日本人メキシコ移住120周年: 亮次郎とメキシコを想う

10月8日に東十二丁目の高橋市議のお宅で「照井亮次郎(1)を語る会」がありました。集まったのは高橋氏の外に東京から御出での瀬川氏夫妻、仙台から三浦氏、高木の佐藤氏、そして私の計6名。

瀬川氏がこの集まりの音頭取り、奥様は亮次郎のお孫さん(亮次郎の娘・アウロラ暁子の娘)。 [全文を読む]

「島郷土史」の目指したもの

「島郷土史」(昭和16年編纂)は「東十二丁目誌」などでしばしば引用される文献ですが、これまで直接手に取ったことがありませんでした。1年以上かかってしまった「石崎文庫」の整理が一段落したので、当文庫所蔵の「歓喜寺文書」の中にある「島郷土史」を読んでみると…
まず思ったのは意外にページ数が少ないこと。それに毛筆の手書きなのです。そして表紙が付いていない。元々なかったのか、コピーするときに抜けたのかはわかりません。毛筆書きの「島郷土史」の前に、ガリ版刷りと思われる「過去帳保存庫並に郷土史編纂に就て」と題した文書が置かれています。
しかしこのプロジェクトの実施主体がはっきりしません。島区民会とか歓喜寺護持会のような団体だったのか、個人有志に依るものだったのか。 [全文を読む]

亮次郎ゆかりの女たち

   母・マス
   妹・スグ
   妻・ロムアルダ
   長女・アウロラ暁子
   次女・ロムアルダコマ
   幼なじみ?・小田島柳子
   後妻・フェリパ

照井マス母・マス
矢沢村矢沢中島家の出身、昭和10(1935)年12月19日死去(96才)。
亮次郎は渡墨に当り、花巻の豪農・松屋の瀬川弥右ェ門の資金援助を受けたが、弥右ェ門の母も中島家の出身だったらしい。 [全文を読む]

亮次郎の晩年そして死

(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン)より)

日墨協働会社が解散する前、亮次郎は日本から同郷の小田島柳子(注1)という女性を呼び寄せた。「日墨交流史」には、画家・利根山光人氏が「照井を愛した日本人女性」と題して、柳子と亮次郎のロマンという話を寄せている。… [全文を読む]

日墨協働会社解散の原因

(及川 昭「榎本武揚と照井亮次郎」(H16.3.1 花巻史談 第29号)より)

順調に発展を遂げていた日墨協働会社が明治43(1910)年からのメキシコ革命にまきこまれてしまった。35年間独裁政治を続けたディアス大統領と革命軍の戦いである。それが7年間も続いた。

 日墨協働会社の被害
・インフレーション(貨幣価値大暴落)
・ディアス大統領時代に購入した414町歩の返還要求
・暴徒が商店、倉庫を襲う
・社員間の動揺
・会社運営上の意見続出
・製氷工場の失敗
・窮余の一策で設立した日墨貿易会社の失敗

メキシコ革命の終焉とともに大正9(1920)年日墨協働会社は解散し、財産は各社員間で分配した。
先人の全ての研究書は以上の7点内外を[会社解散の]理由として上げている。はたしてこれだけであろうか。… [全文を読む]

亮次郎の社会主義

(及川 昭著「照井亮次郎の日墨協働会社におけるコミューン的経営とその思想の形成」(H18.3.31 花巻史談第31号)より)

はじめに
…榎本殖民団は入殖後、間もなく瓦解するが、照井は仲間とともに紆余曲折を経て「日墨協働会社」を設立。20世紀初頭中南米で様々な事業を展開し、日本人の企業として最大の会社に育て上げた。
この日墨協働会社は、社員に私有財産を認めず、その方針は社会主義的コミューンを理想としたものであった。この方法での経営は20年近くは順調に推移、日墨両国の発展に寄与すると共に、我国のメキシコ移民の基礎を築いた。
ところで、弱冠22才で渡墨した照井は社会主義的コミューンの思想を、激しい労働のさ中にあって如何様にして学び得たのであろうか。… [全文を読む]