(及川 昭「榎本武揚と照井亮次郎」(H16.3.1 花巻史談 第29号)より)
順調に発展を遂げていた日墨協働会社が明治43(1910)年からのメキシコ革命にまきこまれてしまった。35年間独裁政治を続けたディアス大統領と革命軍の戦いである。それが7年間も続いた。
日墨協働会社の被害
・インフレーション(貨幣価値大暴落)
・ディアス大統領時代に購入した414町歩の返還要求
・暴徒が商店、倉庫を襲う
・社員間の動揺
・会社運営上の意見続出
・製氷工場の失敗
・窮余の一策で設立した日墨貿易会社の失敗
メキシコ革命の終焉とともに大正9(1920)年日墨協働会社は解散し、財産は各社員間で分配した。
先人の全ての研究書は以上の7点内外を[会社解散の]理由として上げている。はたしてこれだけであろうか。…
解散の原因
日墨協働会社は照井・有馬・清野らの失地回復の努力も空しく大正9(1920)年3月~5月頃解散を決議した。明治38(1905)年法人として発足してより15年後のことである。
解散理由として上げられるのは、有馬(注1)の敬三宛書簡及び後の証言等から、社員間の一致団結の絆が緩んだことにあると思われる。
社会主義的、協同、協調主義をモットーとした運営ではあったが、トップの座に着けばその方針から逸脱・独断に走る傾向は人間の宿命である。それに加えて照井は強烈な個性の持主であり、リーダーシップがエスカレートし、社員の失敗の責任を追求し過ぎたり、人事面にも独断が表われ、村井・千田の情実登用など独走してしまい、社員間に特に人事面における不平不満が醸成され、それを沈静化することが出来なかったのが理由である。
解散時の社員一人当りの分配金は決して少ないものではない。また、解散後の社員の動向をみても、多くは成功している。
従って、メキシコ革命に遭合し、資本・資金の不足、会社経営の前途が危ぶい故の解散に至ったのではない。
[裏話-1] 有馬六太郎(注1)の述懐
(川路賢一郎著「シエラマドレの熱風」(2003.3.24 パコスジャパン)より)
…この解散の時、有馬と清野は日本にいた。
さて、会社の解散の原因のひとつに、社員間の不和が挙げられている。有馬は、「彼等は斯の如くメキシコに奮闘せり」の中に、「榎本殖民地と日墨協働會社の興亡」と題して、解散に至る裏話を書いている。
吾が日墨協働会社は数次のメキシコ革命戦の飛沫を受け多少の損害もあったが、此時までは兎に角旭日昇天の勢いで繁栄に進みつつあったといってよい。然るに照井氏の帰墨を境界線として、愈々(いよいよ)ここに衰運の兆しが現れたのである。
照井氏が再び組合の事務を執るようになると直ちに、私を日本に派遣する事になったが、その後任として私の下に従前から働いておられた熊谷氏を始めとして、幾らでも人材はあったのにも拘わらず、新参―無経験の村井君を主任に任命された。これには組合員中に快からず思っておった者が多かったが、不和を醸すのを怖れて反対する者は一人もなかった。
この村井君が担任となってから、これまで年々一万ペソ内外の利益を上げていたウィストラの店は忽(たちま)ち三千五百ペソという欠損を見た。村井君と同時に照井氏が社員として入れた岩手県人千田君も……帰墨の途中仕入れもせぬ薬品を盗まれたと称して本社に向かってその代金を請求して来たことがあった。
このような事実は悉(ことごと)く社員一同の知るところとなり、今まで一心協力に勉めてきた一同の心は次第に不平不満の感を抱くようになり、1920年終にさしもの日墨協働会社も解散の止むなきに至ったのである。尤(もっと)もこの解散当時は清野さんと私とは帰朝中で、この決議に参与しなかった。
……一旦帰朝して再渡来した照井理事が多数の社員の入社を許し、中にも村井二郎・千田文四郎両人の如き人物を過信し、為に創立当時からの古参社員間に不平起り遂に解散の憂き目を見るに至ったのである。私は1918年第2回の帰朝をなし、1921年5月再渡墨したので、この時は最早協働会社はその跡を止めぬ状態であった。
このような状況からみると、メキシコ革命による物的損害とともに、社員間に不平不満が醸成されていたことは否めない。しかも、高橋熊太郎も既に協働会社を離れていた。…
[裏話-2] ある社員のつぶやき
(上野 久著「メキシコ榎本殖民」(1994.4.25 中公新書 1180)より)
…日墨協働会社も、革命の嵐の中で揺られながら団結を維持しようとしたが、革命の混乱に乗じた暴徒は会社の商店や倉庫を襲って大量の物資を盗み、度重なる発行のために所有する紙幣は紙屑同然となり、革命は直接的にも間接的にも会社に大打撃を与えた。
会社収益の悪化につれて、一枚岩を維持してきた幹部社員の間にも意見の相違が出始め、軋蝶が顕著となりはじめた。高橋熊太郎が始めた製氷工場の失敗は大損失を計上、これが照井の不満とするところとなり、有馬六太郎は退社をほのめかすなど、幹部の頭が乱れれば労働者の動揺はもっと激しく不信も増大した。ある社員は「社員所感集」(1911年)に次のように書いている。
「雇人の悪口を雇人に言はれる位は朝飯前である。組合員の悪口を雇人に言ふ廻て上得意で居られるようなパトロンが居られるのでいやはや近頃片腹痛く、痛いがそれはお笑いからだ。そう言う連中はこんなもの読んでも一向平気でござる」…
[参考]
(注1) 有馬六太郎: 愛知県出身、榎本殖民団の契約移民。三奥組合設立に参画。
英国人ゴム園の料理人等に従事。間もなく脱会を希望するも、撤回。
ウィストラの雑貨店と薬店を担当。
日墨貿易会社の設立に奔走し、取締役に就く。
会社解散後(1920年)、永谷安太郎と共にウィストラで有馬永谷商会を設立。ペルムタ農場を継承し、農牧業、雑貨店、薬店、ラムネ製造工場を経営。
(2014.7.20 掲)