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「東十二丁目誌」註解覚書(3) -満海坊-

「東十二丁目誌」に「満海坊」が5ヶ所に出てきます。いずれも島の開拓者として登場するのですが、この開拓はどこをいつ頃に行われたものなのか。そして満海坊とは一体どういう人物だったのか? 拙(つたな)い考証を試みます。

東十二丁目誌には次のように述べられています。
(1) 「第3章 古代」の「村の開拓」の中に、「弘仁元年(810)満海坊なるもの、島邑(むら)開拓記念として熊野神社を草創し、新米を供えて旧九月十五日祭典を行ったと由緒が伝えられている。」とあります。

(2) 同じ第3章の「島七家(け)」に次のようにあります:-
照井武弘主従は、延暦20年(801) 坂上田村麻呂将軍に参軍して…其後主従8人は此処に土着して照井の庄と云い…従者の7人は島氏を称して島七家と云った。…
島七家は大要次のようであった…
(かみ)の島家… 中の島家… 下(しも)の島家… 耆の島家… 久留の島家…丘の島家…
川の島家  島川守(入道して満海坊)で島長根にあり後古川氏となる。

(3) 「第4章 中世」の「村の伝説と伝承」の中に、「沼頭の笠松」(矢沢村誌による)として:-
周囲一丈余、高さ数十尺の老樹で、其の枝葉茂って見事な笠松である。古老の言によれば昔所有主(屋敷名沼頭)落雷の為その家屋焼失の際、棄ておいた灰より生えたもので、後に隣地の人々耕地の日蔭になるとて再三之を伐ろうとしたが何としても伐ることが出来なかったという。
明治、大正時代にも尚これを伐ることを恐れていたが、最近これを伐ったけれど何のたたりもない。この辺の地名を俗に満海というのは、当村最初の開墾者満海坊の根拠地であったためだろうとのことである。尚附近に旧墓地もあったから或いは満海坊の宅地であったかも知れない。

(4) 同じ章の「村の伝説と伝承」の中に、「小袋の地名」(古川正見氏談)として:-
昔、小袋の西の方に円満寺という寺があって、満海坊はここに居って開拓を進めたらしい。その子でもあろうか順海坊という者がいたが、非常に困ったことに、賭博(とばく)が好きで、それに暴れ者であった。
或時ばくちのベテラン連中が乗りこみ、一晩で有金残らず失ってしまった。ところが翌朝近くの栗の大木の枝に布袋が下っているのを見つけ、開いて見ると前の晩のばくちにかけた金が全部入っていたという。
このことから小袋という地名となり、またその金で孫左ェ門家が資産家になったと云い伝えられている。

(5) 「第5章 近世」の「社寺の中興」の「熊野神社(三級社)の中に:-
・由緒 弘仁元年(810)当島邑(むら)開拓の満海坊が、紀州那智熊野大社を勧請(かんじょう)し小袋地に祭り、開拓の初穂を奉献し、生業万般に亘り広大無辺の御神徳を称え、連綿と続く氏子の尊崇として祀られた。 ……
平治元年(1159) 境内の事情から現在地に社殿を移転建立がなされた。  ……

(右クリックで拡大表示できます)
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  上記(3)に「この辺の地名を俗に満海というのは、当村最初の開墾者満海坊の根拠地であったためだろうとのことである」とありますから、満海坊が開拓したのは満海(マンケェ)、即ち照井沼の周辺、北上川の旧河道跡ということになります。
そして(4)に「小袋の西の方に円満寺という寺があって、満海坊はここに居って開拓を進めたらしい」とあり、(5)に「満海坊が、紀州那智熊野大社を勧請(かんじょう)小袋地に祭り」とありますので、満海坊の屋敷は小袋の西方、開拓地・満海を北の眼下に望む高台の上にあったと想定してみました。
今でも満海坊の墓と伝える小さな石碑が小袋の西側に残っています。

  上記(1)と(5)に弘仁元年(810)という年代が示されていますが、当時はまだ満海周辺を北上川が流れていて(「第1章 東十二丁目の地名」参照)、満海が開拓可能になるのは北上川西遷後しばらく経ってからのことと思われます。
その時期は前回の「照井長者と照井沼 -北上川の変流?-」によれば15世紀後半以後ということになるのですが…

  満海坊とはいかなる人物であったのか?上記(1)に依れば、満海坊は照井武弘の従者・島七家の一人で、古川氏の始祖となり、(4)で古川孫左ェ門家の祖先であることが暗示されている、という事でしょうか。

(2016.3.26掲/4.6改)

“「東十二丁目誌」註解覚書(3) -満海坊-” への2件のフィードバック

  1. 見落としがありましたので、追加修正しました。

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