カスリン・アイオン台風と瀬川の切替え -北山愛郎町長の仕事-

(北山郁子著「ドウリズムの政治 -北山愛郎的デモクラシー-」(2010.8.15 同人発行)より )

北山愛郎・花巻町長
(在任期間:1947~1952)

カスリン台風  町長(注1)就任から4ヵ月後の1947年9月15日、花巻の町はカスリン台風(注2)による水害に見舞われました。
日本の台風の災害史にその名をとどめるカスリン台風は、9月8日マリアナ諸島の東方洋上に発生し、…15日の午後6時頃伊豆半島の南方を通過し、房総半島をかすめて16日には三陸沖から北東に去って行きました。
カスリン台風は本土を直撃することはなかったのですが、日本列島付近に停滞していた前線が台風によって活発化したために13日から全国的に多量の雨を降らせ、とくに14日から15日にかけて関東・東海地方が大豪雨となりました。…
短期間に多量の雨が降ったことや、戦時中の乱伐や戦後の国土の復興のための伐採などにより、かつての山林の3割近くが丸坊主の状態で保水力が落ちていたことが大きな被害を出した原因といわれております。この台風の襲来は、荒廃した混乱期の日本全体にとって大きな痛手となりました。カスリン台風被害は関東地方のみならず東北・北海道にも及んで、…(岩手県死者109名、不明37名)。

9月15日岩手でも台風がもたらした多量の雨は北上川を急激に増水させ、支流河川の逆流が起こり堤防は決壊して、北上川下流の一関地帯は大洪水となりました。岩手のおおむね真中に位置する花巻の町も、町始まって以来の未曾有の洪水に見舞われたのです。
花巻地帯のカスリン台風による水害はなぜ大きな被害を引き起こしたのか、…
結論から述べると、奥羽山系を水源とし北西から花巻方面に流れてくる小さな河川である瀬川が、北上川の増水によって氾濫したことが被害を大きくした第一の原因だと、(堀合)レポート(注3)では分析しています。

47年当時の瀬川は、町の北部の四日町、一日市の東側を流下し、花巻城があった本丸の北側崖下(現・鳥ガ崎公園の敷地)から小舟渡(こぶなと)地内を経由して南に転流して、現朝日橋の南地点で北上川に合流するという、町中を大迂回した河川でした。約4,800㍍に及ぶ住宅地を蛇行している瀬川の堤防は不完備であり、しかも、四日町や一日市地域は河床が高く、梅雨期の増水時などには、たびたび耕地や民家に被害をもたらすのが常習の河川でした。
度重なる水害を防止するためには、この瀬川の流路を、釜石線の瀬川に架かっている鉄橋の地点から下流350㍍付近で切替えて、似内(にたない)の地内を横断させる河川工事をしなければならないという住民の問題意識は古くからありました。しかし、花巻町の苦しい財政事情が、河川のショートカット工事を実施する具体策を見送らせてきたのでした。
そして47年、この年も、8月26日に花巻町議会は「瀬川切替えに関する決議」を採択していました。…
皮肉なことに、その決議採択の19日後、カスリン台風は花巻地帯を襲ったのです。

9月14日午後2時頃から花巻の町は豪雨となりました。16日午後2時までの花巻の降水量は293㍉を記録し、北上川の水位は7.87㍍に増水、北上川に流入するすべての支流河川が氾濫しました。
9月15日雨が降り続いているなか、町長である父はいつものように河川の増水状況を見て回っていました。いつまでも降りやまない雨脚の烈しさに心配が募り、瀬川が流下している一日市裏の道沿いや鍵町の年配の人たちから、過去に起こった瀬川の水害の状況について聞き込みを続けました。年配者の誰もが1910年(明治43年)に大水害があったけれど浸水は大したことはなかったと… 父も、この経験談につい安心したのでしょう、住民を避難させるなどの危機意識を持たなかったのは甘い判断でした。

当時、私の家、つまり町長宅はこの危険地帯にあたる愛宕町にありました。この地盤の低い場所にあった自宅で、父は日が暮れて夜を迎え、ただ心配をしていたのでした。ところが、そこへ突然水が溢れるように流れてきて小さい玄関の土間を満たしたかと思ったら、ドドドーっと、家のなかに流れ込んできたのです。幼かった私の記憶は非常に断片的なのですが、玄関でチョロチョロ水の音がしたとたん、汚水がいきなり床を走ったという感じでした。二軒長屋のような平屋でしたので、隣の家族や近所の大家さんの家の人たちなどみんな大慌てでした。家財を運ぶ暇もなく命からがら避難するのが精いっぱいの状況でした。
我が家は、まだ妹も生まれていなくて子どもは私だけでしたので、私は父の肩車に乗って、そこら一面が湖のように変貌した汚水のなかを掻き分けて逃げました。父の胸のあたりまで水嵩があり、幼いせいもあって広い湖を漕ぐように進んでいったような印象なのですが、緊迫した事態とはいえ怖さは全くなくて、どちらかというと父親が身近にたくましく思えた数少ないシーンとして、そのときの映像は私の記憶のデータベースに入っています。大家の伊藤さんの家の裏側の一段高い場所にあった蔵の二階に避難したのです。…

台風襲来から14日後の9月28日、町議会はカスリン台風水害対策協議会を開会し嶋理三副議長が会議を進行し、北山町長が水害の被害状況調査と被災者救護の現況を報告しています。
それによると床上浸水904戸、床下浸水142戸、流失家屋14戸、半壊家屋19戸(計1,097戸)、死亡者1名(逃げ遅れた高齢者)、家畜溺死牛1頭、浸水宅地15万坪、工場被害額約500万円、水道被害約30万円、水田流失250町歩、畑流失140町歩と報告されています。…

『岩手の昭和史』(注4)の対談のなかで、災害史に残る辛い9月の日々が終わろうとしていた頃の思い出を、父は七宮氏に話しています。

「カスリン台風でひどい災害を受けた時に、町民大会を開きましてね、夜でしたが寒かったんですが、9月だったけども。野天で開いて決議を上げたんですがその時に、瀬川の改修と、瀬川というのは花巻温泉の方から流れてくる川です。小さい川なんですけれども、これがしょっ中あばれるんです。(略)いつでも、ちょっと雨が降ってもやられるんです。それから北上川の問題ですね。それにはどうしてもダムですね。猿ヶ石(川)のダム、それを早く完成して堤防を作ってもらうと、こういうことを決議したんですよ」

9月に開かれたという町民大会は、町議会で被害調査と現況報告があった28日から30日の3日間のうちのいずれかに開かれたことになります。まだ生々しい傷も癒えないうちに町民大会を開き、瀬川の改修と北上川の治水を求めて運動していこうというみんなの気持ちがこもった、寒い夜の熱い集会だったのではないでしょうか。…

アイオン台風  アイオン台風は、48年9月7日マーシャル諸島東部で発生し、西進しながら16日午前房総半島に上陸しました。その後三陸海岸沿岸を北上し、北海道からオホーツク海へと抜けていきました。前年と同じく関東地方全域から東北地方南部に多量の雨を降らせました。仙台で351㍉、宮古で249㍉と前年の被害に追い打ちをかける結果となりました。とくに岩手県は北上川や支流が氾濫し一関地方中心に大洪水となり、死者392名・行方不明者316名、流失・浸水家屋2,000戸を超し、カスリン台風を上回る災害となりました。

堀合氏のレポートによると、アイオン台風に対する花巻町の対応は素早いものでした。
9月15日から降り始めた雨は、16日午後には県下全域で豪雨となりました。
9月16日午後10時非常警戒警報発令、小舟渡地内の道路決壊(堤防はなかった)の危機的状況に避難命令を発令しました。避難場所は宗青寺、雄山寺、瑞興寺の3ヵ所で、1,069名を収容、他所へ53名収容されたということです。
9月17日、零時20分頃、懸念されていた小舟渡道路が決壊しました。一日市、坂本町、愛宕地内がカスリン台風に続いて大きな洪水に見舞われました。ここで、(カスリン台風の後に)備えられていた2隻の舟が大活躍したと、後年父は私たちに自分の判断が正しかったことを何度も話すことになったのでした。…

このようにアイオン台風は前年の台風を上回る規模の災害だったのですが、(堀合氏の)レポートにはあらゆるところで迅速な対応をしたことが記述されています。
翌日の9月17日には、町議会は水害緊急協議会を開催、24日には第2回対策会議を開き、28日には北山町長と町議会が岩手県に対して復旧工事促進の陳情をしました。…
被害総額は1億5,000万円余、花巻地方(現・花巻市)の被災者数4,591名、死亡者1名、家屋流失.全壊23戸、家屋半壊11戸、床上浸水620戸、床下浸水255戸、埋没・流失水田46町歩、冠水水田1,539町歩、埋没・流失畑43.2町歩、道路決壊42ヵ所、橋梁流失18ヵ所となっています。床上浸水の572戸に対して1戸当たり義捐金135円を配分しています。

二度目の水害時には、私の家でも前年と違って早い時間に畳を上げて、それを高い場所に移動し、家具など動かせないものは縄で縛って流失しないよう準備をし、おにぎりなど食べ物も用意していました。…すべての人がこのときには前年の教訓を生かして行動したのだと思います。

2年続きの台風は花巻地方に大打撃を与えました。終戦直前の45年8月10日、花巻の中心部は空襲を受け、商店街中心に673戸が焼け出されました。その傷も癒えぬうちに、2年続けての水害で今度は農地や田畑は収穫前の大損害を被ったのでした。アイオン台風が去って1ヵ月後の10月18日、花巻町議会は本会議において水害対策に関する次のような決議を採択しています。

「昨年水害の傷痍未だ回復を見ない間に、アイオン台風が襲来、再び未曾有の災禍を及ぼし多数の人命を奪い、120億の財産を破壊流失したことは誠に痛嘆に堪えない。
この数次の被害によって水害が自然の偶発事でなく、治山治水の放置された現状では毎年同様の惨事を繰り返し、100万県民の生活に対する重大な脅威となることを認識すると同時に、昨年の復旧個所のほとんど全部、再び破壊された状況に鑑み、上流に於ける植林、砂防、洪水調整ダム等その根源に遡って抜本的処置を行い、道路、橋梁、堤防等も単なる原型復旧主義によらず適切即応の効果的対策を実行する必要を痛感するものである。…」

瀬川の切替え  …49年政府の経済安定本部は政策転換を迫られました。全国の主要10水系から都市を守り経済活動を安定させることを目的に「河川改定改修計画」を制定し、北上川治水計画も根本から変更されることになりました。…

瀬川の切替え
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さて、こうした中央の政策転換を背景に、瀬川の切替え工事問題が本格的な動きとして登場するのは、アイオン台風の翌年49年10月31日開会の第8回花巻町議会においての北山町長の報告でした。
北山町長は、北上川の改修工事に関して「本町(花巻町)の関係は、小舟渡・外台(とだい)でありますが、護岸工事は25年度(1950年度)を予定し、(北上川)予算は25億円と承知しています」「瀬川の切り替え予定線2ヵ所(煉瓦工場西側と小舟渡縦断)を測量し、土地の問題について宮野目村長と協議中であります」と、議会に対して報告しています。

ここで、興味深いのは『岩手の昭和史』のなかの、父の話の次のくだりです。
「瀬川の切換えという問題、これは大事業でしてね。グルッと町を回っておったやつをね、朝日橋の上流の所へ真直ぐに北上(川)に抜けるようにしたんです。私も出来るとは思ってなかったんです。ところがある情報を得たんですね、確か昭和24年(49年)だったと思うんですけれども、その情報を私に知らせてくれたのは高田弥市さん(当時衆議院議員)(注5)だったという記憶があるんですよ。これはぼんやりしてますけどね。
なんで知らしてくれたか解らんですけど。とにかく当時アメリカの余剰農産物を日本にくれたでしょう。それを売った、処分した金を特別会計に積み立てていた。その運用金がその年に限って猿ヵ石ダムの費用に出してくれると。従って北上川改修の予算がそれだけ余裕が出る、余裕が出るからどこか新規のね工事をやるかも知れんよ、という情報を得たもんですからね、それで早速申請を出しましてね、ひっかかったわけですよ」…

その後、11月24日に上京し建設省に陳情、12月22日には東北地方建設局に陳情したという記録が残されています。

そこまではトントン拍子に事は運んだようですが、用地取得問題が難航して説得にかなりの時間を費やしたのでした。『岩手の昭和史』のなかで、この件の苦労を語っています。
「土地がね敷地の半分が宮野目村にかかってたもんですからね、その解決のために、大変めんどうしました。というのは、宮野目村の方では花巻町というものにいじめられたと、昔からだまされたと。今度もそうだろうというわけでね、なかなか納得を得られんでね、結局、建設省から出る金が少ないので、向こうが要求するまでの差額分は町が出す、ということで解決したんです。」
「三田勇治さん(当時町会議員)(注6)ね、あの人は宮野目出身なものですから、三田さんと一緒に何回も何回も集会に行って、やっとはんこを貰ってやった仕事です。」…

伊藤祐武美・花巻町議会議長

用地取得のために国から出る金額では住民の納得が得られず、要求の差額分を町が負担したと父が述べていますが、この点について当時町議会議長の伊藤祐武美氏(注7)が、やはり『岩手の昭和史』のなかで触れています。
「…北山町長さんは一生懸命やりました。私は200万円、300万円使ってでも復興させなきやいけないじゃないかというと、…国の仕事であるから町のカネを使うことはいらないんだ、と…助役がいったもんだから、北山町長はそんなバカなことがあるか、一体町民が恩恵を蒙ることを町の金を使って差しつかえないんじやないか、といってがんばったんです。北山さんもそういうことをふまえてですね、下以内の方に行って、雨の降る日も、照る日も一生懸命努力して、あの瀬川は改修になったんです。」

八木英三(注8)著の『花巻町史稿』には、交渉は1年続き、伊藤議長が妥協案として当時としては法外の「1反歩5万円」案を提示してようやく買収に成功し、花巻町としても100万円を支出し、町の有志が10万円を町に寄付しをしたということが書かれています。切替え用地の面積は約5町歩で、50年(昭和25年)12月8日に売買契約が締結されました。

…「建設省は甘く考えて瀬川という川は小さい川だから大したことはないと思って、4000万円ぐらいで済むと思っていたんです。ところがなかなかもって難物でしてね、1億数千万円か、もっとかかったでしょう」と、父は気の毒そうに回想していました。建設省もびっくりするほどの暴れん坊だった瀬川は、その後ショートカット事業の完成(注9)によっておとなしくなって、花巻の町は長年にわたって苦しんだ水害の被害から解放されることになったのでした。また、北上川堤防の改修工事も各市町村長と一緒に連携して運動を続けた結果、51年特定地域開発の政府指定となり、猿ヶ石川のダム(注10)については、これもまた54年その完成を見たのでした。…

この二つの水害の惨状を前にして、父が行政の長として痛切に思った、というよりなんとかせねばという切迫感で頭にひらめいたことがありました。「軍隊ならば、早急に行動して、復旧させられる」ということでした。
被害の大きかった一関地帯を視察に行って、その惨憺たる情景を見たとき、とくに強く思ったと父が話していたのを、私は子どもではありましたがしっかり記憶しています。父にしてみれば、数年前には召集されて戦地の真只中の非常事態のなかで生きていたのであり、思わずそういう実感がわき起こったのは自然なことだったのでしょう。

数年後、父が国会議員となって社会党の政策作成に携わった一年生議員の53年、最初につくった政策は、警察予備隊(54年自衛隊と改称)を災害復旧のスペシャリスト集団に変える「平和国土建設隊設置要綱」の草案でした。その後58年の第14回全国党大会において正式に社会党の政策となりました。これは、町長が災害のたびに苦労した経験を基にして、建設的、実際的な政策として作成されたものです。…(注11)

[補足]
(1) 北山愛郎(きたやま あいろう)
明治38年(1905) 7月16日、岩手県花巻川口町に、北山鏘一(しょういち)の長男として生まれる。
□ (父・鏘一は山口県出身、木炭商を営み、花巻川口町の町会議員を4期務めた。)
大正12年(1923 18歳) 旧制盛岡中学校卒業。
 東亜同文書院(上海)に入学(同年中退)。
昭和2年(1927 22歳) 旧制山形高等学校卒業。
昭和5年(1930 25歳) 東京帝国大学法学部政治学科卒業
昭和8年(1933 28歳) 東京市役所社会局に就職(1942年退職)。
昭和18年(1943 38歳) 貿易統制機関・中支那軍配組合(上海)に就職。
昭和21年(1946 41歳) 北京より岩手県花巻町に引揚げ。
昭和22年(1947 42歳) 花巻町長選に当選(1952年退職)。
 日本社会党に入党。
昭和28年(1953 48歳) 衆議院議員に当選(以後10回当選、~1983年)。
 日本社会党政策審議会長、同中央執行副委員長など歴任。
昭和57年(1982 77歳) 北山政治経済研究所設立、所長に就任。(1995年まで活動)
平成14年(2002) 2月22日死去、満96歳。

(注2) カスリン台風:昭和22年台風第9号。当時は「キャサリン台風」という呼称が一般的だったと思う。
当時、日本はアメリカ軍を主とする連合国軍の占領下にあり、台風の英名についても昭和22年(1947)から昭和28年(1953)5月までアメリカ合衆国と同様に、A、B、C順に女性の名前が付けられていた。

(注3) 「カスリン・アイオン台風の被害対策を考察する」:元花巻区長会会長・堀合徳身が2001年にまとめたレポート
(4) 「対談集 岩手の昭和史 4:岩手放送編、1985.8 熊谷印刷出版部発行
・聞き手の七宮涬三(しちのみや けいぞう、1928~2011)は、日本の歴史学者、作家。岩手日報社東京支社編集部長、富士大学教授。

(5) 高田弥市:明治38年(1905)~昭和45年(1970)。高弥建設㈱社長。衆議院議員(日本自由党⇨民主自由党⇨自由党、通算3回当選、昭和22年(1947)~30年(1955))
(6) 三田勇治:明治22年(1889)~昭和50年(1975)。花巻で三田製糸所、映画館経営。戦前より花巻町会議員、岩手県会議員(1期、昭和26年(1951)~30年(1955))
・選挙の時に聞いたものだったのか、「みたかきいたかみたゆうじ」というキャッチフレーズが今でも私の記憶に残っている。
(7) 伊藤祐武美(すけぶみ):明治34年(1901)~平成2年(1990)。岩手陶管工業社長、岩手観光タクシー社長、花巻温泉取締役等。全国の現職市議会議長としては最長の34年間 (花巻町議長時代を含めると41年間) 議長を務めた。
(8) 八木英三:⇨こちらをご覧下さい。

(注9) 瀬川付替工事:昭和25(1950)年度着工、32年度竣功、総工事費 70,390千円
  (建設省東北地方建設局岩手工事事務所編集「北上川 第3輯」(S53.3 同所発行)による)

(注10) 田瀬ダム:岩手県花巻市、一級河川・北上川水系猿ヶ石(さるがいし)川に建設されたダム。1941年 着工、1944年~50年 事業中断、1954年 竣工。高さ81.5メートルの重力式コンクリートダム。国土交通省直轄ダムとしては日本で最初に施工が開始されたダムである。

(11) 本書の初章「晩年」の中に次のような件(くだり)があります。
《…父が唐突に「僕は一体、いままで何をしてきたんだろう、政治家として、何を…」と、… 「お父さんの町長時代、ほんとにいろいろ仕事をして、…すごいことを、いっぱいしたんじゃない。」 なぜか、私は咄嗟に頭にひらめいたわずか5年半の町長時代のことを言って父を慰めようとしました。 「そうだな、あの頃のことは自分でも精一杯よくやったと思うよ・ ・ ・」…「あの頃は幸運だったなあ」と言いました。…》

(2018.9.15掲/10.11改)