北上川 -日高見(ひたかみ)とは何か-

◆北上川名称の沿革◆
(東北地建岩手工事事務所編「北上川 第一輯」(S48.3 同所発行)より)

はじめに
北上川は、その源を岩手県の北部山塊の中に在る北上山御堂観音の境内より湧出し、丹藤(たんとう)川等北上、奥羽両山脈より発する大小幾多の支川を合せ、岩手県を北より南へ貫流し、一関市地内狐禅寺(こぜんじ)において狭窄部へ人り、山の内26㎞を流下し宮城県に入る。…

北上川の名は、古来その呼ぶ所種々あり、北上川の文字を当てるに至ったのは鎌倉初期を以って上限とされ、それ以前における称呼は時代と共に推移するところである。

一、日河(ひのかわ)
北上川が大河川として史上あらわれるは、(続日本紀の)天平宝字4年(760)の条に《宮城県牡鹿郡より大河をわたり、峻嶺(しんれい)をこえて桃生柵を建置した。これによって賊は肝胆(かんたん)を奪われ伏した。》と記している(1)。この大河は北上川であることに誤りはないがその名称は明らかでない。…
岩手県内における河の初見は桃生城建置後20年を経た宝亀11年(780)2月2日の条に(1)
《衣川以北に蛮居(ばんきょ)する胆沢の賊を討伐せんとせしが同年は例年より寒さきびしく河はすでに凍て船を通ずる事が出来なかった》ことを述べているが、軍船を通ずる程の河川は北上川以外にないのであるから北上川が凍結し通船出来ない事を伝えたものである。

更に、河川の名称が知られるのは、延暦8年(789)6月3日の条に《征東将軍紀古佐美、副将軍入間宿弥廣成、右中将池田真枚、前軍別将安倍援嶋等と計り、三軍協力し河(北上川)を渡り東岸に賊師阿弖流為(アテルイ)等を討つの時、巣伏村 (水沢市四丑(しうす))において官軍は前後に敵を受け戦死者25人、矢にあたり傷つくもの245人、河に入り溺死するもの1,036人裸で游(およ)ぎ帰るもの1,257人に及ぶ大敗を喫(きっ)した》とある。
此の時、右中将池田真枚が日上乃湊(ひのかみのみなと)において溺(おぼ)るる者を扶け、その功により敗戦の罪は免ぜられた(1) 。…
ここに言うところの「日上乃湊」は日上川(ひのかみかわ)の湊(みなと)であり、日高見川(ひたかみかわ)の船付場を指すものであって、石巻等の海港を言うのではない。

更に、日河と省略される場合もある。いずれも日高見川を指すものである。延暦16年(797)6月桓武天皇に上表するところに(1)…
「威振日河之東」は日高見川の東に桃生城を建置してより、毛狄(もうてき)(蝦夷)のそむくことがないというのであるが、日高見川を日河、日上河と略称し理解される程熟語化していたことは、古代国家においてひろく用いられていた日高見川の名称であろう。

二、日高見川(ひたかみかわ)
目高見川は、日高見の国の河の意であり、日上河(ひのかみ河)即ち日高見川である。
日高見川を夷語の「ヒタラカムイ」であり「河床の神の義」と称するものもあるが、日高見は大和言葉であり、日高見国は日立国(常陸国)と同じく、都より路はるかにしてようやく到達し得る国の意とされる。

日高見の名が国名として史上にあらわれるのは、景行天阜27年(97)のことである。武内宿弥が東国を巡り日高見の国状を奏上するところを(日本書紀に)次の如く記している(2)
《二月十二日
武内宿弥自東国還之奏言。東夷之中。有日高見国。其国人。男女並椎結文身。為人勇桿。是摠曰蝦夷。亦土地沃壊而曠之。撃可取也。》
とある。これを以って初見とするのである。
更に、日本武尊(やまとたける)が東夷を平定し、日高見国より帰るを次の如く記している(1)。…
日高見の国は陸奥国より進んでさらに奥地であって、蝦夷(えぞ)(注1)の住む宮城県仙北及岩手県内陸部の総称と考えられている。

日本武尊の到達した日高見の地は宮城県桃生附近と称されているが、北上川の左岸桃生郡桃生村太田(桃生町)に日高見神社がある。同社は延喜式神名帳所載の古社であり、祭神は天照大神、日本武尊並に武内宿弥の三柱である。
此の外、日高見を称する神社は、本吉郡に日高見神社がある。その由緒(ゆいしょ)によれば古代本吉地方は、桃生の内であり日本武尊を祀り日高見神社と称している。
又、水沢市にある日高神社は弘仁元年火満瓊命(ほむすびのみこと)を祀る処の妙現社であるが、その社地周辺の古名が日高であるところより日高妙現社と称せる所である。

地名、日高は日高見であって蝦夷の住む東奥の地を総称した日高見国の一部である。
此処に流るる河が日高見川である。喜田貞吉博士はその論説において日高見川が北上川と訛(なま)った、後まで、日高又ハ日高見の古名が一部に保存された証拠とすべきものであろうと述べているのである。

三、神水(かみかわ)又は神川(かみかわ) …(略)…
四、加美川(かみかわ)  …(略)…
五、来神川(きたかみがわ)  …(略)…
六、北神川(きたかみかわ)  …(略)…

七、北上川(きたかみかわ)
北上川の名は、古い時代における日高見川の転化するものであることは、さきにも述べる如く、喜田貞吉博士(注2)
《北上川は疑もなく日高見河であって、而して、その日高見河の名が蝦夷の住む日高見の国の河の義であることは疑を容れないのである。》と、論説されるとおりであり既に定説とされるところである。

北上川の名称が北上河又ハ北上川として史上にあらわれたのは(5) (「吾妻鏡」に)
《文治五年(1189)九月二十七日…至于四五月。残雪無消仍號駒形嶺。麓有流河而落于南。是北上河也。衣河自北流降而通于此河。…》
とあるのが初見である。
更に、同二十八日の条に《延暦の昔、坂上田村麻呂田谷窟(達谷窟)の前面に九間四面の精舎を建立し、多聞天を安置しその寄進状の中において「北上川を限り」と記すところ》というが、此の事は信じがたいものがある。

おわりに
北上川の名称は馬渕川(まべちがわ)等と異なり夷語、又は土俗語によるものではない。従って、蝦夷、土豪等の称呼せし処は不明である。ただ、陸奥話記によれば前九年役において盛岡周辺の北上川が、大沢と呼ばれたことは推定されるが、その他の地域においては古名と考えられるものもない。
日高見川の名は中央において古代国家の命名する呼称であり、夷地の皇化に伴い下流地方より次第に上流地方に及び、更に、日高見川が北上川と転訛され今日に至ったのである.

註) (1) 続日本紀  (2) 日本書紀  (3) 前太平記
  (4) 南部家系譜  (5) 吾妻鏡

日高見神社御祭神 (宮城県石巻市桃生町)
日高見神社御祭神
(宮城県石巻市桃生町)(注3)

◆日高見国◆
(Wikipedia「日高見国」より)

日高見国(ひたかみのくに)は、日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『大祓詞(おおはらえのことば)』では「大倭(おおやまと)日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと

解説
『釈日本紀』は、日高見国が大祓(おおはらえ)の祝詞(のりと)のいう神武東征以前の大和であり、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』での日本武尊東征時の常陸国であることについて、平安時代の日本紀講筵の「公望私記」を引用し、「四望高遠之地、可謂日高見国歟、指似不可言一処之謂耳(四方を望める高台の地で、汎用性のある語)」としているが、この解釈については古来より様々に論じられている。

例えば、津田左右吉のように、「実際の地名とは関係ない空想の地で、日の出る方向によった連想からきたもの」とする見方もある。
神話学者の松村武雄は、「日高見」は「日の上」のことであり、大祓の祝詞では天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国のことを「日の上の国(日の昇る国)」と呼び、神武東征の後王権が大和に移ったことによって「日高見国」が大和国よりも東の地方を指す語となったものだとしている。
また、「日高」を「見る」ということでは異論はなく、「日高」は「日立」(日の出)の意味を持つので、『常陸国風土記』にある信太郡については、日の出(鹿島神宮の方向)を見る(拝む)地、ということではないかともされ、旧国名の「常陸」(ヒタチ)は、「日高見道」(ヒタカミミチ)の転訛ともいわれる。

その他様々にいわれているが、いずれにしろ特定の場所を指すものではないということでも異論はなく、ある時の王権の支配する地域の東方、つまり日の出の方向にある国で、律令制国家の東漸とともにその対象が北方に移動したものと考えられている。北上川という名前は「日高見」(ヒタカミ)に由来するという説もあり、平安時代には北上川流域を指すようになったともされている。戊辰戦争直後には北海道11カ国制定にともない日高国が設けられ、現在は北海道日高振興局にその名をとどめる。

新説
金田一京助は、「公望私記」が(「日高見」を)「四望高遠之地」とするのを批判し、「北上川」は「日高見」に由来するという説を唱えている。高橋富雄は、この「日高見」とは「日の本」のことであり、古代の東北地方にあった日高見国(つまり日本という国)が大和の国に併合され、「日本」という国号が奪われたもの、としている。歴史書などの史料による裏づけがあるわけではないが、いわゆる東北学のテーマとして、話題になっている。

日高神社境内入口 (岩手県奥州市水沢区)
日高神社境内入口
(岩手県奥州市水沢区)(注4)


[補足]
(1) 蝦夷:本書では「蝦夷」に「えぞ」とカナがふられていますが、「えみし」とも読みます。両者の違いは、使われた時代とかアイヌとの関連など、いろいろ説明されていますが、大雑把に言って古代までは「えみし」と読み、中世以降は「えぞ」と読むのが一般的なようです。
(2) 喜田貞吉:きたさだきち、明治4年(1871)~昭和14年( 1939)。第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。
・独自の日本民族成立論を展開し、日本民族の形成史について歴史学・考古学の立場から多くの仮説を提示した。
・「日鮮両民族同源論」を提出し、結果的に日韓併合(明治43年(1910))を歴史的に正当化したと批判される。
(3) 日高見神社:⇨「日高見神社」
(注4) 日高神社:⇨Wikipedia 「日高神社」

(2016.10.17掲)

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