(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン)より)
契約移民募集
1897(明治30)年2月23日、草鹿砥(注1)は日墨拓殖会社から移民監督として「墨国事業担任ノ命令」を受けた。 出発は、…太平洋汽船会社との話し合いにより、桑港(サンフランシスコ)からサンベニトまでの船の乗り換えの都合上、既に3月24日と決まっていたため、僅かに29日間の日数しかなかった。
彼はこの限られた期間、早速郷里の三河(愛知県)に帰り、自分で、計画されていた38人の「移民」の募集にとりかかった。 しかし、集めたのは20人にすぎず、計画の人数には達しなかった。そこで、友人…に頼んで播磨(兵庫県)からようやく8人を集めた。それでも足りなかったため、自由移民として亮次郎ら、自費で渡航する者たち6人の同船を認め、ノルマを果したのである。
その結果、移民団は総勢35人となった。構成は、監督者・草鹿砥寅二のほか、契約移民(契約労働者)28人と、自分で渡航のための費用を工面した自由移民(独立移住者)6人である。…
自由移民の参加
榎本殖民団に加わった亮次郎たちがメキシコ渡航の情報をどうやって入手したのか、いつ渡航するかの話が決まったのか。これについては資料が無いのでよくわからないが、推測してみたい。 亮次郎は明治29年11月に軍隊を除隊していたが、メキシコ渡航まで時間がなかった。 地方在住の自由渡航者にとって、当時の通信事情から見ると、メキシコ渡航の情報を手に入れることは非常に難しかった。
しかし、亮次郎らは殖民協会の会員となっており、殖民協会報告から情報を得ていたのではないかと思われる。というのは、殖民協会では、地方の学生会員に対しては、毎月会費のほかに郵送代4銭を前金で払い込めば、殖民協会報告を郵送してくれていた。 「墨国購地ノ契約愈々(いよいよ)成ル」の記事が殖民協会報告に載ったのは、…明治29年10月17日付けであるので、亮次郎たちはその情報を得ていたと思われる。…
また、時期については、明治30年2月23日、草鹿砥は日墨拓殖会社から移民監督として「墨国事業担任ノ命令」を受けているので、この後、3月11日、宮城農学校農友会の主催で、壮行を祝う特別会が開かれるまでの間に、草鹿砥から同船の許可を得たものと推測される。
「照井亮次郎事跡」によると、亮次郎は榎本(注2)と面会の上移民団一行の中に加えてくれるよう懇請したが、榎本は「学生ハ弁舌ヲ良クスルモ労働力之二伴ワズト直ニ拒絶」したという。そこで、亮次郎は憤慨して自分は己の力で運命を拓くという覚悟で兄・敬三と花巻の「瀬川某」より資金援助を受けて、諸般の準備を整えた。…
因みに、前述の「瀬川某」とは三代目瀬川弥右ェ門(注3)であると推測される。弥右ェ門は1860(万延元)年、花巻地方屈指の豪農であった松屋家に生まれた。彼は30歳頃から大正11年63歳で没するまで花巻町の議会議員や稗貫郡会議員を歴任し、町の行政や教育面で多大の貢献をなした。亮次郎は、兄・敬三の口添えにより、この松屋から資金の援助を受けたと推測される。…
榎本からの土地払い下げ
亮次郎と高橋(注4)に対し榎本武揚名による土地の払い下げ承認書の案が残っている。出発前に作成されたものである。承認書の紙面は殖民協会のものである。
拝啓 墨国チャパス州エスキントラ村拙者所有ノ土地今般貴下等二於テ開墾ノ為メ買受度御希望ノ趣了承致候 右耕地ハ一町歩二付金六円ヨリ下ラザル代価ヲ以テ五ヶ年賦ニテ御譲渡可申 追テ墨国政府ヨリ地券下渡相成候上ハ地券ノ書換可致其間ハ永代貸地料トシテ前記ノ代価ヲ受取リ土地使用ノ権利譲与可致候 其価格及場所撰定ノ如キハ在墨国拙者代理ノ当事者ト協議被為致度 此段及御回答候也
明治三十年三月 日
□ 子爵 榎本武揚
□ 高橋熊太郎殿 照井亮次郎殿
亮次郎らは、契約移民でなかったので、殖民地へ入ってから直ちに土地を購人して開墾に着手する事になっていた。横浜出航の時、亮次郎たちは、…未だ契約移民の契約が締結されていなかった事を知る由もなかった。
横浜出航
3月23日、亮次郎ら三人(注4)は東京を出発、その日のうちに横浜に到着した。新僑-横浜間には明治5年5月に開通していた鉄道があったため、彼らはこれを利用したものと推察される。 横浜に着くと、大桟橋に近い住吉町にある「旅人宿」の「和田彦」に宿泊した。…亮次郎らは、この「和田彦」で、旅行に必要な米貨への交換や食料の調達等を行い、旅支度を整えた。…
出発に先立ち、郷里からは親戚、友人らが見送りに駆けつけた。…「…本日(24日)はわざわざ桟橋まで見送ってくれて『無事で居給え、元気で帰り給え』等と言って帽子を振りつつ喝采された時などは小説中の人物のような心地がした」と亮次郎は記録している。
この日、亮次郎、高橋、太田の三人は、「協同一致して開拓事業にあたり、5年間に得たものは三人で平等に分配する」との決意書を交わしている。
契約証
一 私共三人協同一致家族ノ親ヲ以テ鋭意殖拓二従事スル事
一 得ル所利益受クル所損害二対シ各自同等権利義務ヲ有ス 但シ五ヶ年間ヲ一期トシテ総テ損益ヲ分配スルモノトス 尤(もっと)モ三人協議ノ上年限ヲ長短スル事アル可シ
一 遺産ハ之レヲ家族二付ス 但シ其当時平分スルモノトス
今般墨西哥(メキシコ)国二於テ協同事業ヲ起スニ付テ 右三力条ヲ契約シ互二和解ヲ旨トシ凡(すべ)テ平均ヲ失スル事ナカル可シ
仍(よっ)テ証書三通ヲ製シ各父兄ノ許二送付致シ置候事
明治三十年三月廿三日 太田連二 照井亮次郎 高橋熊太郎
翌24日午前、横浜港大桟橋へ向う。監督の草鹿砥ほかの契約移民はその前々日の22日に既に到着していた。彼らも同様に横浜にあった移民宿に宿泊したものと考えられる。 24日の天気は晴れ。正午、殖民団一行は…英国船籍ゲーリック号 (4,206総トン)上にいた。同船は横浜を経由して香港と桑港を往復する定期旅客船であった。…
航海
3月24日 横浜港出港
4月 3日 ハワイ到着
4月 4日 ホノルル港を出帆
4月10日 桑港到着
4月19日 ゲーリック号を下船、パナマ行きのシティ・オブ・パラ号(3,532総トン)に乗り換え、桑港を出港
4月26日 マンサニーヨ(墨国)に上陸
5月 1日 アカプルコに上陸
5月 2日 バラクータ号に乗り換え、アカプルコを出帆.病死した殖民団の一人を水葬に付す
途中、テコナパ、ポルトアンヘル、サリナクルス、トナラ等に立寄り、一~二日滞留
5月10日 午前7時頃、サンベニト港(注5)の沖合に到着.午前11時、上陸
[参考]
(注1) 草鹿砥寅二: 農科大学卒業生、先に墨国移住組合から移民契約のため墨国に派遣されたことがある。
(注2) 榎本武揚: 殖民協会会長、当時農商務大臣
(注3) 瀬川弥右ェ門:三代目弥右ェ門の母と亮次郎の母は共に矢沢村矢沢の中島家の出なようなので、弥右ェ門と恭次郎は従兄弟どうしだったのかもしれない。
(注4) 高橋熊太郎、太田連二: 熊太郎は亮次郎の農学校同級生、連ニは一年後輩で、共にメキシコに同行した。
(注5) サンベニト(プエルト・デ・サン・ベニート、プエルト・マデロ): 亮次郎らのメキシコ最終上陸地.グアテマラとの国境であるスチアテ川河口の北西約35kmにある.サンベニトから北東へ約30kmでタパチュラ、そこからエスクイントラまで75kmの行程である。
(2014.6.8掲)