「東十二丁目誌」註解覚書: 土蔵改め

本誌の「第5章 近世 / 第11節 土蔵御改の事」では天保の凶作、とりわけ土蔵改めの事を取上げています。しかし《…このような時勢の中で、天保4年と同7年の二度、土蔵改めが行われた。》とあるのみで、土蔵改めについての解説などはなく、古川孫左ェ門家文書から土蔵改めに関する天保4年と天保7年の書留を書き下して載せています。

土蔵改めとは何だったのか? 「高木村の歴史」(注1)から引用します。

《藩では、財政が逼迫すると各通(とおり)の勘定方や同心が村々を廻り、臨時の御用金を命じ、異議を言う者には全財産を封印し、上納拒否を封じる施策を取っていたばかりでなく、さらに、厳しい行動として零細な農家一軒一軒についても徹底した徴税政策として土蔵改めを強行している。》

本誌には「書留の中から」として、次のようにあります。

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これを読んでみて、「高木村の歴史」の解説とはかなり異なる印象を持ちました。

天保4(1833)の書留
(1) 安俵高木通の「土蔵並家別御改め」が9月2日から9月10日まで行われた。
(2) 改め初めの矢沢、高松両村では家別に行われたが、その後は土蔵のみ、それも書類審査のみで済んだ。
(3) 矢沢村の時から賄賂が始まったが、これは役人側からの要求によるものである。
(4) 情報収集のため八幡通など隣接する通に聞いてみたが、安俵通りが土蔵改めの最初であった。
(5) 東十二丁目村には9月10日の七ツ時(午後4時頃)に更木村から来て、書類審査。その日のうちに高木村に移り、さらにその日北上川を渡り川口町泊り。
(6) 当村では、村役が相談、立会いの上、9名分の書面を作成、申告した。
・申告した量は合計で、米 8駄、籾 0.5駄、麦 10駄、稗 9駄、粟 10.5駄。
(「高木村の歴史」に「米1駄(7斗)」とあり、他に「1駄135kg」と見える。)
(7) 役人一行8名に賄賂合計7歩(1両3分)を贈った。
(8) 11月14日、御取上げ無しと判明。

[天保7(1836)の書留]
(1) 8月18日、矢沢村より始まる。騒ぎがあったためか、土蔵毎に改めが行われたが、後に座敷改め(書類審査)のみになった。
(2) 当村は書類審査で済み、15人について申告した。その合計量は、米 5駄、麦 13駄、粟5駄、稗 8.5駄、大豆 1駄。
(3) 一行は村に一泊して帰ったが、その際御酒代を差上げた。其の後御取上げの沙汰も無く終わった。

要は、土蔵改めは行われたが、ほとんどが自己申告の書類審査で、しかも米などの取上げはなかった、ということです。
取上げる程の余剰が見付からなかったという事でしょうか。しかし自己申告ですから、実際は…?

この史料で興味を引いたのが、「手廻 15人 藤左ェ門」などと、各家の家族、使用人など生計を共にしていた人の数が記されていること。東十二丁目村の「宗門人別改帳」の類は残っていないようなので、上層農民に限られますが、貴重な情報です。

[補足]
(1) 「高木村の歴史」:佐藤昭孝編、S62.4.30 同人発行、p.90参照

(2017.9.1掲)