「東十二丁目誌」註解覚書(2) -中世-

第4章 中世
第1節 中世と地方の動き
本節に東十二丁目への言及はありません。
稗貫氏については、「源頼朝は…奥州征伐に功のあった鎌倉武士にそれぞれ恩賞として東北各地を所領として与えた。この時岩手に派遣された御家人は次のように地頭として任命されている。…稗貫盛基 稗貫郡…」とあり、また「稗貫氏は足利時代には一時全盛となったが、広忠の代、天下の動きに対応を誤り、所領を没収され滅亡するに至った。」とあるのみですが、第4節以下で詳しく述べられています。

第2節 奥羽の牧場経営
東十二丁目、稗貫郡への言及はありません。

第3節 中世年表
東十二丁目に関する事項としては、
応仁2年(1468) 湯口の円満寺鐘銘に稗貫城主藤原千夜叉丸の名あり、この鐘慶長年間(1596~1615)東十二丁目照井沼より引上ぐ、…
延徳元年(1490) 長門守武弘東十二丁目村島の館に住す
天文17年(1548) 神明社創建と伝う

第4節 稗貫氏の発祥
本書では「稗貫氏の発祥始祖については、系譜も多く県史や市史に論考も書かれているが、それぞれの支証もなかったりして、稗貫氏が稗貫総領職として入部したのは鎌倉期であることに誤りないとしても、これを正確に窮知することは不可能であるとしている」とし、4種の系譜を示すのみです。
この4種の系譜だけでは、その相互の関連が分かり難く、稗貫氏の全体像が掴めません。

第5節 南方朝期の争乱
この時期、稗貫・和賀両氏は南北朝の対立、争乱に巻き込まれていきますが、本節で東十二丁目への言及はありません。

第6節 稗貫氏の動向
和賀の争乱  15世紀の中頃、和賀と稗貫の争いに発展した争乱で、東十二丁目もその渦中にあったのではないかと思いますが、本書には言及がありません。

稗貫氏の滅亡  花巻市史から引用して「稗貫郡の惣領職、鎌倉以来北上中部に累代続いた名族も、時勢の判断を誤り、所領没収、居城追放となり、領主も家臣も滅亡を余儀なくされ、(最後の稗貫郡主)稗貫広忠は…子息重政とともに矢沢に来り、矢沢三河(守)の宅で慶長元年(1596)9月13日没したという。」とあります。
矢沢氏の居館は胡四王山の北側山麓にあったそうですが、矢沢館の詳細は未確認です。

領主の余話  矢沢氏について、「和賀稗貫郷村志」の矢沢村の項に「旧館中古の城主稗貫為重の舎弟、矢沢左近広直其の子光直と云いしとなり、是れ矢沢の元祖なり。」とあるそうですが、「稗貫為重」を前述の4種の稗貫氏系譜で特定できません。「瀬川稗貫氏」系譜には「矢沢左近将監光直」がありますので、その兄「佐馬頭重里」が「稗貫為重」なのでしょうか。

第4節から第6節までを通読しても、私には稗貫氏のイメージがはっきりしません。そんなこともあって他の資料を参考に纏めてみたのが「古代・中世の稗貫郡と稗貫氏」です。
特に注目したのがこのページの[補足]で参照した川島茂裕著「稗貫郡と稗貫氏 -権力の狭間とそこに生きた人々-」で、キーワードは「中条系稗貫氏の断絶」、「一揆的な集団」、「稗貫党」そして「根子系稗貫氏の登場」です。
川島氏は、室町時代以降根子系稗貫氏が稗貫氏本宗家になった、と主張するのですが、ご本人が「(新説?珍説?)」と付記しています。

第7節 和賀領の村々
永禄の検地  16世紀中ごろ和賀氏の領域が和賀郡内だけでなく、稗貫郡・胆沢郡・江刺郡の一部に及んでいた、という東和町史の記事が紹介されています。それによれば稗貫郡内では上中下根子村・上下矢沢村・高木村・高松村 が和賀氏の領域に含まれています。
この記事の基になっているのが永禄年代(1558~1570)の検地のようですが、その30数年後に稗貫最後の郡主・稗貫広忠が矢沢三河の宅で没したといいます。当時も矢沢村が和賀領であったとすれば、稗貫氏の有力家臣であった矢沢氏は和賀氏に鞍替えしていたということでしょうか!? 広忠自身が和賀氏の出であったことも思い出されます。

東十二丁目の所領  この和賀氏の領域に東十二丁目村と十二丁目村が含まれておらず、これを疑問に思った本書の著者は「或は根子氏の勢力の強い頃のことであるから、十二丁目村と共に上中下根子村に所属していたものであろうか。今後の考察に委ねたい。」と述べています。
しかし東十二丁目村が十二丁目村と共に根子村に属していたとは考え難いように思います。これは単純な書き落しなのか、それとも両村は稗貫氏勢力圏の飛地として残っていたのか?

この時期の和賀氏の稗貫郡進出と近世の文書に残されていた「和賀郡嶋村」や「和賀郡矢澤村」という名称に関連があるか否かも気になります。

第8節 十二丁目城と十二丁目氏
本節に東十二丁目への言及はありません。

第9節 村の館跡
現在二ツ屋の東の山上に薬師堂がありますが、昔はそこに館のあったことが館跡調査の結果から明らかになっています。この薬師館を本書では、「時代は不明であるが、…居館とは考えられず、戦時における防御のための砦や、一時的な陣屋として用いたものと考えられる所から、戦国時代と考えたい。」としています。
それでは誰が誰に備えるために築いた砦なのか?まず思い当たるのが永享7~8年(1435~6)の和賀の争乱。元々は和賀氏一族内の争いでしたが、稗貫氏が巻き込まれ、稗貫氏不利の状況下で和議が成立しました。
これから先は私の想像ですが…この争いの中で東方から進出してきた和賀氏が北上川の西側に本拠を置く稗貫氏の家臣十二丁目氏を監視するために置いた砦ではないか。そしてこの争乱の結末が第7節で述べられている稗貫郡内和賀氏領へと繋がっていくのではないか。

しかし「高木村の歴史」(S62年4月、佐藤昭孝編集・発行)には全く異なる見解が紹介されています。「安倍氏時代の舘」の節の中に次のようにあります。
「俘囚の長となった安倍氏は権力を増大し、…六郡を支配し、村々を守るために多くの地に舘を築いたといわれている。矢沢地区でも高木村には久田野(きゅうでんの)の西端に上舘(うわだて)があり、東十二丁目には薬師堂舘、高松村には中野舘、矢沢村には胡四王舘があり、これらは安倍氏の拠城であった鳥谷ヶ崎舘の支配下にあったという説も根強く残っている。
ちなみに、胡四王舘と薬師堂舘は山頂に三重の濠が掘り廻されており、胆沢城、志和城出土の土師器や鉄製品の破片と同時代の遺物が出土している。…」

第10節 照井氏考証
照井氏系譜 この系譜には困惑させられます。第3章第9節の系譜と矛盾しているように見えます。第3章では初代照井武弘を、武満の三男、天平宝字7年(763)生れとしていますが、本節には18代武満とあり、「文明5年(1473)…三男は東十二丁目に…引移る」と注記されています。
そしてこの系譜には出典が示されていません。
「照井武弘について (東十二丁目郷土史参考)」(平成4年1月 照井秀夫)という資料では、ほぼ本節の系譜に沿った記述があり、「照井家古文書参考」と付記されているのですが、「照井家古文書」は未確認です。

盛岡照井家系譜  こちらの系譜は第3章第9節の系譜の第10代高胤と繋がります。

島郷土誌の記録  昭和16年(1941)に編纂された「島郷土誌」掲載の「照井家に保存の覚書より抜粋」とする記事が引用されています。この記事は盛岡系照井氏について解説したものですが、内容が前項の系譜の年代と食違うようで難解です。

さて照井武弘が島に移住した時期を系譜などごとに列記してみると、
①本書第3章第9節の系譜  延暦22年(803)
②本書第4章第3節の年表  延徳元年(1490)
③本書第4章第10節の系譜  文明5年(1473)以降
④「照井武弘について」の記述  延徳元年(1489)

照井氏の全体像を解明するのは一筋縄でいきそうにありませんが、著者の残した資料の精査あたりから手を付けようかと思っています。

第11節 村の伝説と伝承
11編の物語が、「沼ノ御前」を除いて著者のコメントなしに転載されています。
これらの物語は、「第4章 中 世」の中に収められているのですが、中世に起源を持つとは限らないようです。

島の悪左エ門 この物語の主人公の子孫が現在も東十二丁目に住んでいます。詳しくはこちらをご覧下さい。

照井沼、沼ノ御前、円万寺鐘の事、円満寺の鐘、沼頭の笠松、道斎と百味の味献上、小袋の地名、島の朝日、鶴月の老狐、旅僧と鶴  「照井沼」、「沼ノ御前」、「円満寺鐘の事」、「円満寺の鐘」、「沼頭の笠松」の5編には照井沼が出てきます。
ところで照井沼を何故「照井沼」と呼ぶのでしょうか?「満海沼」とか「古川沼」と言うのなら分かるのですが。

私にとって、「照井」は中世の東十二丁目、最大の謎です!!
〇照井氏はいつどこから東十二丁目に来たのか?
〇照井氏と十二丁目氏をはじめとする周囲の勢力とはどのような関係にあったのか?
〇照井氏と照井沼との関係は?
〇現在東十二丁目にある数軒の照井家は中世の照井氏とどうつながるのか?それともつながらないのか?

(2016.2.25掲)

「「東十二丁目誌」註解覚書(2) -中世-」への3件のフィードバック

  1. 「第9節 村の館跡」に追記しました。

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