「東十二丁目誌」註解覚書:百姓一揆

本誌の「第5章 近世」/「第12節 百姓騒動」 のテーマは百姓一揆。冒頭、東十二丁目に関係があると思われる百姓一揆、12件について発生年月、発生地、原因、方法、成否と参加人員の一覧表を掲げ、続いてその1件ごとに主に当時の文書から引用し、書下し文を載せています。

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■ 百姓一揆別の原因、内容、結果
しかし本誌には解説などがあまり付いておらず、全体像が掴み難いので、「高木村の歴史」(1)の「第8章 南部藩政時代後期と高木村」/「第6節 百姓一揆の発生」/「(2) 百姓一揆別の原因、内容、結果」からその要点を引用します。

(1)享保16(1731)の坪役銭反対の一揆 (強訴(ごうそ))
ア) 原因(要求) 坪役銭(つぼやくせん)の反対、代官所へ納付する税の軽減、買米(かいまい)制度の反対、悪徳米商人の追放、肝入(きもいり)の民主的選出等。
イ) 内容 2月25日鬼柳通(とおり)百姓の盛岡城への直訴に呼応し、稗貫・和賀2郡の百姓約3千人が参加する藩はじまって以来の広域的な一揆になったが、藩の鎮撫により治まっている。
ウ) 結果 坪役銭(宅地の新税)が中止されるとともに、この一揆により米が暴落、高(たか)百石につき役金(やくきん)2歩が減税となり要求は成功している。
エ、資料 花巻市史「花印」

(2) 寛政七年(1795)の重税反対の一揆 (強訴(ごうそ))
ア) 原因(要求) 重税、買米制度、馬新税の反対と寸志金(すんしきん)、山林伐採の中止等。
イ) 内容 11月8日志和郡下から一揆が発生し、安俵・高木通から約5千人参加しているが、川前(かわまえ)六ヵ村(高木村、東十二丁目村、更木村、平沢村、黒岩村、立花村)は11月11日集合し、翌12日に行動を起している。この一揆は稗貫・和賀2郡1万2-3千人の百姓が決起した藩最大の騒動となり、盛岡城下に詰めている。
ウ) 結果 要求はほぼ認められ一揆は成功している。
エ) 資料 「高木村年代記」、東十二丁目の「大木家文書」

(3) 文化12(1815)の減税の一揆 (愁訴(しゅうそ)、一部強訴(ごうそ))
ア) 原因(要求) 年貢米への覆米反対、役金の軽減、塩、紅花の税の軽減、他村への使役人夫の割当反対、味噌買上げの反対等。
イ) 内容 4月ころから所々の百姓が一揆にたちあがっているが、高木村では東十二丁目村、更木村の百姓が相寄り、藩の要請どおり実力行使をおこさず、目録でもって愁訴しているが、しかし、東十二丁目村の百姓百5-60人が6月2日一揆をおこし、成島の荒尾向舟場に押し寄せ、巡回中の藩の勘定頭に諸役金の軽減等を直訴している。
ウ) 結果 要求事項がほぼ認められて一揆は成功しており、この騒動に関係した藩の責任者が一部降職している。
エ) 資料 長根の「佐藤家文書」

(4) 文政4(1821)の三郎堤普請使役反対の一揆 (愁訴(しゅうそ))
ア) 原因(要求) 三郎堤普請の使役反対。
イ) 内容 三郎堤の普請を受持つ村は決まっているのに、他村まで動員しなければならない程の緊急性が認められないという断りの決議文を、高木村をはじめとする川前六ヵ村と中内村、宮田村を加えた八ヵ村の肝入や老名が連合して代官に提出している。、この愁訴(しゅうそ)には村々の知行肝煎(ちぎょうきもいり)も加わって政治的圧力をかけたもので、一揆としては異色なものであった。
ウ) 結果 藩が決定したことであるので、今回だけ計画の半分の使役を送り出すことで妥結している。
エ) 資料 「東晴山記帳」

(5) 文政5(1822)の三郎堰普請使役反対の一揆 (愁訴)
ア) 原因(要求) 三郎堰普請の使役反対。
イ) 内容 前年に高木村外7ヵ村から使役反対の愁訴(しゅうそ)をうけたのにも関わらず、藩では再び矢沢村、幸田村等を除く安俵・高木通19村に対し、普請の使役の要請が行なわれた。
安俵・高木通の各村の使役の人員は4千308人、内高木村は96人、三郎堰の泥払いの面積は5千562坪(1坪は3.3平方米)、内高木村は144坪であった。
ウ) 結果 今回限りということで藩の命令どおり普請が行なわれている。
今回の一揆で村々の肝入が協力して愁訴(しゅうそ)したことは、村々の発言力が強まってきたことを物語っている。
エ、資料 「大図日記」

(6) 文政6(1823)の和賀川普請使役反対の一揆 (愁訴)
ア) 原因(要求) 和賀川堤防の普請の使役反対。
イ) 内容 洪水で大破した和賀川堤防普請のため1万1千855人、内安俵・.高木通から2千665人の人夫の強制割当があったが、普請には各村ごとに持場があるうえ、現場は遠い地であり、他の通の者が普請に行くほどのものではないので、免除してくれという愁訴(しゅうそ)が各村から提出された。
ウ) 結果 今回ばかりという条件で妥結しているが、百姓の発言が強まってきたことが窺がわれる。
エ、資料「東晴山村記帳」

(7) 文政6(1823)の御仮屋普請出役拒否の一揆 (愁訴)
ア) 原因(要求) 鬼柳村にある藩主御仮屋(おかりや)への普請人足割当の拒否。
イ) 内容 御仮屋が類焼したので、新築のため人足1万2千228人の割当が稗貫・.和賀2郡の8通に強制的に行なわれたが、これに対する反対の愁訴(しゅうそ)が行なわれている。
ウ) 結果 非常事態であるので、前例としないことを条件で妥協している。
エ、資料 「東晴山記帳」

(8) 天保7(1836)の重税反対の一揆 (強訴(ごうそ))
ア) 原因(要求) この年は大凶作であるので、年貢米の半減、来春蒔く種籾(たねもみ)の下附、来年の諸税の軽減、開田の反対、普請の村限りの厳守等。
イ) 内容 この年は百姓一揆が2回発生し、第1回目は8月18日大暴風雨のため稲作が大損害を被ったことと、高木村、東十二丁目村、更木村の三ヵ村用水堰が決壊したことを期に百姓一揆が発生した。しかし、この騒動は藩の鎮撫にあって一時治まったが、再び安俵・高木通全村の百姓による一揆が11月1日発生。高木村の百姓は11月23日・24日にこの騒動に合流している。かつてない大きな百姓一揆であったことが窺える。
ウ) 結果 要求は高木村の開田計画以外は悉(ことごと)く体よくあざむかれ、百姓一揆は惨敗に終っている。
エ、資料 東十二丁目村「孫左工ェ門家文書」

(9) 天保8(1837)の重税反対の一揆 (越訴)
ア) 原因(要求) 凶作であるので年貢米の軽減、来春の種籾の下附、普請人足3年間の延期、買米制度の反対、寸志金(すんしきん)の廃止等。
イ) 内容 前年に安俵・高木通の村々が年貢米の軽減など13条にわたって是正する様に訴えているが、何の音沙汰もなく、盛岡藩に要求しても一向にらちがあかないので、一揆では非常の手段として伊達藩に直訴していたもの。
この一揆には稗貫・和賀2郡が正月13日から行動を起し、2万5千人以上が越訴(えっそ、おっそ)している。
ウ) 結果 盛岡藩では伊達藩に非常に迷惑をかけ、また、藩政の内状をさらけだしたこともあり内密に処理しているが、しかし、実際には主謀者や藩の役人は処罰されている。また、伊達藩でも他領の出来事であるので何の沙汰もなく、この百姓一揆は再び失敗に終っている。
エ) 資料 『高木村年代記」、「仁八家年代記」 》

本誌では嘉永6(1853)に歩付高割反対の愁訴が成功したことを記すが、「高木村の歴史」はそれに触れていない。

(10) 安政5(1858)の三郎堰普請反対の一揆 (愁訴)
ア) 原因(要求) 三郎堰の普請はこれ迄今回限りということで協力してきたが、今回も使役の強要があり、約束が違うと反対要求。
イ) 内容 10月に三郎堰の泥払いのため、安俵・高木通から3万1千980人の出役を強要している。
ウ) 結果 藩の命令であるので今回だけ予定の5分の1の6千286人とし、内地元の矢沢村は2千2百人、他の4千086人を外の村から使役を出すことで妥協している。
エ) 資料「大図日記」

(11) 慶応2(1866)の減税・開田反対の一揆 (強訴)
ア)  原因(要求) 凶作の年であるので年貢米未納分5ヵ年間の納付・買米の永年免除、畑返しの中止、明春の種籾の下附等。
イ) 内容 この年は大飢饒であり村人は心を痛めていたが、藩では容赦のない年貢の取立てを行なっている。特に、高木村、東十二丁目村、更木村では藩の家老楢山佐渡が2千石増収のため畑返しの工事に着手していたが、この強制の開田に村人は不満をいっせいに暴発。他の稗貫・和賀二郡の各村とともに百姓一揆に走っている。即ち、12月6日、川西の5村から蜂起した百姓の勢いは近郷の各村に波及し、高木村でも12月15日夜1戸1人宛参加するほどの大百姓一揆となり、藩に押しかけた村人はおびただしい数であったと伝えられている。
ウ) 結果 十二丁目村、更木村、臥牛村等からは一揆指導者が逮捕されているが、藩では要求を入れる代りに今後一切百姓一揆をしないという一札をとっている。(幸い廃藩になり皆放還された。時に明治元年3月。)
エ) 資料 「又右ェ門家の暦」、堰袋の「佐藤家文書」 》

■ 「百姓一揆」とは何だったのか?
「百姓一揆」と言えば、筵旗を掲げ法螺貝を吹き鳴らし鉈や鎌を持った武装示威行動を思い浮かべますが、実際はそれだけではなかったようです。本誌では、一揆が「逃散(ちょうさん)」、「嘆願」、「愁訴」、「強訴(ごうそ)、直訴」、「越訴(おっそ、えっそ)」の7態様に区分されており、今で言えば「陳情」、「請願」、「平和的デモ行進」から「暴力的デモ」までを含むものということでしょうか。。

本誌には「…みな曲事(くせごと)で、法に背いた者は厳重に処罰する制度を設け、…これに従わない行動を一揆として厳罰に処した。」とありますが、東十二丁目村の事例を見る限りでは「そうでもなかった」との印象を受けます。一揆のような農民の行動は建前としては厳禁だが、ある程度は黙認されていたのではないか。藩当局は「一揆」という政治行動なしに農民の実情を知ることができず、一揆は藩政にとって必要な「装置」だった、と言っては言い過ぎでしょうか。

 [補足]
(1) 「高木村の歴史」:佐藤昭孝編、S62.4.30 同人発行

[参考]
・「高木・東十二丁目・更木、幕末の百姓一揆
・「稗貫・和賀、百姓一揆の郷

(2017.9.30掲)

「東十二丁目誌」註解覚書:百姓一揆」への2件のフィードバック

  1. Sato Tak様
    いつも興味深く拝読させていただいております。

    当方も父祖が東十二丁目の出身であり、いまは無き白雲酒造のゆかりの者です。

    唐突なお願いで恐縮ですが、
    慶応の一揆に携わった佐藤源右衛門について、もう少し詳しくご教示ください。
    「佐藤総本家」とのことですが、この家の由来・出自などお判りになりますでしょうか?  今も直系のご子孫は当地にご健在でしょうか?

    1. 当サイトへのご訪問、有難うございます。
      源右衛門家のことですが…あまり詳しいことは分かりません。
      母が「総本家」と言っていましたので、そう書きましたが、東十二丁目の佐藤の総本家ということではないようです。
      当家の本家が音坂佐藤家、その本家が徳右衛門家、その本家が源右衛門家です。そしてその本家も東十二丁目在住ですが、高橋姓になっています。
      白雲佐藤家は別系統だ、と母から聞いたように思います。
      本家、分家と言っても、ブログの中でも触れましたが血縁関係があるとは限りません。
      現在の源右衛門家についてはメールでご連絡します。
      以上

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