藤之助別家の事 -宝暦・天明・天保三大飢饉を生きる-

石崎先生が収集・記録した東十二丁目の古文書は1,200件以上。その中の主なものは先生が解読済ですが、解読していない文書も多くあります。
その中から適当に、目録に「大木家文書 / 藤之助別家」とある文書を選び、解読、書下しを試みました。

総文字数850字ばかりの文書ですが、意外と興味深い内容でした。
この文書の本体は、大木家から別家(分家)(注1)した藤之助に分与された財産の目録なのですが、別家する前後の経緯が簡潔に記されています。話は宝暦の大飢饉の時代に始り、藤之助が別家したのが天明の大飢饉の頃、そして藤之助の孫の代になって、天保の大飢饉の時に家が潰れてしまうまで。

原文 (クリックして、全文を表示できます。)
原文 (クリックして、全文を表示できます。)
書下し文 (クリックして、全文を表示できます。) 解読できていない部分も多くあり、未解読の部分はそれらしき文字に置換えただけにしてあります。
書下し文 (クリックして、全文を表示できます。)
解読できていない部分も多くあり、未解読の部分はそれらしき文字に置換えただけにしてあります。

■ あらすじ
      〈宝暦5年(1755) この年大飢饉〉
・荒助の家族は宝暦の大飢饉で死に絶え、荒助は孤児となった。
・縁者の者が大木家に荒助の援助を頼んできた。
・大木家は荒助を引き取り、名を藤之助と改め、養育した。

     〈天明3年(1783) この年大飢饉となる〉
・藤之助が嫁を取り、子供二人もできたので、大木家は藤之助を近所に独立、別家(分家)させるべく準備を進めた。
・しかし大木家の思惑とは異なり、藤之助は川口町(注2)に住むことを願ったので、止む無く許した。

     〈天保3年(1832) 天保の大飢饉始まる〉
・後年、藤之助の孫娘に婿を取ったが、竈(かまど)を返し、天保の大飢饉の時に仙台藩岩谷堂在に出奔してしまった。

そして大木家は嘆く:「さてさて世話甲斐のなきもの也!!!」

■この文書を読んで思ったこと
《手前にてひろい置き…助け置き候》
・孤児になって大木家に引取られた藤之助が、お伊勢参りに行き、嫁を貰い、子供もでき、遂にはかなりの財産を貰って別家! 大木家は何とも太っ腹!!
しかも別家したのが天明の大飢饉の始まった翌年です。
・藤之助と大木家はどんな関係だったのか。藤之助が大木家に並々ならぬ貢献をして、番頭のような立場になっていたとか? あるいは嫁が大木家一族の娘だったか? それとも潰れてしまったが、藤之助の生家が元々は名家だったとか? 

《町へ〈町の御長屋へ〉別家に引移し
・近世の農民は土地に縛られ、移動の自由などなかった…と何となく思い込んでいたのですが、そうでもなかったようです。
・元々領内の移動は自由だったのか。あるいは、今で言えば住民登録を東十二丁目村に置いたまま、町に出たものか…
  (参考) ⇒「江戸時代の百姓」
・藤之助は町に出てどんな暮らしをしていたのでしょうか。川口町は大木から直線で約4.5km、北上川を渡った北西方向に当ります。
高3石以上の田畑を分与されたのですが、これらを全部小作に出して、商いでもやっていたのか。
・大木家から川口町に別家したのはこれが初めてではありません。
「大木家代々書留記」によれば、
《藤助 川口町へ別家  北の方大吉
延享二年(1745)二月指置き申し候》  (p.145)
しかも名前が「藤助」。「藤之助」と「藤助」…?
・大木家は川口町に長屋を持ち、貸家業でも営んでいたものか。

《取らせ預け候物左記
・藤之助に分与された財産の目録です。未解読の部分も多いのですが、当時の農民が持っていた家財道具の様子が分かって興味深いです。
目録の内容はどう見ても農家のものですが、藤之助は町中に居を構えた…これは一体どうしたことか?1里以上の距離を毎日往復して農業をやっていたのか!?
・田畑の高の合計が2.5石。高の記されていない「田 二百三十刈」がありますが、これは未検地の新田か? これの高を2石相当と仮定して加えると4.5石余になります。
天保検地の資料によれば、東十二丁目村の戸別高の平均が4.7石、中位数が3.5石でした。藤之助家は中農クラスということになります。
・米と餅米を合わせて3斗、稗、大豆、麦、粟を合わせて31斗(注3)。これで来年の秋まで親子4人が食い繋ぐことができたということか。
・《四枚 古畳、 六枚 筵畳》とあり、畳敷きの部屋(?)もあった。

《世話甲斐のなきもの也》
・裏表紙の5行は天保4年以降に書き加えられたものと思いますが、大木家の嘆き「扨扨(さてさて)世話甲斐の無きもの也」は、全くもってむべなるかな!!

[補足]
(注1) 別家:分家の一種。分家と同様の意味で使われる地方も多いが、江戸時代の町家では血縁の分家と区別し、奉公人が主人の許しを得て独立し、一戸を構えることをいった。
ここでは後者の意味。
(注2) 川口町:花巻城の南側、豊沢川の北側に位置し、当時商人が多かった。
(注3) 斗、駄、片馬:1斗=18ℓ、
「高木村の歴史」(佐藤昭孝編、S62.4.30 同人発行)に「米1駄(7斗)」とあり、他に「1駄135kg」と見える。
片馬=0.5駄

(2017.9.12掲)