大木家と神明社

「大木家代々書留記」 拾い読み

「東十二丁目誌」の著者・石崎直治先生が調査・記録した「東十二丁目古文書目録」(1)には1,239件の古文書が載っていますが、そのうち543件が大木家文書であり、その中に「代々書留記」があります。
この史料は「花巻市史・資料篇(矢沢地区地方文書其之一)」(2)にその全解読文が収録されており、「凡例」の中で次のように紹介されています。

《「代々書留記」は、矢沢東十二丁目、大木直義氏所蔵のものである。大木家は屋号を「大木」といい部落の大本家である。この冊子は正保二年(1645)から天明五年(1785)までのこの地方の重要な事件を、年代を追って記録したものであり、検地、凶作、新田開発、神社などについての内容は好資料を提供するものである。》

凶作・飢饉や洪水・治水などの大事件に多くの頁が割かれていますが、その他の諸事・雑事も多く記されています。
本稿では後者について、順不同に拾い読みし、できる範囲で書き下しを試みます。

■ 序
《此の家大木屋敷は代々丹波と申し、次に彦助と名を改め罷(まかり)り来たり候(そうろう)。前々書留伝え候得共(そうらえども)、何と失い候哉御座無く候。古来存じ申さず候。其の後万事書留候間、此の末段々書留申す可(べ)く候。》  (p.139)

■ 社寺
歓喜寺 正保元年(1644) 改記
古来当村無寺成(な)り。花巻終興(すいこう)寺、太田村昌歓寺両寺の旦家(だんか)成り。何共寺遠方にて迷惑仕(つかまつ)り、段々数年願上げ候所に、願の通り仰せ付けられ、村中惣老共相談の上、嶋長根の仁左エ門持地の内を買い、寺場を調え仕り、少の寺立て歓喜寺と申す。是又昌歓寺拝寺に候得(そうらえ)ば、当村より弘僧(こうそう)に奉進候。直々(じきじき)其の弘僧什寺(ちうじ)に仰せ付けられ候。是又惣村中改記。

附けたり:後々村中草刈山村中相続の上、林立置寺山定と何方よりも兎角違趣申す者之無候筈。此の事用事之有候ば、其の年の書物の内村家数、宗門附帳共に之有り候間、見出申す可く候。》  (p.141)

歓喜寺について「東十二丁目誌」には、《当寺は正保元年太田昌歓寺十世溪岩光浦大和尚が当時嶋村長根に居住していた豪士古川太郎右エ門から境内地山林共3町歩余の土地の寄進を得て開創した。…当寺二世端室和尚が中興となっているので開山和尚は勧請ではないかと思われる》とあります。

冒頭にある「花巻終興(すいこう)寺」は「瑞興寺」のことか?

山神 建立元文元年(1736)九月十二日遷宮
本来此の屋敷の内西南角は池の神と申し奉り、へいそく立て神拝致し候所、享保十二年(1727)御新田奉行中野七兵衛様御取立て、御新田手前持地本高6斗彦吉作地尻御新田に仰付けられ候間、松植立て山神と移り奉り候。

附けたり:彦助同年七月十三日吉日にて江戸へ登り、かんた(神田)小屋町にて新御宮買調う。御本たい山神・田神・年徳神、合わせて三神、八寸丸御鏡へ出来致し、右御宮やね板内板皆取り、御宮斗(ばかり)かたかけ、同八月十四日晩罷り下り、其れまでさや宮、鳥井同村大工彦三郎に細工致させ、建立致し候。》  (p.140)

山神 建立  元文三年(1738)九月十二日迂宮仕り候
八寸位御鏡、年徳神、山神、田神右三柱神
右の通り御座候得共、古来より少ノ御宮此の屋敷に御座候所、御新田申請け候間、享保十七年(1732)右の通り建立》  (p.144)

年徳(としとく)大明神 明和七年(1770)小宮建立 安永二年(1773)本宮建立 両年建立
古来より槻丸六丈斗(ばかり)の大木、御神木年徳神と成し奉り有来り候時に、段々えだかけ落ち、その後御神木か□いり小山小森の様に罷り成り、是まで社参の者も無く御座候間、別当久右エ門に少々無尽とても相初め、御宮を相立て候様に数度申し候得共、中々承知之無く候間、手前にて自分に先ず小宮を建立致し置き、次に御宮、さや宮共に手前自分建立致し候。

附けたり:七月初めより当村大工甚助に細工致させ、八月七日迄相立て、同八日晩大吉とて宗右エ門恐之恐之も御遷宮祝納致し候。別当久右エ門御遷宮の晩よい申し候得ば、酒すづに入れ持参仕り候斗、手伝いは一切仕らず候。其の後此の近所衆無尽を初め、一人に付代物八十八文宛相出し、初め鬮(くじ)手前にて申請け、次は段々廻鬮にて、人数二十三人御座候。但し此の無尽帳別に□持有之、用事有之候は見出し申す可く候。》  (p.141)

浮田村十二社大神宮 元禄十二年(1699)九月十五日
              東十二丁目村 大木彦助 三十六
此の別当浮田村弥左エ門殿へ、此の御宮立替え別当弥左エ門殿へ数度願上げ候。手前自分に建立致し候。

附けたり:此の御宮建立致し候彦助の母は、右浮田村弥左エ門殿より御出で成られ候母成り。然(しか)るは此の神宮を心懸け候(そうらい)て建立致し、御遷宮迄手前の諸入方万事相務め、殊にわに口等迄東十二丁目村大木彦吉と切付け懸け置き奉り候。》  (p.142)

浮田村は東十二丁目村の南東約7km、現在の花巻市東和町の内。

神明御宮建立
寛延元年(1748)の九月御迂宮。大工中内村善助、同善吉、小引倉沢村平三郎。是は伊勢無尽銭入方にて建立。別当人数四十一人立合い、手前にて当宿仕る。》  (p.145)

「東十二丁目誌」によれば、《天文17年(1548)頃の勧請…社殿を造営したが、…元禄の頃まであった社殿も僅かに石場のみ残っていた…》

神明御本宮建立
宝暦四年(1754)二月
大工土沢町清八、中内村善吉、小引倉沢内平三郎。別当仲間中にて建立。》  (p.145)

旧宮は拝殿にしたという。

神明 別当 左記
宝暦十年(1760)二月御公儀より神社書上げ仰せ付けられ、書上げ仰せ付けられ、書上げ仕り候。之に依り同七月二十一日手形相添え、豊沢町和久屋平賀水重様別当願上げ奉り置き申し候。》  (p.158)

神明御宮南むき
宝暦十二年(1762)川口町釜沢町平賀水主様御門人藤右エ門御建立成され候。入方銭十七〆四百二十五文、米二駄片馬一斗三升入方。》  (p.161)

拝殿、本宮覆社を南向きに建替えた。

■ 家族・一族
《平十郎 畑中へ別家    平三郎 西畑中へ別家
三十郎 此の西へ別家   万四郎 畑中へ別家
□           (此の年西の方大吉にて差置き申し候)
享保十四年(1729)九月》  (p.143)

別家:分家の一種。分家と同様の意味で使われる地方も多いが,江戸時代の町家では血縁の分家と区別し,奉公人が主人の許しを得て独立し,一戸を構えることをいった。
ここでは後者に近いか。

《祖父様 病死
享保十八年(1733)十二月六日晩五ツ時、御年七十、彦助と申す、御病死》  (p.143)

《藤助 川口町へ別家  北の方大吉
延享二年(1745)二月指置き申し候》  (p.145)

《祖父(?ママ)母様 九十三病死
宝暦七年(1757)ノ十二月十三日病死。十二ヶ村より御出成られ候。》  (p.158)

《庄兵衛後屋敷へ別家 北の方大吉
宝暦カノトノ午(1762)九月指置き申し候》  (p.145)

■ 家・屋敷
《此の家立替えの記
元文二年(1737)八月より九月迄出精。大工中内村善吉、当村彦三郎、小引(こびき)宮田村万五郎。はり間五間八寸五分、間数十三間六寸成り。

附けたり:右古来家はほり立て(掘立)に候得共六十五年に罷り成り、此の度石(の上))に立替え、材木は高松袰輪山より前相立申し候。》  (p.144)

蔵 立替え 宝暦九年(1759)
只今迄御座候蔵は八百五六十年余、年数も存じ申さず。大工川口町裏町角兵衛、三月廿一日より四月十七日迄相洲。大工人足都合二百六十人、内二十人角兵衛、五十八人助大工、五十六人手前大工共。

付けたり:古蔵は三間三間にて、本家引付け火用などには、用に相立ち申さず候間、右の通り立替え申し候。》  (p.158)

(かど)明けの事
宝暦十一年(1761)正月六日大吉日にて南門明け申し候。古来門は東の方大門、西の方は北門にて、東西有り。此の年巳午の間明け方程明け申し候。》  (p.158)

手前屋敷井南より北の方へほり替え申す覚
宝暦十二年(1762)九月二十日吉日にてほり初め二十日二十一日両日ほり、其の二十一日晩大雨ふり、東の通りまで大水にて相控え、十月二日より三日ほり済む。三日晩吉日にて水くみ初め申し候。但し人足は手前人共に石くはり皆〆四十七人。南の古井は今の北の井より辰巳に当り申し候。》  (p.161)

出火 左記
宝暦十三年(1763)二月六日晩八ツ半時、比成すえ釜より馬屋へうつり、但し手前味噌正月三十日迄済み、二月四日藤助味噌済み、庄兵衛味噌初め候。釜より馬屋へうつり、けたへ付き候時見付け、何とぞしめし申し度(た)くと水あけ水ケ候得共(そうらえども)、成り兼ね、夫れより馬四匹共出し、にわ鳥・ね子共に皆出し、生き物は一切失い申さず候。
家より出物、からと一、引きたんす一つ、硯箱一つ、拝仏(ほとけ)、御祓いの御官、都合五品より外出し申さず候。
外に老父母居間座敷三間に二間一尺八分、中家後(ちうもん)に有り候。此の座敷の物は皆出し候。是の天ん上はり候間、火は入り申さず候間、此の如し。

但し家の数、人馬記
五間八寸五分 はり、  十三間六寸 間数
二間一尺五寸八分 はり、  三間 間数
二間半 はり、  五間 間数、  小屋
二間 はり、  三間半 間数、  小屋
一間半 はり、  二間半 間数、  倫陰(せちいん)
四尺 はり、  八尺 間数、  同
家数 六家皆、   二間 はり
出間 材杢(もく)小屋 蔵
此の二品より外屋敷中残り無く皆火失申し候。

附 二月九日より家作普請取付け、同二十九日迄に敷板迄皆てん上のかべ皆相済まし、同二十九日晩吉日うつり申し候。

大工人足記 宝暦十三年
中内 善五郎、 臥牛 平吉、 田内 長之亟、 嶋 甚助、 倉沢小引 孫右エ門、 成嶋小引 四郎右エ門
此の外皆助大工、 人足〆八百八十人、 大工〆六十五工
小納の事出火帳に記し置き申し候間、是見出心懸け申す可き事》  (p.162)

興味深い内容ですが、完全には読み解けていません。
この家は26年前に、掘立柱の古家から「石(の上)に立替」えたものでした。

これを読んで、自分の子供の頃(昭和2、30年代)の我家の味噌を思い出しました。
その頃、我家の味噌は台所の奥の戸棚の中にある大きな木樽に貯蔵されていましたが、全くの自家製というわけではありません。
時期は憶えていないのですが、大豆の収穫が終った後の初冬でしょうか。年に一度、大豆をショウヤ(「庄屋」ではなく「醤油屋」)に持って行き、味噌に仕込んでもらい、家に持帰って、木樽で発酵、熟成させて使っていたのです。

■ 諸々
和賀郡・稗貫郡両郡境の事  正保2年(1645)御改め。附けたり:此の絵図書付万事用物御座候。》  (p.139)

御検地の事  寛文10年(1670)、惣御検地御通り遊ばされ候。》  (p.139)

御村肝入仰せ付らる事
元文三年(1738)十二月仰せ付られ、孫左エ門より請取り、延享四年(1747)三月二日左兵衛へ引渡し、年数十年相勤め候。》  (p.144)

[補足]
(1) 「東十二丁目古文書目録」「石崎文庫」をご覧下さい。
(2) 「花巻市史・資料篇(矢沢地区地方文書其之一):平成3年3月31日 花巻市教育委員会発行
・本稿に表示した「(p.nnn)」は本書の該当ページを示します。

(2017.7.24掲)

“「大木家代々書留記」 拾い読み” への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です