「東十二丁目誌」註解覚書:三ヶ村用水堰 -仁兵衛堰-

本誌の「第5章 近世」では、新田開発とそのための堰(用水路)開削について、「第7節 三ヶ村用水堰」と「第12節 百姓騒動」の中の「高木外二ヶ村の開田計画」の項で取上げています。
本稿では「第7節 三ヶ村用水堰」について考察します。

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第5章 第7節 三ヶ村用水堰
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■本誌の要点
(1) 開発と用水
1) 高木村、東十二丁目村、更木村は共に北上川に接する地でありながら、その水を灌漑に利用できず、稲作には北上山地からの沢水を利用するしかなかった。
2) 更木村金栗の平野仁兵衛は自己の資産と財を投じて用水堰開削に取り組み三ヶ年の歳月を経て元禄14年(1701)に完成した。これを仁兵衛堰という。

(2) 三ヶ村用水堰の由来
1) 平野仁兵衛は藩の許しを得て元禄12年(1699)に着工、13年に通水したが流量が少なかったため、14年に堀直して完成させた。
2) この堰は猿ヶ石川蓑淵(みのぶち、高木村)で取水し、更木村久田で北上川に流出するもので、全長5,680間(10.3km)であった。
3) 途中東十二丁目村松ヶ沢で分流し更木村久田に至る2,149間(3.9km)の堰を中居堰という。
4) 堰が破損し水流が細くなったので、明治14年に岩中を通す新堰92間(170m)を掘った。
5) 本項は「高橋信氏(注1)留書」による。

(3) 用水堰の工事
1) 更木村平野家に残されている「元禄十四年巳ノ正月 更木村三ヶ村用水堰代間数人足入用品帳」による。
2) 揚げ口(取水口)より不動岩まで、190間(350m)
人足 26,600人、大工 380人、木挽 93人。
3) 尾たるみより下、総計4,404間(8.0km)。人足 1,600人。
この流路をほぼ100間ごとに区切り、各区間の長さ、掘削深さ、作業工数が記されている。
(例えば、第1区間 100間 1尺5寸掘削 20人工)
掘削深さ:1尺~4尺、平均 2尺

(4) 用水堰の補修
1) 堰は年々の手入れの外、しばしば補修工事がなされたが、それらをまとめた資料がないので全容は知り得ない。本項には古文書に残された宝永6年(1709)から明治14年(1881)までの12例の概要が記されている。
例えば:
2) 明和3年(1766)  工事完成から65年が経過し、水流弱くなり全流路を堀直した(仁兵衛堰: 5,101間(9.3km)、中居堰: 1,832間(3.3km)
3) 明治14年(1881)  不動下の用水堰、新堰92間(170m)岩石を掘る

(5) 運営組織の変遷
1) 堰通水の当初から明治年代までは、村肝入や堰守によって管理されたものと思われる。
2) 大正4年(1915)に私設大堰水利組合が結成され、昭和3年(1928)には高島更木普通水利組合に組織変更された。
昭和4年度決算では3ヶ村水利面積が199町余であったが、翌5年度には122町7反となっている。これは発電用水の一部が更木村の水利に転用された結果と思われる。その際の組合組織の変更については不詳。
3) 昭和27年(1952)に高島土地改良区に、43年(1968)には高木島土地改良区に名称変更があり、現在位に至る。

(6) 平野仁兵衛氏のこと
1) 和賀郡更木村の人、生年不明、宝永2年(1705)没、
2) 元禄14年(1701)12月、藩がその功に対し禄100石を与えようとしたが、辞退したと伝えられる。

大正期の仁兵衛堰 (右クリックで拡大表示できます)
大正期の仁兵衛堰 (右クリックで拡大表示できます)

■平野仁兵衛とは何者か?
仁兵衛は《祖先より農を以って業とするもの》で《豊かな資産家》であったというが、水利に恵まれず稲作もままならない更木で、如何にして資産家になりえたのか?
「更木村誌」(注2)に《祖先は仙台に住んでいたが寛政(1789~1800)の頃移住》とあるが、「寛政」は明らかな間違いで、寛永(1624~1643)か寛文(1661~1672)の誤りと思われる。「仙台から移住」とあるので、北上川の舟運関係で財を成したのでは、と想像してみたが、…単なる想像に過ぎません。

本誌では「頌徳碑」から引用して、「翁は…区民の協力を得私財を投じて起工し…」と記し、この事業が仁兵衛個人に依るものであるような印象を受ける。しかし「高木村の歴史」(注3)には「高木村でも隣接の東十二丁目村、更木村と力を合わせ、元禄11年(1698)更木村の平野仁兵衛が代表となり、…新田開発にとりかかった…」とあり、三ヶ村の共同事業であったような書き方になっている。その根拠は不詳。

歓喜寺前を流れる大堰(高木島用水路)
歓喜寺前を流れる大堰(高木島用水路)

■仁兵衛堰のルート
(1) 起点
本誌では堰の取水口として、猿ヶ石川の蓑淵(みのぶち)と鯫淵(みごいぶち、ざこぶち)の名が出てくる。
(2) 終点  更木村久田で北上川に放水。
(3) 総延長  「高橋信氏留書より」として《揚口より落合まで5,680間(10.3km)》とある。
・また平野家文書を引用した中に《尾たるみより下惣数は4,404間》また《不動岩迄揚口より190間》とあり、合わせて4,594間(8.4km)となる。
・明和3年(1766)の堀直しの記録の中には《〆5,101間(9.3km)》とある。
・更木村誌には《其延長3里(11.7km)余》との記載が見える。
・仁兵衛堰の跡と思われるルートを地理院地図(注4)で図上計測してみると10.1kmであった。
・本稿では1間=1.818mとしてm数を表示しているが、元禄期の盛岡藩では、1間が6尺5寸であったとも言われ、検証を要する。

(4) ルート
取水
1) 蓑淵(みのぶち)  猿ヶ石川からの取水口。現在の高木島用水路の取水場所は花巻市高木の南限に近いが、当時も同じ場所であったかは不詳(注5)
なお「平野仁兵衛翁頌徳碑」(昭和12年)には「鯫淵」とあり、「鯫」は「みごい」と読み「雑魚(ざこ)」の意だという。「みのぶち」と「みごいぶち」は音が似ており、同じことか。雑魚がよく獲れる淵であったのかもしれない。
2) 不動岩  揚口(取水口)より190間
3) 大たるみ  揚口より268間、水門があった。「尾たるみ」、「おふたるみ」とも記されている。「大垂水」か。

流路
堰のルートを、明和3年(1766)の「更木村用水堰普請、浚(さら)いに付堰絵図」(注6)により、下流から上流に向って辿ってみる。

仁兵衛堰(更木村部分) (右クリックで拡大表示できます)
仁兵衛堰(更木村部分)
(右クリックで拡大表示できます)

1) 放水口から嶋村との境まで1,170間(2.1km)

仁兵衛堰(嶋村部分)
仁兵衛堰(嶋村部分)

1) 更木村との境より高木村との境まで1,430間(2.6km)
2) 「21番」と「22番」の間を「小セキ」が横切っており、上流に「松沢」と見える。
・本誌に「松ヶ沢樋尻より…更木村久田まで中居堰と申し2,029間(3.7km)」とある。中居堰の始点である「松ヶ沢」とはここのことか。
・中居堰が仁兵衛堰と同時に開削されたかは不詳だが、この絵図に「小セキ」とのみ記されていることから、後に開削されたのではあるまいか。
3) 「25番」脇に「くわんげん寺」と見えるが、現在の「歓喜寺」のことと思われる。

仁兵衛堰(高木村部分)
仁兵衛堰(高木村部分)

1) この絵図は「48番」で終っており、途中の番号が乱れ、欠番もある。「更木村誌」には、「49番 100間」、「50番 100間 安野」とある。
2) 嶋村との境から「50番」まで1,880間(3.4km)
3) 絵図によれば安野橋の上流側に「48番」があるので、「50番」の上流端は安野橋から300間(550m)。ここに「大門(大たるみ水門)」があったのだろうか。
・この安野橋は仁兵衛堰に架かっている橋であり、現在の安野橋より上流側にあったと思われる。(当時猿ヶ石川には橋が架かっていなかった。)

中居堰
中居堰

1) この絵図と仁兵衛堰の絵図とのつながり具合が不分明。
2) この絵図の上端が仁兵衛堰と交差する松ヶ沢樋尻か。
3) 「更木村誌」に「中井堰、島部落松ヶ沢付近より分れ、本村平地の中央部を貫きて流れ、其延長の1,832間(3.3km)…の排水路」とある。

仁兵衛堰(北上川への放流部)
仁兵衛堰(北上川への放水部)

1) 仁兵衛堰は中居堰を合わせてから、北上川に出た。
2) 文末にある「新渡戸伝蔵」は新渡戸稲造の5代前の先祖か?

■仁兵衛堰の灌漑面積
1) 本誌には(高橋信氏書留より)として、《明治14年…三ヶ村水利反別 179町余(179ha)  内 31町余 高木村  63町余 東十二丁目村  84町余 更木村》とある。
2) しかし更木村誌には《其灌漑反別大凡そ350町歩》とあるが、どう解すべきか?
3) 仁兵衛堰によって灌漑された水田には、既存の水田、畑から転換された新田(畑返新田)、荒野等を開墾した水田の3種があったと考えられるが、実際はどうだったのか? 記録はないようで不詳。

■仁兵衛堰は誰が造ったか?
1) 更木村まで10km前後の堰を開き所要の水量を得るためには、相当の技術ないしは経験を必要とする。
・更木村との間に必要な落差を有する取水口の選定
・始点から終点まで所要の下り勾配を有するルートの選定と測量
・河川は渇水の時もあれば、増水することもあるので、取水口ではそれに対応できる工作物の構築
2) このような技術ないしは経験を持った指揮監督者が必要なのだが、記録には残っていないようである。仁兵衛自身は「我家は祖先より農を以って業とするもの」とあるので、このような大工事を指揮監督することはできなかったと思われる。
3) 当時(17世紀後半)の盛岡藩では新田開発が盛んであった。和賀郡の北上川西方に開かれた奥寺新田が最大のもので、検地新田高6,890石余であったという。これらの新田開発に携わった技術者の中に仁兵衛堰の開削に関与した者がいたのかもしれない。

■用水堰の工事
(1) 取水部(取水口から水門まで)
1) 工事概要
・使用した木材等の形状、数量等が記され、「蓑淵より箱座をもって水を包み大門に入れ」とあり、また「箱倉」という用語も出てくるが、工作物の全体像は不詳。

2) 工数
・箱倉立方人足  19,000人
・同大工      380人
・木引       93人
・岩切人足     7,600人

(2) 水路部(水門下から放水口まで)
1) 工事概要
・総延長  4,404間(8.0km)
・掘削深さ  最深 4尺(1.2m)  平均 2尺(0.6m)
2) 工数
・人夫  1,600人
3) 松ヶ沢交差部(中居堰分流部)
・元禄14年(1701)の開削後の「人足積り」には「21番 102間 4尺堀 180人」とのみある。
・明和3年(1766)の堀直し設計書には「21番(松ヶ沢・天王林) 64間 土手1丈5尺 堰巾2間 中居堰分る 人夫90人」とあり、絵図には「21番 60間 但し土手高さ1丈5尺(4.5m) 堰巾2間 堀潰土揚場 1段しからみ 此人足90人」と記され、更に「此所より60間大難所なり」と付記されている。
・「土手高さ1丈5尺」とはどういう意味か? 仁兵衛堰と松ヶ沢との交差部の構造が見えない。

■明治以後の仁兵衛堰
(1) 明治14年(1881)に3ヵ村が分担して大改修を行ったが、更木村では、水路の延長が長いことから修繕費の負担が大きくなる一方で、用水路の最末端であるため毎年用水が不足し、旱魃の年には水争いが絶えなかった。
そのため新たに猿ヶ石川の臥牛(ふしうし)から大竹に直通の穴堰(トンネル)を掘るべく、明治33年(1900)に計画検討に入った。しかし費用負担のことなどで実現できないでいた。
(2) 大正7年(1918)になって穴堰の計画地点に導水路を設ける発電会社の設立申請が出された。その後紆余曲折を経て昭和5年(1930)に猿ヶ石発電所が完成し、この発電所水槽から分水して更木村の旧田と新たに開かれた新田を灌漑するようになった。
(3) 仁兵衛堰の跡である現在の大堰(高木島用水路)は松ヶ沢との交差部の下流300mくらいのところ、薬師堂下で右折し、南西方向にほぼ1km流下して北上川に出る。この出口から百数十m南には猿ヶ石発電所の放水口がある。
高木島用水路の管理主体は豊沢川土地改良区である。(高木島土地改良区が平成15年に豊沢川土地改良区と合併した。)

高木島用水 水利使用標識
高木島用水 水利使用標識
現在の大堰(高木島用水路) (右クリックで拡大表示できます)
現在の大堰(高木島用水路)
(右クリックで拡大表示できます)

[補足]
(注1) 高橋 信:矢沢村第15代村長(1930~34)
(注2) 「更木村誌」:中村萬右衛門著、1930年発行
(注3) 「高木村の歴史」:佐藤昭孝編、S62.4.30 同人発行
(注4) 地理院地図:http://maps.gsi.go.jp
(注5) 本節に「用水堰(臥牛側)」とキャプションの付いた絵図の写真が載っているが、この絵図は仁兵衛堰のものではなく、幕末に計画された楢山堰のものである。
(注6) 「更木村用水堰普請、浚いに付堰絵図」:北上市史刊行会編「北上市史 第5巻」(1979年 北上市発行)所収

(2017.12.18掲)

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