明治末に花巻からメキシコに渡った女教師

その小学校教師の名は中西良(りょう)
明治18年(1885)、和賀郡十二鏑(じゅうにかぶら)村(現在の花巻市東和町土沢)に生れ、師範学校を卒業して小学校教師をしていたが、何故か明治44年(1911)26歳の時にメキシコに渡りアウロラ小学校の教師となった。
アウロラ小学校は、榎本武揚の殖民構想に共鳴してメキシコに移住し、大活躍した照井亮次郎(注1)(花巻市東十二丁目出身)が設立した学校です。

明治38年(1905)3月 師範学校卒業記念写真より

中西良については、手元に川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」、三浦宣秀著「阿保(あぼ)家ファミリーヒストリー」、「メキシコ移住120周年記念展示 展示資料リスト」(JICA)の3資料(注2)しかなく、分からないことが多かったのですが、三浦氏にメールでお尋ねしたところ、貴重な情報を得ることができました。本稿ではこれら4資料(以下それぞれを「川路本」、「三浦本」、「展示リスト」、「三浦メール」と略記)から関連部分を引用しつつ、中西良の一生を辿ってみます。

■メキシコ アウロラ小学校
「川路本」の中で「中西良」の名前が明示されているのは次の一ヶ所のみです。

《アウロラ小学校の歴代教師には、西澤貫造のほか、佐藤満蔵、阿保徳弥・中西良子夫妻、宮尾関尾、伊藤誠、柴倉善夫の名前が挙げられる。》
伊藤誠も花巻出身とあります。

「展示リスト」にこの夫妻が次のように紹介されています。

阿保徳哉と中西良
青森県南津軽郡田舎館村出身の阿保徳哉は、(現在の)東京外国語大学スペイン語学科を卒業後、1911(明治44)年にメキシコに移住。アウロラ小学校において、日本語の教科書をスペイン語に訳し、ローマ字に書き直す作業を行った。また、日墨興業会社(注3)の商業部経営にもあたっていた。
岩手県和賀郡拾二鏑村(現・花巻市東和町)出身の中西良は、岩手県師範学校を卒業後、故郷で小学校の教師をしていたが、1911年、アウロラ小学校からの要請でメキシコに渡り、同校の教師となった。》

①エスクイントラ(日墨協働会社本部・アウロラ小学校) ②タパチュラ(日墨協働会社製氷所) ③コリマ(日墨興業会社商業部) ④ロドリゲス・クララ(照井亮次郎終焉の地)
貨客船 春洋丸 (13,377総トン、全長 167m余、三菱長崎造船所建造、1911年8月竣工、横浜港発サンフランシスコ線に就航)

「三浦メール」に、良の渡墨するまでの事情が次のように記されていました。

《・明治44年(1911)3月、花巻小学校(花巻川口尋常高等小学校、後に花城尋常高等小学校)の教師を退職。(宮沢賢治が花巻小学校6年生の時に在職しています。(注4))
・明治44年8月、横浜からサンフランシスコ航路、春洋丸でメキシコへ出発。
・明治44年11月、アウロラ小学校での天長節の式典に出席。…
・渡墨の理由は、直接的には照井亮次郎からの依頼です。(明治44年 外国旅券の旅行目的に「小学校教師として」と記載)
・間接的には、花巻小学校の先輩教師の照井真臣乳(まみじ)がおり、影響を受けたと推察します。(照井真臣乳と斉藤宗次郎(注5)はいとこ同士で照井亮次郎とは親戚みたいです。)》

「川路本」によれば、照井亮次郎は1910年に一時帰国しているようなので、その時にリクルートされたのかもしれません。
ここで注目したいのが内村鑑三の無協会主義キリスト教。良が花小で内村鑑三の高弟・照井真臣乳と共に教職にあったころ、メキシコでは榎本殖民地の後を継いだ藤野殖民地で、無教会主義キリスト教徒・布施常松が現地の責任者でした。
そして後に農場主となる竹村四郎が、布施が一時帰国した折の講演会を聞いて触発され、1911年に渡墨しています。(注6) 良は竹村と一緒に海を渡ったのではないでしょうか。春洋丸の処女航海で。
良自身が無協会主義キリスト教にどう関わっていたかは、残念ながら分かりません。

ところで「川路本」に、1911年5月17日付けの「学校と教育について」と題した高橋熊太郎(注7)の所感が引用されており、その中に次のように書かれています。

《学校と教育の事業については全く照井君独りに一任して置いて甚だ以てその他の社員は冷淡極まる態度である…
3,384円78銭を1ヵ年に消費して昨日今日来た人達に結婚させたでは涙がこぼれる。…まず以て献身的熱誠と云うものがなければ真実の教育家にはなれるはずもなく、さればと云って、そんな者が差当り見附かるべくもなく、まず以て困ったものだ。》
「昨日今日来た人達に結婚させた」とはどういうことか。阿保徳弥・良夫妻のことではないかと、一瞬思ったのですが、「三浦メール」と照合すると「5月」と「8月」以降では時系列的に矛盾します。

同本には、1908年の状況として、《…寝食一切を教師夫婦の世話に託している。…教師は日本では師範学校を卒業した正教員であり、その妻は保母の素養がある。…》とも記しており、阿保夫妻の前にも夫婦の教師がいたということでしょうか。

また、在墨府(メキシコシティ)日本公使館外務書記生・荒井金太の視察報告から引用して、1912年7月頃のアウロラ小学校の状況に触れ、その中で次のように記しています。

《学校創立当時は収用した児童は2、3名に過ぎなかったが、現今では漸次増加して5歳から11歳に至る男女生徒9名を収容している。いずれも学校内に寄宿し1名の日本人女教師に監督させている。思うに、現地人の児童と交わりその悪風に感染させないようにするためという。現時点の教師は日本人女教師1名、メキシコ人女教師1名、及びローマ字教科書編纂係として東京外国語学校卒業生1名、外に小学校附属農場監督で臨時に小学校の監督を担任させる地方農学校卒業生1名の都合4名である。》
「日本人女教師」が中西良、「ローマ字教科書編纂係」が中西良の夫となる阿保徳弥のことでしょう。

明治39年(1906)に創立されたアウロラ小学校は、土地問題から大正3年(1914)に閉鎖されました。そして児童は日墨協働会社が経営する製氷所内に設けられた寄宿舎に収容され、地元の小学校にも通学させられることになったのです。その時児童の世話をしていたのは花巻出身の伊藤誠で、阿保(旧姓・中西)良の動静は明らかでありません。良がアウロラ小学校で教鞭を取ったのは長くても1911年から1914年までの3年足らずということになります。

良は、大正13年(1924) 39歳の時に、夫・徳哉を残し7人の子供たちを連れて帰国しました。子供たちに日本で教育を受けさせるためだったといいます。

その後のことを、「三浦メール」から:

《・大正14年(1925)4月頃、良が再渡墨 (徳哉のコリマでの商売を手伝うため)
・大正14年7月、徳哉が死亡 (死因は黄熱病か。葬式と墓建柱)
・昭和2年(1927)初め、帰国 (花巻にいる子供に会うため)
・昭和4年(1929)、再再渡墨 (長男の良一を連れて、商売継続のため)
・昭和5年(1930)末、帰国 (商売を整理しての帰国(この時45歳)
照井亮次郎に帰国の挨拶をしています。(この年10月亮次郎死去)) 》

■帰国後の一家
帰国後の良とその家族について、「三浦本」に孫の一人(次女の娘)の回想文が載っています。

昭和4年(1929) 花巻にて

《母親を囲んで7兄弟が行儀良く並んでいる…写真は…阿保ファミリーの(帰国)数年後の姿である。4歳だった私の母(次女)と赤ん坊だった信子叔母は小学生になっている。父親はメキシコの地で亡くなり、兄妹は母の親元、岩手花巻で成育したのである。
良一伯父(長男)は岩手中学の、良二伯父(次男)と良三伯父(三男)は盛岡中学の帽章を付けている。…良四郎伯父(四男)は盛岡工業に学んだ。徳子伯母は小学校卒業後家事手伝い、母淑子と信子叔母は花巻高等女学校に進学した。
世界的恐慌に加えて東北地方の冷害・凶作と社会不安が増していたこの時期、母子家庭の「帰国子女」は順調に教育の場を与えられたと言えよう。…

その10年後、日本はアメリカ・イギリスに宣戦し、中国での戦いも続いていた。戦時、阿保兄妹はどうしていたか。1人メキシコに戻って家業に就いていた良一伯父は、開戦と共に「敵国人」として行動の自由を奪われていた。3人の男子は招集され、中国大陸あるいは内地で軍務に従い、私の母は「満州国派遣」の軍人のもとに「たった1人で花巻駅を発ってお嫁に行き」(母の言)、私を産んで1年余の後、戦争未亡人となった。それぞれ困難な戦時を生き残ったが、末っ子の信子叔母がもっとも若くして軍属として殉職した(1944年(昭和19年)21歳)。

祖母は夫と共に、メキシコ革命時も非暴力無抵抗を貫き教育と産業を通してメキシコの人々と友好平和を作り出した殖民団の一員であった。今、戦争という最悪最大の暴力が、夫の眠るそして長男が暮らしているメキシコの地を隔て、中国の戦場に末娘の命は奪われた。国と国とが起こす戦争というものの無惨・非人間性はいつの世も変わらない。結局祖母は生き別れとなった長男と再び会うことなく、メキシコを語ること少なく、あの世に引っ越してしまった。私の母は「お母さんは自分が若い時、太平洋を越えて1人旅立ったものだから、満州なんて外国とも言えないと言って、簡単に私と妹を大陸に送った」と恨んだ。「簡単に」かどうかは別として、確かに良の感覚では中国は何ほどの外地でもなかった。

中西良は、岩手師範学校に学んで小学校教師となり、同郷の照井亮次郎の理想と行動に共鳴してメキシコに渡ったと思われる。そこで東京外国語学校西語(スペイン語)科を出て殖民団の小学校教科書作成に携わっていた阿保徳哉と結ばれた。当時にあって、彼女の行動は、周囲はもちろん両親の理解をも超えていただろう。帰国した彼女の目に、日本の現実がどのように映ったか、メキシコでの生活の詳細をも含めて、今の私ならメモ帳を持ってインタビューするところだが、子や孫が老いと共に人と世への思いを深める時、親達はもうこの世に無い。…》

昭和31年(1956) 夫・徳哉33回忌法要記念写真より

阿保(旧姓・中西)良、昭和39年(1964)11月2日没、行年79歳。花巻の宗青(そうせい)寺に眠る。合掌!

 

[補足]
(1) 照井亮次郎:⇨ [亮次郎とメキシコを想う]

(2) 「シエラマドレの熱風(かぜ)=日・墨の虹を架けた照井亮次郎の生涯=:川路賢一郎著、2003.3.24 パコスジャパン発行
・「阿保家ファミリーヒストリー」:三浦宣秀著、2017.2 同人発行
・「展示資料リスト 日本人メキシコ移住120周年記念展示〈メヒコの心に生きた移民たち〉:JICA横浜海外移住資料館主催、展示期間:2017.9.30~12.24

(注3) 日墨興業会社:(1897年にエスクイントラ官有地64,000町歩(ha)弱の払い下げを受けて発足した榎本殖民地は1900年末に至り崩壊、その後を継いで藤野植民地が発足した。)
二代目藤野は、先代藤野の名義で残っていた13,500町歩余の土地を活用するため、1920年、「日墨興業会社」を設立。資本金60万円、…

この会社は貿易部と産業部から成り、その貿易部をメキシコ太平洋沿岸のコリーマ州の州都コリーマ市に置き、ここに中野逸太郎を派遣、日本とメキシコの間の貿易を行うこととしたほか、ゴム栽培のための土地購入を行った。しかし、中野は会社の契約不履行を理由に帰国してしまい、後任に東京外語出身の阿保徳弥が送られて経営にあたったが、阿保はまもなく病死したことから、貿易部はほとんど機能せずに閉鎖されてしまう。そのため、ゴム園購入代金として125,000円をつぎこんだ土地は、管理する人間もなく荒れるにまかされ、いつしか近所の農民が住み着き跡形もなく消え去ってしまった。

他方、日墨興業会社の産業部はチアパス州に設置され、滋賀県出身の松井猪三郎が派遣された。…そこで牧場経営や測量技術を学び殖民地の経営に当たる。しかし、日本の本社からは資金が届かず、…
とにかく、当時は日本とメキシコの土地概念の差がありすぎた。藤野殖民地のほとんどは山地ばかりで、土地を借りようとする人間は誰一人おらず、わずかにある低地は未開の原野で、借り手を探すことはできなかった。13,500町歩という広大な土地を資本に、日本に居ながらにして収益を得ようとした日墨興業会社幹部らは一人として殖民地に足を踏み入れることもなく、…結果的に榎本の率いた殖民協会と同じ轍を踏むことになったのである。
(上野久著「メキシコ榎本殖民」(1994.4.25 中公新書1180)より)

(4) 宮沢賢治の先生:良は賢治の担任ではなかったようですが、賢治の先生として思い浮かぶのは八木英三。このブログで何度か取上げました。
[教育者/新聞人/政治師・八木英三]
彼が花巻小学校に勤務し、賢治の担任だったのが明治38年(1905)から40年初めまで。一方良は師範学校を明治38年3月に卒業し、花小を退職したのが明治44年(1911)3月。卒業して直ぐに花小に奉職したとすれば、二人の在任期間が重なりますが、どうだったか?
八木英三が退職し後に、賢治の担任になったのが照井真臣乳だったようです。

(5) 照井真臣乳(まみじ):1873〜1949、稗貫郡西十二丁目村(現・花巻市)出身、内村鑑三の高弟。宮沢賢治の小学校時代の担任教師でキリスト教を教える。南城尋常小学校長。
・斉藤宗次郎:1877~1968、東和賀郡笹間村(現・花巻市)出身のキリスト教徒。
無教会主義キリスト教徒である内村鑑三の最も忠実な弟子の一人で、その死に至るまで身の回りの世話をした。また、『雨ニモマケズ』のモデルとも言われている。

(6) 上野久著「メキシコ榎本殖民」(1994.4.25 中公新書1180)による。

(7) 高橋熊太郎:照井亮次郎と共にメキシコに移住した宮城農学校の同級生。日墨協働会社でタパチュラの農場と薬局の管理を担当し、製氷工場を経営した。

(2018.5.28掲/6.12改)

「明治末に花巻からメキシコに渡った女教師」への3件のフィードバック

  1. 本稿に追加補充しました。
     ・メキシコ全図
     ・春洋丸の写真
     ・無教会主義キリスト教に言及
     ・日墨興業会社の概要

  2. 当時、花巻からメキシコへ渡ることは想像だにできなかったと思う。
    すごい勇気、行動力に脱帽です。
    良さんに会ってお話ししたかった。

  3. コメントをお寄せ頂き、有難うございます。
    私も良の行動を初めて知った時には驚きました。何故メキシコへ?
    しかしその後いろいろ調べてみて、
    ・当時日本から北米だけでなく、南米まで日本船による船便があったこと、
    ・1906年にはメキシコへの移民が年間5,000人を超えていたこと(その後南米の移民先はブラジルに移る)、
    ・現地の同郷人や無教会主義キリスト教徒とのつながりもあったこと、
    などもあって、それ程無謀な行動ではなかったようにも思えてきました。
    そして、感嘆したのは良個人というよりは、むしろ明治維新後50年足らずの日本国・日本人のバイタリティ。国内の人口圧力、農村の疲弊などの矛盾を抱えてのことではあったでしょうが。

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