押切藤左衛門家のルーツ

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東十二丁目の押切総本家・藤左衛門家、その現当主の母・連津(れつ)さんの自叙伝(注1)に「押切姓のルーツ」と題して次のように記されています:-

現在、私達の住んでいる花巻市東十二丁目地区には「押切」の名字の家は約50戸ほどあって、1戸平均4人とすれば総数200人前後になるだろうと思われます(注2)。釜石市や県内各地にある押切の名字の家は、総(すべ)て私達の系統だと思っていたのですが、過日全く縁のつながらない押切の姓のある人達も県内に存在することを知りました。
押切という姓は珍名奇名ではないにしても、全国的において数のそう多くない少し珍しい名字だと思います。押切の姓について、私の知るところでは北海道、秋田、山形、新潟などに存在しているようです。地名というのが名字発祥に大きくかかわっているといわれていますが、隣接の北上市には押切というバス停留所があるそうですし、遠く大阪府の旧万博会場近くには、押切川があり押切橋も架っていると聞いています。また、中国地方の列車線に押切駅があると知らされたこともあります(注3)。私自身、当地区の押切の名字がどこからの系統で、いつの時代に定着したのか、その開祖はだれかなど知りたくて、10年ほど前、ある伝手(つて)を得て、山形県尾花沢市に照会したことがありますが、その返事は残念にも未詳ということでした。ある人は、その昔、武士某氏と同行して当南部の地花巻に住みついたのが始まりというし、また、ある人は、秋田から事情あって当地にたどり着いたが、それが大晦日(みそか)の夜であったので、門松を二本立てる暇がなかったから、今日でも一本門松で正月を迎える風習が残っているのだ、と言う人もいる。
ともかく、当地区の押切は、開祖一族が、いつかの時代に、どこかの地より、それなりの理由を持って、この地にたどり着いて住み、藤左衛門家の祖となり中心になって、直系の数分家ができ、さらに近親者の繁栄増加に伴って孫分家が多くなって、その一部は他地区に移ったりして、現在に至っていることには違いないのです。私達押切の縁者の人達の中に、押切姓のルーツ(根源)をどうにか探り知りたいと望んでいる方も数多くいる。
先年、一つの手がかりとなるものが発見されたのです。平成4年(1992)、花巻開町400年を記念して秋祭りが盛大に行われたが、開祖の北松斎(しょうさい)公の居城であった花巻城の東南に位置する観音寺所蔵の弘法大師座像(像高39㎝、肘(ひじ)張り23㎝、膝(ひざ)張り31㎝の彫像で、右手に五鈷杵(こしょ)を持ち、左手の数珠は失われ、椅子(いす)・沓(くつ)も亡失)である。像底の矧(は)ぎ板(いた)の裏側には「享保弐歳(1717)……………稗貫郡東拾弐丁目嶋野与市郎」と墨書されていた。与市郎は間違いなく藤左衛門家の先祖の一人であり、このことから、少なくとも今より270年以前に当地区の押切家が関係していた事実が証明された。この像は、明治初年(1868)の廃仏棄釈の折に盛岡に移り、さらに旧高松寺の渡辺宥教(ゆうきょう)師が譲り受けて供養、その後、藤左衛門家に納まって市の文化財として現存している(注4)という、文字通り数奇の運命をもった像である。
その後、数多くの証左により、当地区に押切の祖が存在していたことが明らかになり、約30年前に先祖350年供養が執り行われて菩提寺(ぼだいじ)歓喜寺には木魚一式を納めた。最近は押切開祖は500年前(注5)にさかのぼるのではないかという説も出ている。
山高きが故に貴からず、という語句同様に名字の古いのを単純に誇るわけにもいかないと思うが、人間としてその姓の因ってきたる所を探り、親しみ尊ぶのは理の当然であるといえよう。いずれ、近い将来に当地区の押切姓の由来が解明されてゆくものと期待致したいと思っています。
毎年8月16日、盆の日の午後、当地区の押切姓の近親者約20名が藤左衛門家に会同して、歓喜寺住職(現深沢啓道(けいどう)師)による先祖代々の供養を行ない、併せて押切家一門の繁栄を祈念しておりますことは、とてもありがたいことと思っております。

(注1) 押切連津著「自伝 たどりついた八十路」(H5(1993).7.5 押切悟発行)

石崎直治著「古稀の回想」(1982.8.15)
石崎直治著「古稀の回想」(1982.8.15)

・本書の「はじめに」に著者の二女・幸さんが次のように書いています:-
…母は数年前に小学校時代の同級生、石崎直治(なおはる)先生から自分史の著書をいただいた時、自分も出来ることなら書いてみようと思ったようです。…

(注2) 東十二丁目の戸数と人口:「東十二丁目誌」によれば、平成元年(1989)の戸数: 264戸、人口1,195人(男: 590人、女: 605人)。
(注3) 押切:「押切」は、「水押」などと同様に、洪水など水による災害を知らせる地名として知られているようです。
(注4) 観音寺所蔵の弘法大師座像…藤左衛門家に納まって市の文化財として現存している「観音寺所蔵」と「藤左衛門家に納まって市の文化財として現存」がどうつながり、弘法大師座像が今どこにあるのか、この文章だけでは理解できません。
(注5) 500年前:1490年代に相当し、照井武弘が東十二丁目村に進出してきた時期と重なります。

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「東十二丁目誌」(注6)の「第3章 古 代」「第9節 村の伝承」には、「島七家(け)」と題して次のようにあります:-

照井武弘主従は、延暦20年(801) 坂上田村麻呂将軍に参軍して…其後主従8人は此処に土着して照井の庄と云い、武弘は照井氏を、従者の7人は島氏を称して島七家と云った(注7)。…
島七家は大要次のようであった…
(かみ)の島家  隼人(注8)で上に居住していたが、後に杉山右京の末葉藤左ェ門が矢沢の押切沢(注9)から来て草鞋をぬぎ、押切氏を称した。
中の島家… 下(しも)の島家… 耆の島家… 久留の島家… 丘の島家… 川の島家…

(注6) 石崎直治著「東十二丁目誌」(H2.2.28 石崎直治発行)
(注7) 照井武弘主従は、延暦20年(801) 坂上田村麻呂将軍に参軍して当地では何かと言えば田村麻呂が出てきますが、この年代は歴史的事実ではないと思われます。本書の「中世年表」には「延徳元年(1490) 2月 長門守武弘東十二丁目村島の館に住す (照井氏系譜)」とあります。
(注8) 隼人:古代日本においては、薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々。しばしば大和の政権に反抗したが、やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。

(注9) 杉山右京の末葉藤左ェ門が矢沢の押切沢から来て「高木村の歴史」(S62年4月、佐藤昭孝編集・発行)に坂上田村麿の東征に関連して次のようにあります。
「…矢沢でも『胡四王神社由緒書』によると、大同2年(807)3月田村麿東征の時、武運祈願のため兜の中心に納めてある薬師如来をここに安置し、医王山胡四王寺と称して従士杉山右京を別当にして長く守護させたという。」
そして胡四王寺の別当、後に胡四王神社の宮司は代々杉山氏が務めてきたようです。

「われらが郷土-矢沢の里の歴史と遺産-」(H14年12月、矢沢地区観光開発協議会編集・発行)の「胡四王山」の項には、「矢沢神社(胡四王神社)由緒」として次のように記されています。
「抑(そもそ)も矢沢の村名は当山より下る瀑沢八カ所ありて押切沢、大沢、間取沢、山居沢、桐木沢、金平沢、蟹沢、槻ノ木沢、何れも霊泉にして如何なる炎天でも水量を減ぜず、病災に服浴して効験ありしよりこの名あり。…戦後の習いとして八沢の八を矢と造り今日矢沢村と言うに至れり…」

・ここで不思議に思うのは、連津さんが著わした「押切姓のルーツ」に「島の七家」についての言及が全くないことです。「東十二丁目誌」が発行されたのが連津さんの自叙伝が出る3年前。連津さんと石崎先生は小学校の同級生で昵懇な間柄だったようですから、知らない訳はないと思うのです。あるいは「押切姓のルーツ」の中にあった「ある人は、その昔、武士某氏と同行して当南部の地花巻に住みついたのが始まりというし」がそれなのかもしれません。押切総本家の始祖が照井氏の従者という説は押切家にとって容認し難いものだったのでしょうか?!

(2016.4.9掲/4.30改)

「押切藤左衛門家のルーツ」への3件のフィードバック

  1. 「(注9)…押切沢…」の注記を書換えました。

  2. 「(注9) 杉山右京の末葉藤左ェ門…」を再度書換ました。

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