「東十二丁目誌」註解覚書:幕末の開田計画 -楢山堰-

楢山佐渡
楢山佐渡

本誌「第5章 近世」の「第12節 百姓騒動」に「高木外二ヶ村の開田計画」と題する項がある。これは幕末に計画され、農民の反対で未完成に終わった楢山堰の建設について、主に「百姓騒動」の観点から記されたものである。
本稿では開田を計画した側の観点から考察してみたい。

5.12 百姓騒動 (クリックして、全体をダウンロードできます)
5.12 百姓騒動
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(1) 本項「高木外二ヶ村の開田計画」の要点
 1) 村民の騒擾顛末
・南部藩家老楢山佐渡が高木、東十二丁目、更木の3ヶ村の原野畑地の水田への変換(畑返し)を企て、藩侯の許しを得て、慶応元年(1865)9月に猿ヶ石川権現淵から取水する新堰の工事に着手した。
・水田の苛税に苦しんでいた村民が反抗し、慶応2年秋の台風大雨で水路が崩壊したのを機に蜂起した。群衆は八重畑村関口に到り、陳述書を藩御用人に渡し、帰路工事現場の宿舎や事務所を焼き払った。
・慶応3年4月に首謀者として島村の古川孫左ェ門、押切藤左ェ門、佐藤源四郎、佐藤源右ェ門の外更木村の2名が逮捕された。厳重な取調べの結果、陳述書を認(したた)めたのが更木村永昌寺住職と判明し、藩は取手を遣わしたが、廃藩になり皆放還された。時に明治元年(1868)3月。
・この事業の遺跡として平堰の幾部と2、3条の穴堰が残っている。当時この開拓が完成していれば、現在大いなる恩恵に浴したであろう(注1)
・この頃他方面にも広くこの暴挙に雷同蜂起するものがあった。またこれより先河西の鬼柳、黒沢尻方面でも一揆蜂起があった。

 2) 楢山氏と斎藤氏との関係
・本計画で土木工事を命ぜられた斎藤易次郎は文政3年(1820)和賀郡飯豊村藤巻に生れ、幼より楢山家に勤仕し、終生産業開拓に意を用いた。
・嘉永年間(1848-1854)より安政5年(1858)までに楢山佐渡が藩主の許可を得て行った根子村外台等の開拓(石高40石余)に、自ら資を投じて開墾し、楢山佐渡の所領とした。
・本計画では用水堰を開削し、石高2000石余を見込み、その過高は楢山氏の所領とすべく、平堰は完成し穴堰も7、8分竣工したが、反抗の暴徒起り、また廃藩となり、空しく放棄せざるを得なかった。

 3) 小田島守治の実話
・小田島守治はこの騒擾に加わった島村の人で、検挙に先立って仙台領に逃走した。彼が後年語ったところによれば:
・この騒擾の起因は苛税の軽減を望むことにあるのは勿論であるが、さらに水田が開墾されれば、年貢の負担が増し農民の困窮一層甚だしくなることを村民一同が憂慮したためであった。
・藩に対する陳述書は更木村永昌寺の住職が認(したた)めたが、その内容は次の3点であった。
未納者は免除の事、畑地変換中止の事、買米中止の事

本項全体が昭和29年発行の「矢沢村誌」からの転載であるが、この「矢沢村誌」の「小田島守治の実話」の項には(この項大正7年(1918)矢沢村誌より)と付記されている。

(2) 開田工事の概要
1) 本誌には《猿ヶ石川沿岸美ノ淵上流に人夫小屋並びに事務所を設け、権現淵より上水の見込で工事に着手》とあるのみで、工事の具体的な内容は述べられていない。

楢山堰絵図(臥牛村~島村) (右クリックで拡大表示できます)
楢山堰絵図(臥牛村~東十二丁目村)
(右クリックで拡大表示できます)

2) 「矢沢村誌」所収の「楢山佐渡の手紙」によれば:
・高木通臥牛村権現淵より高木村妻の神下まで、山手の川岸に穴堰と岡堰を掘り通し、猿ヶ石川より取水し、妻の神で高木通高木、東十二丁目、更木、3ヶ村のこれまでの用水堰(仁兵衛堰)へ落合せ、それより下も堰幅を掘り拡げ、御手開畑返しの見込であった。
・寅年(慶応2年(1866))より辰年まで3ヶ年で堰筋の普請と畑返しをすべく計画した。臥牛の岩山片切56間、穴堰173間、都合229間(416m)程の試掘普請を仰せ付けられ、当3月、東十二丁目村内の猿ヶ石川端へ普請小屋と枝小屋9軒を建てて、堰筋の普請を始めた。
・当3月より当12月18日までに、穴堰を掘り抜き、片切を掘り通し、普請を実施したが、去る18日夜騒立ての者と見受けられる人数160~70人程が押寄せた。

3) 新堰の水を仁兵衛堰に落合わせ、仁兵衛堰の水量を増やせば、高木南部から南の灌漑面積を拡大することはできるが、高木北部を灌漑することはできない。(現在の高木島用水路(仁兵衛堰)は地面よりかなり低いところを流れている。) 高木北部をどのように灌漑しようとしたかは不詳。
妻の神(新堰と仁兵衛堰との交差部)で一部を仁兵衛堰に分流し、残りは直接高木北部に引水する計画であったか。

4) この「楢山佐渡の手紙」には宛先が記されておらず、出所も不明。なお文末に(佐藤松五郎所蔵)と付記されているが、氏は大正時代に高木用水の建設を主導した人である。

(3) この開田計画に関わった人々
 1) 楢山佐渡
・本誌には《南部侯家老楢山佐渡…三ヶ村の原野畑地の変換を企て》とあるのみ。
・略歴  天保2年(1831)生、明治2年(1869)没。盛岡藩家老。名は隆吉。名門の出で幼少より名望あり。15才で近習頭。22才で国家老となる。後に藩主名代として京都守護の任にあったが帰国、藩論を反官軍・抗戦にまとめる。奥羽列藩同盟違約の問責のため秋田領に出兵。戦後その責を問われ、東京で蟄居の後盛岡で刑死。刎首(ふんしゅ、斬首)とも切腹とも見える。享年39。
・知行高1,267石余。主な知行地は宮古通(盛岡藩北東部)にあり、その他に二子通飯豊村にもあったが、高木通にはなかったようである。
・農民の反抗とそれに対する藩の生ぬるい対応に、佐渡は大いに奮慨し、「乱暴の御百姓を悉く捕縛して、以後の懲めにしようか」とまでいきまいたが、家来共の考えには、「手荒い仕向けがあっては、いかなる変を生ずることか測り難く、いま国家のために御尽力ある名誉は内外でひとしく称賛するところであり、この一事のために御名折となっては宜(よろ)しくはない。この辺を御覧察のうえ御堪忍下さい」と諌めると、佐渡もこれを聴入れた。諺(ことわざ)に「計ることは人に在り、成すことは天に在り」とはこれらを言うものであろうか。この一事は我が一生の過失であると歎息したということである。(注2)

 2) 斎藤易次郎
・本誌には《土木工事の方面には、和賀郡飯豊村斎藤易次郎(楢山氏家士)…等に命じた。》とあり、また《斎藤易次郎は、文政3年和賀郡飯豊村藤巻に生れた。其の祖2代某明和年間(1764-1773)の頃より楢山氏の家士となり代々勤仕した。 易次郎は当家第7代の人で、幼より楢山家に勤仕した。氏は終生産業開拓に意を用い…》とある。
・「戊辰前後の楢山氏」(注2)では「小原易次郎」となっており、3人いた楢山家役人の1人を務め、楢山佐渡刎首の場に列席した。
明治になってから楢山家の忠臣・澤田長左衛門が、慶応年間の開田事業の支払い残高1,380余円等を小原易次郎に預け置いたままだとして、楢山遺族扶助のために精算を求めたが、易次郎は応じなかったという。

 3) 熊谷徳寿郎
・本誌には《…工事に着手した。然るに…食用品を供給するも者がない。時に矢沢村の熊谷徳寿郎(楢山氏家士)之を憂い是等の食料品を供給した。》とあり、また《暫時群衆増加し来て…盛岡に行く途中、矢沢村熊谷徳寿郎に立寄り乱暴をなし…》とある。
・しかし矢沢村に楢山佐渡の知行地は無かったようである。
・「戊辰前後の楢山氏」(注2)によると、開田計画の実施踏査者の中に「熊谷徳兵衛」の名があり、楢山佐渡刎首の場に参列した者の中に「熊谷徳兵衛」、「熊谷徳太郎」の名が見える。徳寿郎の同族か。

 4) 大光寺悦右ェ門
・本誌には《慶応元年9月、盛岡の人、大光寺悦右ェ門を実施測量及び其の監督に命じ、和賀郡臥牛村に派遣した。》とある。
・「戊辰前後の楢山氏」(注2)を見ると、《藩侯の御勘定奉行照井賢藏、大光寺悦右衛門》とあり、「実施測量」は畑違いのようにも思えるが??
・悦右ェ門は十和田方面の開拓事業にも尽力し、奥入瀬川から取水する全長17kmの堰に「大光寺堰」の名が付いている。また新渡戸父子の三本木原開拓に出資した。
・花輪城主だった大光寺氏の末裔という。

 5) 工藤寛得 (くどうひろなり)
・本誌に《一方土木工事の方面には、和賀郡飯豊村斎藤易次郎(楢山家家士)及び岩手郡大更村工藤寛得等を命じた。》とある。
・八幡平市大更の八坂神社に「工藤寛得顕彰碑」があり、次のように記されている。
《…大更村に工藤氏有り 古きなり 君はその支族にして始祖以来勤倹垂業 山林田園の利を増殖し傍(かたわ)ら商店を開き… 君の身に及んで経営益々固し… 夙(つと)(に藩黌(はんこう)作人館に入り…更に東都に到り安井息軒の門に遊ぶ… 帰郷の後民衆を啓迪(けいてき)するを以て… 令声遠近に達し帝国貴族院の新立に会い…同院議員の大命を拝し国会議場に列すること両三回… 惜しい哉(かな)明治四十四年病に罹り…遂に起たず 年六十四…》
・工藤は原敬より8才年上で、藩校作人館修文所で共に学び、親交があったという。

(4) 楢山家の事情
楢山佐渡が自分の知行地でもない高木、島、更木3村の開田事業に何故取り組んだのか、その事情を「戊辰前後の楢山氏」(注2)から要約してみる。

・ 楢山家では、家禄1,300石の内380石余は寺社と家臣の禄高に向け、残りを自家の生計に宛て、禄高相当の軍役を務めるに足りないこともあった。
・ 代官所の改革などに努めたが、楢山家の家計は充分には立ちゆかず、一層の収入策を探求した。藩侯の御勘定奉行照井賢藏、大光寺悦右衛門の両人に依頼したところ、安俵高木通と八幡寺林通の村々において畑返しをすることによって、増高8,000石に達することが分かった。
・ 既に小作地主には対談済で、北監物を中心に開拓を進めることに内定していたが、この畑返しを北氏から譲られた。
・ その費用7,500両を予算とし、全て家臣が累代の家産を売払ってでも応分に負担すべしと、慶応元年(1865)7月に閉伊郡居住の家来共へ伝えられた。家臣一同が相談の結果、八幡寺林分の3,500両だけを出金し、4,000両は御免下されたい旨佐渡に申し出たが、北氏と約束済みで今更変更できないとのことであった。
・ ならばとにかく実地踏査をしてみようということになった。その結果、100石高当り、八幡寺林通は収納米70駄、安俵高木通で100駄は確実であろうとの見込みが立ち、遂に着手に決まった。(注3)

[補足]
(注1) 楢山堰を復活するような形で、高木用水路が大正4年に竣工した。高木用水路は高島用水路(仁兵衛堰)に分水せず、立体交差している。

上が高木用水路、下が高島用水路
上の高木用水路と下の高島用水路が直交する

(注2) 「戊辰前後の楢山氏」:明治43年(1910)6月26日から9月22日まで「岩手日報」に掲載された。筆者谷川尚忠(たにかわひさただ)は楢山家親族の一人で、天保5年(1834)生れ、大正7年(1918)没。この連載記事を執筆していたころは盛岡女学校の校長。岩手県議会議員、衆議院議員、高知県知事等を歴任。
詳しくは「『戊辰前後の楢山氏』について」をご覧下さい。

「戊辰前後の楢山氏」(岩手日報連載第1回 明治43年6月26日) (右クリックで拡大表示できます)
「戊辰前後の楢山氏」(岩手日報連載第1回 明治43年6月26日)
(右クリックで拡大表示できます)

(注3) 「駄(だ)」は「馬1頭に積む荷物の重量からできた単位で、江戸時代の定めでは36貫(135kg)」というのが辞書的説明のようである。しかし米の場合、1駄が2俵(ひょう)とされ、1俵が4斗とすれば1駄が8斗。しかし「高木村の歴史」には「米価は1駄(7斗)…」とある。
・1駄7斗とすれば、「100石当り収納米100駄」は100石当り70石となり、表面上の年貢率が70%に及ぶ。石高100石当り100石以上の実収が見込まれたということか。
(注3a) 「高木村の歴史」:佐藤昭孝編、S62.4.30同人発行

(2018.1.18掲/1.25改)