「東十二丁目誌」註解覚書(5) -遺跡-

「東十二丁目誌」の第2章・第5節「東十二丁目の遺跡」には「高木村の歴史」(注1)から引用して、大沢(一)(集落跡 縄文・平安)、大沢(二)(集落跡 縄文・平安)、小袋(集落跡 平安)、そして薬師堂(館跡 平安)と4ヶ所の遺跡を挙げ、「縄紋時代の遺跡の分布では、北上川東岸の河岸段丘沿いが多いと云われているが、当地域にも地形的に考えてまだ確認されず地中に眠っているものも相当にあるように思われる。」と付言しています。

少し調べてみて驚きました。東十二丁目は「遺跡の郷」の様相を呈しています。平安時代以前のものだけで13ヶ所、人家のあるところの大半が遺跡(公式には「周知の埋蔵文化財包蔵地」と言うようです)に含まれているのです。

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これら13ヶ所の遺跡は全て調査報告書に記されていますが(注2)、その中から少しばかり拾い読みしてみます。

荒屋敷Ⅰ遺跡
(平成5年度花巻市内遺跡発掘調査報告書(1994)(注3)より)
位置と環境
東十二丁目地区南部において、北上川東岸を走る市道高木-穂貫田線と県道花巻-北上線とが交差する。それより北東約1kmの市道高木-穂貫田線沿いに荒屋敷集落がある。集落の規模は南北(底辺)800×東西(高さ)250mで三角形を呈する。
この東十二丁目地区は通称「島」という。氾濫平野の中でやや高い地形に営まれている荒屋敷などの集落が、洪水の際陸の孤島となったことによる。当集落の載る段丘は、西側を北上川の旧河道に洗われ、特に集落の北方で大きく抉(えぐ)られている。現在、旧河道との間には高さ4~5mの崖を擁する。また段丘内にも旧河道がみられる。当集落を縦貫している沢で、これにより荒屋敷集落は東西に二分されているのである。
その西側には、荒屋敷Ⅰ遺跡が分布する。今回の調査地は、遺跡の北東縁にあたっている。また東側は荒屋敷Ⅱ遺跡、同じく古代の集落跡として周知している。その他周辺には、段丘沿いに穂貫田、中道、小袋の古代(一部縄文時代)の遺跡が所在する。また、北上川旧河道を挾んだ西(ママ)対岸には、発達した自然堤防の上に古代の遺物包蔵地があり、長根遺跡群として周知している。…
まとめ
当遺跡は古代の集落跡として周知されていたのであるが、今回の調査によって縄文晩期に遡ることが明らかになった。調査区域の北隣地においても、縄文同期の土器が表採されている。…
今後の遺跡データの整備を待つものである。

穂貫田遺跡・駒板遺跡・山口遺跡
(「穂貫田・駒板・山口遺跡発掘調査報告書」(2008)(注4)より)
位置・地形
…3遺跡は、ほぼ隣接し、北から穂貫田、駒板、山口遺跡で、花巻市の南東端、JR東北本線花巻駅から南西約5 kmに位置する(…第1図)。北上川東岸の自然堤防に立地する。
穂貫田遺跡は、より北側で周知されていた遺跡だが、今回の試掘調査で同様の埋蔵文化財が確認されたため、南側に拡張されたものである。他の2遺跡は、今回の事業に伴う事前の分布調査で新規に発見された遺跡であるが、山口遺跡は、より南で発見されており、今回の発掘調査に至る県教育委員会による事前の試掘調査で土坑が検出されたため、遺跡範囲が北に拡張されたものである。なお、この部分は「大木遺跡」に相当する可能性もある(第3図)。…
3遺跡とも、今回の調査地点は、北上川とその支流によって形成された自然堤防上およびその周囲に立地するが、駒板遺跡(および穂貫田遺跡の最南端)は起伏が大きく、旧河道や段丘(ママ 「自然堤防」では?)がはっきりと認められ、穂貫田遺跡はずつと起伏が緩やかである。
本地域(の特に北側)は、地元で“島”と通称されている。北上川の氾濫原にあるので、島状になっていた時があるのではないかと推測する。花巻市教育委員会によって確認された旧河道(…と、北上川は以前もっと大きく蛇行していたという伝承、さらに第3図の遺跡分布から想像をたくましくすれば、北上川は、穂貫田遺跡横の蛇行部分で現在の市道に沿ってそのまま山に突き当たる。そして、第3図23の遺跡の前後から、もう一つの流れが、遺跡の間(24、35、32の間、33と35、55と56の間)を抜け、丘陵地に沿って下り、先ほどの流れに合流していたことがあるのではないか。そうすると残った部分は“島”状を呈することになる。…

穂貫田・駒板遺跡の歴史
○ 縄文時代 中期後葉~末
穂貫田遺跡で大木(だいぎ)9~10式古の土器片、駒板遺跡で大木8b式の可能性もある土器片が出土。
○ 縄文時代 後期前葉前半 (宮戸Ⅰb式期)
土坑や焼土、比較的多くの上器を発見。駒板遺跡では、現在の水路の両側に集中するので、当時ここに川があり、その周りに人がいた可能性が高い。遺物の出土量から、ある程度の期間ここに寝泊まりしていたと思われるが、竪穴住居が見あたらず、何より石器の道具が全く発見されていないことから、“定住”というほど長期間住んでいなかった可能性が高い。また、駒板遺跡の南端から見つかった溝状の陥し穴状遺構の一つは、この時期の可能性があり、“高台”を狩猟の場としていた可能性もある。
同様の遺跡が周囲に見られ(…)、この地域で比較的遊動的な生活を営んでいたことが窺われる。
○ 縄文時代 (後期中葉~) 晩期前葉
穂貫田遺跡から大洞BC2式、駒板遺跡で後期中葉以降の可能性のある土器片が出土している。
○ 縄文時代 晩期中~後葉 (大洞C2~ Al式期)
穂貫田遺跡では、土器が比較的多く出土し、特に南端の旧河道上のⅢ層中から多く発見されている。
炭化物なども認められることから、ある程度ここで過ごしたことは確実であろう。ただし、遺構や石器がほぼ全く見つかつていないことから、後期前葉前半より短い時間だったと思われる。土偶が1片出上しているが、そのような活動にも土偶を伴うということであろうか。駒板遺跡でも僅かながら土器片が出上し、南端の高台の陥し穴状遺構一つはこの時期の可能性があり、当時の活動範囲であつた可能性が高い。同様の遺跡が周囲にも認められ(第Ⅱ章)、遊動的な生活を営んでいたことが窺われる。
○ 弥生時代中期
穂貫田遺跡でこの時期の上器片が出土している。
○ 平安時代(9世紀中~10世紀初頭前後)
集落の拡散化によって(…)、人々がやってきて集落が営まれた。穂貫田遺跡では、住居の数や鉄製品などの出土から(報告書抄録参照)、この時期に限れば周囲の集落(第Ⅱ章)と何ら遜色がなかったと推測されるが、集落の中心は北側の高い部分にあった可能性がある。また、駒板遺跡は、いまだ地形の凹凸が顕著であったためか、あまり住居は作られなかったようである。
○ 近世末以降
この間に起こった洪水によって、駒板遺跡も、穂貫田遺跡と同様にほぼ平らに埋まり、今と同様に水田が作られ、集落が営まれていたと思われる。

[補足]
(注1) 「高木村の歴史」:佐藤昭孝著、S62.4.30 同人発行
(注2) 遺跡発掘調査: 13ヶ所の遺跡の発掘調査で、東十二丁目の縄文時代から古代の様子が明らかになったかと言えば、そう簡単ではありません。夫々の報告書を読み解き、それらの関連を解明することは素人には容易でなく、また発掘調査だけで当時の歴史が明らかになるとも思えません。
またこれら遺跡の発掘調査は考古学・歴史学上の問題意識から学問的観点で計画的に行われたものではなく、埋蔵文化財保護の観点から言わば行政上の手続きとして行われたものと言えそうです。《埋蔵文化財は現地保存する》という大原則の下で、建設工事等のため現地保存が困難は場合(破壊がやむを得ない場合)に、その場所に限って発掘調査することになっているようです。そのため発掘調査の範囲など、中途半端な感じを否めません。勿論「ナイよりはマシ」ですが。
現在東十二丁目では、工場や県道バイパスの建設工事が進んでおり、先行して遺跡の調査が行われたものと思います。その調査報告書の刊行を期待しています。
  (参考) 「花巻市内における埋蔵文化財の取り扱いについて」
(注3) 「平成5年度花巻市内遺跡発掘調査報告書」:花巻市教育委員会編、1994. 同委員会発行
(注4) 「穂貫田・駒板・山口遺跡発掘調査報告書:岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第517集(経営体育成基盤整備事業更木新田地区関連遺跡発掘調査)、同事業団埋蔵埋文化財センター編、H20.12.26 同事業団・岩手県県南広域振興局北上総合支局農林部農村整備室発行

 (2016.8.20掲)