「東十二丁目誌」註解覚書: 宝暦の大飢饉

本誌の「第5章 近世 / 第10節 村の凶作」に、

《…凶作の歴史を見ると、…徳川260年間に75回-約3年半に1回の減作が出ている。
この内元禄…、宝暦…、天明…、天保…は本県の大飢饉の発生した年で、其の都度餓疫死者万を超え、宝暦5年(1755)の大飢饉には餓死者9,594人、空家7,043軒を生じ、…天明の大飢饉には、…餓疫死者64,698人、空家10,545軒、他領逃散者3,330人、牛馬の餓疫死するもの2万を越え、…天保の時も5万人以上の餓疫死者があって、犬猫、鼠牛、馬人肉を食し…》

とあり、宝暦大飢饉について東十二丁目村の様相を「大木家代々書留記」から引用しています。

5.10 村の凶作 (クリックで、全体を表示できます)
5.10 村の凶作
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しかしこの引用は「大木家代々書留記」の「餓死年 宝暦五年亥 左記」の項の前半部のみです。後半は次のように続きます。

《然れども手前家内人数上下〆て18人之有り、又かつら沢より参り候(そうろう)と申す1人助け、都合19人手廻り候得共(そうらえども)、餓死仕(つかまつ)り申さず候。是(これ)位の□年に候得共、盗人、失せ事一切御座無く候。扨々(さてさて)殿様御一人御意光(いこう)を以て、物有る所へも押入り申さず、自分に命を死に申し候。

此の家其の頃89才に罷(まかり)り成る十二ヶ村落合(注1)より御出の祖父(をりは(?ママ))母之れ有り候所に、か様のかし(餓死)年は万物(くいもの(ママ))之有り候と、粥にてもゆるゝゝ致し申す間敷(まじく)、堅く致し、椀数喰(く)わせ申さず候様に致し申すべしと、食汁共に右の通り数喰わせ申さず様に、度々鐺(こじり?)残り様に仕る可(べき)処、度々左様申され候間左様に仕り候得ば、家内19人の者共毎年の通り相受け事之無く候。明年相働き申し候。

世間に有る家にても、万物所持候ても万事不足の由に仕る家は、殊に権入人馬病人も多く、殊にはかぜ申し候て相見得候。是は千一に御座候。

其の年は御年貢米皆むし米にて、するす引き(籾摺り)申す時も13、4人の者共米喰い次第に喰わせ申し候得共、一晩に4、5升喰い多く喰い申さぬ者に御座候。
有る家にては、するす引きの時旦那主人居懸り奉行致し候も之有り。是は多く盗喰いに多く入り申し候と申し候。是も千一に御心掛け申すべく候。

9月29日晩□五ツ(午後8時頃)時分喰わせ申し候。
12月27日晩五ツ時より餅初つき申し候。
旧年越し、晩食の湯呑み申し度(た)しと近所餓死人都合23人参り、台所に居申し、扨々(さてさて)迷惑仕り、夜飲四ツ時(午後10時頃)相済み申し候。其の年は別けて寒く申し候得ば、皆々迷惑仕り候。

此の年手前高、田形御歩付(ぶづけ)4ツ7分(年貢率47%)より以下、畑歩付3ツ8分(38%)以下、手作高29石余り、御年貢米むし米にて〆て10駄(だ)片馬(かたうま)位上納仕り候。》

・まだ十分にには読み解けていませんが、私はこの後半部を読んで、前半部だけでは分らない「余裕」みたいなものを感じました。
大飢饉と言ってもこの段階(宝暦5年)ではまだ余裕があったのか、それとも豪農大木家ならではの余裕なのか。

・当時大木家には家族、使用人等を含め18人が暮らしていた。
・まわりに餓死する人はいたが、盗みに入ったり、騒ぎを起こす人は居なかった。「渇しても盗泉の水を飲まず」か!!

・「祖父母」の「祖父」に「おりは」とカナがふられているが意味は?
「祖父母」とあるが「祖母」のことと思われる。この「祖父母」は宝暦7年に93才で病死。(注2)

・籾摺りの時には「米喰い次第に喰わせ」(白米ではないかもしれないが)、12月27日には「餅初つき申候」とあります。

・「御年貢米むし米にて」とありますが、「蒸米」のことか。とすれば長期の保存はできないので、直ぐに消費されたのか。例えば窮民に配給されたとか。
「10駄(だ)片馬(かたうま)」とはどれ程の量だったのか。「高木村の歴史」(注3)の中に「米1駄(7斗)」とあり、ネットでは「1駄36貫(135kg)」というのが散見されます。4斗60kgとすれば、135kgは9斗。1駄9斗として、10駄片馬は9石4斗5升。しかしこれはむし米の量なので、玄米に換算しなければ実際の年貢率を計算できない。むし米を1駄9斗とすること自体が無意味か!?

[補足]
(1) 十二ヶ村落合:現・花巻市東和町落合
(2) 祖父母様 九十三病死:⇒「大木家代々書留記」ひろい読み
(2) 「高木村の歴史」:佐藤昭孝編、S62.4.30 同人発行、(p.89)参照

(2017.8.24掲)