照井長者と照井沼 -北上川の変流?-

前回「照井沼を何故『照井沼』と呼ぶのでしょうか?」と疑問を呈しましたが、灯台下暗し、手持ちの本にありました。若宮四郎著「観光と花巻物語」(注1)の中の「怪談照井沼(照井長者の巻)」。16ページとかなり長い物語になっていますが、要約すると:-

      (一)
(1) 昔々十二丁目(注2)に照井宗兵衛という郷士がおりました。郷士とは俗に地侍とも言い、正式の武士の家柄ではなく、殿様から名字帯刀を許された地方で勢力のある豪農、豪商のことです。 [全文を読む]

猿ヶ石川を遡る -吾輩は鮭である –

(迫舘暇人著「猿ヶ石川遡り記」(2014.8 非売品 花巻市東和図書館蔵)より)

…猿ヶ石川は、北上高地の早池峰連峰薬師岳(1645m)の南斜面(猿ヶ石沢)に源を発して南流し、遠野市街地で西に流路を替えて宮守、東和、北上(臥牛)、花巻の矢沢を流れて北上川に注ぐ延長73㎞の一級河川である。
猿ヶ石とは、源流に”猿だろうか、石であろうか”と見える石が有って、その間から流れ出ているから(民話)とか、アイヌ語に起因する説が有るとされる。中世の頃(13~16世紀)は物資輸送の川舟が往来した事が伝わっている。
又、水が豊富な川で鮭も遡る等淡水魚の宝庫として猿ヶ石川の名が知られ、特にも鮎は南部の殿様への献上品であったそうだ。 [全文を読む]

更木の水利-明治以降-

(「更木島東部土地改良区の歩み」(2008.7 同土地改良区)(注1)より)

   旧田地区(注2)
江戸時代中頃の当地区のかんがい用水は更木村金栗の平野仁兵衛氏が区民の協力を得て私財を投じ着工から3ヶ年の歳月をかけて元禄14年(1701)に完成した仁兵衛堰によっていた。
仁兵衛堰は猿ヶ石蓑淵(みのふち)から取水し、猿ヶ石川の左岸を高木村妻上まで北流させ、そこから南流し東十二丁目村を通って更木村久田で北上川に放流するまでの延長4,654間(8,461m)の水路で179町…(178ha)(うち東十二丁目村63町…(63ha)、更木村84町…(84ha))の水田を潤していた。 [全文を読む]

堰を守る

(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28)より)

用水堰の補修
土と木材によって出来た用水堰は、洪水による箱倉の破壊や、水路に沈積する土砂、或いは土手の破損などで、速急な修復が必要となり、年々の手入の外屡々(しばしば)補修の工事がなされている。それらの記録をまとめたものはないので、全容を知ることは出来ないが、手元にある古文書によって要約して表示すると次の通りである。

宝永6年(1709)、正徳5年(1715) 水門補修… [全文を読む]

仁兵衛、堰を開く

(中村萬右衛門編纂「更木村誌」(S5.12. 発行者不詳)より)

■■ 灌漑排水路 ■■
更木村水田二百町歩の内 臥牛(ふしうし)部内の田と山手方面に於ける沢水利用の小面積の棚田を除ける大部分は仁兵衛堰及中井堰の用水に依るものである、此の用水堰は猿ヶ石川の水を利用せるもので蓑淵(みのぶち)と云う所より高木島を経て本村を流過せしむるもの 之を仁兵衛堰と云うのである。これ今より約二百年の昔 金栗仁兵衛が五ヶ年の歳月を費して開鑿(かいさく)せるもので 其延長三里余、高木島、更木の三部落に亘り 其灌漑反別大凡(おおよ)そ三百五十町歩にして 実に大なる恩恵に浴している。 [全文を読む]

東十二丁目の水利 – 堰以前 –

(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28)より)

「村里は用地の開発により、用地は用水による」と云われるが、開拓の歴史を考える時、郷土の先人達が多くの困難と戦いながら、工事と取組み、築造し、管理し、修理を重ねながら長年代々にわたって受継がれて来ていることがわかる。

私達の村落は、北上山系と北上川の間に存在する集落であるが、南端にある猿ヶ石発電所から山麓にそうて北に進む時、2~300m間隔位に山から沢水が流れ落ちていることに気がつく、そしてそれぞれの沢には小さい俗に山田と称される不整形の水田が棚田となって耕作されている。その沢を登ると大ていはそこに昔使われたであろう堤が確認される。 [全文を読む]