「東十二丁目」と「島」 -地名に惑う-

「東十二丁目」と「島」という地名の由来について、これまで二度取上げました。
  ⇒ 「東十二丁目」と「島」という地名
  ⇒ 「東十二丁目誌」註解覚書(1) -地名・古代-
その後これら地名の解明にあまり進展はないのですが、得られた若干の知見を紹介します。

〈島〉
「東十二丁目誌」では、昔、古北上川が北上山地の西麓を流れていたが、後に川の蛇行が西方へと進み、この地がその中州状であったところから「島」と云った、というのが一般の通念であった、と言います。更に「新たな論考」として司東真雄氏の論文(1)が紹介されています。
それによれば、日本後記、日本逸史等に「去返公嶋子(サルガエシノキミシマコ」」が見え、「嶋子(島子)」は島の里の地名をとって称したものであろう(その時期は9世紀初頭まで遡る)としています。

この司東説を基に考えてみます。この「島の里」は何処だったのか?司東説には「明治まで島村であったところとその東の臥牛が島の里で、島子の住所は今の臥牛の寺跡というところではなかったか」とあります。当時の景観を想像してみると、山裾から西は北上川の広漠とした氾濫原で、人の生活できる場所ではなく(後述)、人々は北上山地西端の谷あいに暮らしていたのではないか。だとすれば氾濫原の中にある中州に因んで「島」という呼称を用いたとは考え難いのです。
それから「島子」の「島」が地名だったとしても、「シマ」が「島」を意味したものかどうかも疑問です。蝦夷(エミシ)語の「シマ」には別の意味があったのかもしれません。

なお「高木村の歴史」(2)は、高木と根子について、その名称が「日本逸史」の9世紀初めの項に「吉弥侯部高来(キミコベタカキ)。吉弥侯部年子(キミコベネコ)」として出ていることを紹介しています。

「東十二丁目誌」の「島村」の項には、「北上川の河道の変遷」と題する注記があり、原始期に北上川は北上山地の西麓を北から南に流れていた、とあります。
しかし私は、あれこれ調べているうちに、この川は北上川ではなく、猿ヶ石川ではなかったか、思うようになりました。先日帰省した折に知人に聞いてみたところ、「そういう説もある」とのこと。
そのように思う理由:
① 「東十二丁目誌」が「北上川の河道の変遷」で引用する「北上川 第六輯」(3)には、原始期の河道についての根拠、出典が示されていない。
② 現在の河道と北上山地西麓(歓喜寺の前辺り)では、高低差があり過ぎる。一方で歓喜寺の前の大堰(旧仁兵衛堰)は現在でも猿ヶ石川から取水、自然流下で流れている。
③ 本誌の「第4章 中 世」、「第11節 村の伝説と伝承」に収められている「沼の御前」の物語の中に「奥州照井の里に下向す。猿ヶ石川流れの後なり。」などとある。

猿ヶ石川が北上山地西麓を流れていたとすれば、現在の東十二丁目は北上川と猿ヶ石川の合流地点の北に位置し、両川に挟まれた洪水がしばしば襲う湿原、草原あるいは疎林で、古代人の暮らせるようなところではなかったと想像します。

〈東十二丁目〉
「東十二丁目誌」には、「十二丁目を解明する根拠を見出し得ない、…地名と城と氏の三者の前後関係についての結論は今後に委ねざるを得ない。」とあります。私は前に「『十二丁目』について、この地方には『十丁目』も『十一丁目』もなかったようで、似た地名としては『万丁目』があるのみです。」とか「今のところ『十二丁目』の謂われは不明です。」と書きました。
しかし最近になって「十丁寺」という用例を古文書の中に見つけました。それは松井道円(注4)が著わしたと伝えられる「和賀稗貫郷村志」で、「十丁寺の事 実相寺旧跡上館の西南に有…」と記されているのですが、実相寺は現在もある地名で十二丁目の北西間近なところです。曾ては十二丁目のすぐ近くに十丁目があったのかもしれません。

松井道円著「和賀稗貫郷村志」の「十丁寺」の項
松井道円著「和賀稗貫郷村志」の「十丁寺」の項

最近気になっているのが「目」です。稗貫・和賀郡には万丁目の外に内川目、外川目、横川目、立川目と「目」が付く地名がありますが、「東十二丁目」と何か通ずるものがあるのかどうか…?

[補足]
(注1) 司東真雄著「岩手の歴史論集 1 古代文化」(1978 司東真雄岩手の歴史論集刊行会発行)
(注2)  佐藤昭孝編「高木村の歴史」(S62.4.30 同氏発行)
(注3) 東北地方建設局岩手工事事務所 編「北上川 第6輯」(1977 同所発行)
(注4) 松井道円:元祿の初めころに奥州に下り花巻城主北氏に寄寓していた京都の画家・医師という。

(2016.5.8掲)

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