝの顔を見せ申候 然かも根子村外台(とだい)の孤立の別荘から来るのです
但賢治君に困った事は斯(か)く山野を跋渉(ばっしょう)して難儀して土性の調査に従事し乍(なが)ら旅費も弁当料も絶体に受取らず暇で覚えた事で郡の為めに働く事は当然だというて不相変(あいかわらず)丸飯持参で働いて呉れるのには余り気の毒で困り抜き候 勿論手当等は受取らずに終り申候
賢治君丈けは非難し様と思ったって歯が立ち不申(もうさず)
さるにても斯(かか)る神の如き方々の熱誠の結晶に成れる稗貫郡の土性調査は其第一段の調査は見事完了し乍ら第二段の肥料試験も第三段の品種試験も済さず空しく何処の倉庫に埋没しあるものやら賢治君の夭折と似てともに悲しい
(草野心平編「宮沢賢治研究」(1939.9 十字屋書店)より)

[連載-10] 東北のダリア育種家とその作品
葛博氏の業績と各系の成立・流行      松木正利 (注2)
はじめに
わが国にショー・タイプのダリアが、はじめて輸入されたのは1840年ごろで、この花型が天竺牡丹として1880年ごろにはかなりの愛好者をもつにいたった。その40年間をわが国ダリア流行の胎動期といい得るが、…
盛岡市下米内字大豆門35の葛博氏のダリア栽培は、わが国ダリアの発展期以前―1894年(明治27年)から始められた。氏は現在85才、わが国ダリアの19世紀~20世紀の胎動期~発展期を経験してきた最長のダリア家で、現在なおダリア栽培を続けていられる。…

葛氏のダリア栽培
葛氏宅は盛岡駅から北東へ約4㎞、…住宅に隣接してダリア園13aが見事に手入れされ、約1,200株が整然と旺盛な開花をみせていた。
略歴  葛氏は長く岩手県庁に勤務し、稗貫、気仙の郡長を歴任、その後、日赤事務長を務め、大正から昭和にかけ盛岡市議を4期つとめた。…
ダリア園と特長  葛氏のダリア園には、わが国のダリア史上、特筆されなければならない古名花が、最新花と共に栽培されており、筆者にとって何ともいえない感動であった。
古名花の中には荒獅子(1927年、篠崎氏作出、ピオニー大輪、深紅)をはじめ、舞の袖…

おわりに
葛博氏は三浦哲善氏と共に、昭和初期から第二次世界大戦前までの、東北のダリア育種家の双璧であった。…
ただ、10月上旬に早くも大霜、そして長い積雪という東北の、共通の不利な立地条件のもとになしとげられた育種であった。
(日本花卉園芸協会編「新花卉(41)」(1964.2 タキイ種苗出版部)より)

[補足]
(注1) 葛 博:明治11年(1878) 盛岡に生れる
□ 岩手県庁に入る
□ 郡長就任前に軍隊経験あり
大正3年(1914 36才)~8年 稗貫郡長
 矢沢村高木耕地整理組合第2代組合長 (稗貫郡長在任中か)
大正8年(1919 41才)  気仙郡長
大正12年(1923 45才)  退官して実業界に入る
 盛岡銀行副支配人として活躍
~昭和元年(1926 48才)~   盛岡市議(4期)
~昭和5年(1930 52才)~  日本赤十字社岩手支部病院事務長
昭和38年(1963 85才)  盛岡市在住

葛家の先祖は稗貫家族臣として稗貫郡葛村(現花巻市)を領有、稗貫家没落後盛岡藩の藩士となった。弟・精一は盛岡中学で宮沢賢治の同級生、後に鳥類学者となり、「愛鳥週間」の提唱者としても知られる。

エピソード (加霜著「岩手県の将来 (六)要は人の活力」(1916.5.7 時事新報)より)
…是れ多年の慣習同じ雪国の越後人をして進取的活動の人たらしめ岩手県民否一般東北人をして退嬰的怠惰の人たらしむ是れ人の罪に非ずして其一半は導くに宜しきを得ざりし為政者の責と云わざる可らず
岩手県識者亦近来此点に留意する所あり、県民殊に青年の活動力に意を用ゆるに至れるは喜ぶ可し、稗貫郡長葛博君の如き軍人上りの人丈けに大に岩手青年の鼓舞に力めつつあるものの如く、同君先年雪中講演なるものを企て積雪三尺の郊外に於て而かも吹雪の中に青年を集めて農事の講演を為し、且つ実習を為さしめたるに、集まり会する者多く予期以上の良成績を収め得たりと云う、岩手県の開発宜しく百の葛郡長乃至全県全民の雪中講習員を得て漸次其怠惰性を芟除(さんじょ)する事を得可し …

(注2) 松木正利:昭和8年(1933)~、園芸家、ダリア研究家、元荘内日報社編集局長

(2015.11.10掲)

“稗貫郡長・葛博と賢治とダリア” への3件のフィードバック

  1. 葛博氏の経歴を、私のわかる範囲で少し補足させて下さい。
    明治31年 7月 岩手県傭
    同年   10月 依願解傭、のち陸軍一年志願兵
    明治32年11月 一年志願兵終末試験合格、任歩兵一等軍曹
    明治34年 5月 任岩手県属
    明治37年12月 任陸軍歩兵中尉(歩兵第31連隊)
    明治44年 2月 帝国在郷軍人会米内村分会副長ヲ嘱託
    大正 7年 1月 帝国在郷軍人会稗貫郡連合分会顧問ヲ嘱託
    大正 9年 8月 盛岡銀行副支配人を依願解職
    大正 9年 8月 日本赤十字社岩手支部病院事務長ヲ命ス
    軍人としては日露戦争時に歩兵中尉までいったようです。
    少しズレている部分もあるようですが・・・

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