亮次郎の社会主義

(及川 昭著「照井亮次郎の日墨協働会社におけるコミューン的経営とその思想の形成」(H18.3.31 花巻史談第31号)より)

はじめに
…榎本殖民団は入殖後、間もなく瓦解するが、照井は仲間とともに紆余曲折を経て「日墨協働会社」を設立。20世紀初頭中南米で様々な事業を展開し、日本人の企業として最大の会社に育て上げた。
この日墨協働会社は、社員に私有財産を認めず、その方針は社会主義的コミューンを理想としたものであった。この方法での経営は20年近くは順調に推移、日墨両国の発展に寄与すると共に、我国のメキシコ移民の基礎を築いた。
ところで、弱冠22才で渡墨した照井は社会主義的コミューンの思想を、激しい労働のさ中にあって如何様にして学び得たのであろうか。…

自由移民者の丁酉会社設立と解散
榎本殖民団が目的地のエスクイントラ村に到着したのは、明治30年5月18日であった。照井ら自由移民の6名は、はじめ拓殖会社の要請により同社に雇われ支援していたが、6月初旬25円ずつ出し合って、「丁酉(ていゆう)会社」という会社をつくった。…
この丁酉会社の規約・方針でみる限りにおいては、社会主義的傾向はみられず、協力・協調に主眼をおきつつ、むしろ資本に応じ利益を配分する方式をとっている。
しかし明治32年(1899)2月資本を投入していた日本殖民会社が倒産した。それに連鎖して丁酉会社も解散せざるを得なかった。…

三奥組合設立と進展
旧丁酉会社の人々は明治33年4月までそれぞれ分散して各自の道を拓いて生活していたが、照井のエスクイントラ帰村を契機に明治34年(1901)3月、多福岡(タフコ、我々の耕地の意)農場(丁酉会社当時の農場)に集まり、再起の準備にかかった。三奥組合がそれである。…

三奥組合の特色は規則第三、四、五と第八である(注1)。今までの日本人入殖者の失敗を教訓として、今後は共同して事にあたることとし、規則で組合員の不動産・資本金はもとより、能力・労働力・経済力を組合財産とし、組合は給料を支払わない代わりに組合員が必要とする衣食住一切を全面的に負担する。組合の分配金は組合員に支払わず、帳簿上は組合員の財産でもすべて組合の資本に編入するというものである。
社会主義的な組織運営である。

三奥組合は設立から5年間で資本金は4倍に増え、事業の範囲もアカコヤグアから周辺に広がった。共同組織として尤(もっとも)も要請されるのは「協調」であり、照井は社会主義的性格のこの組織の必要性をことある毎に説いた。

殖民信用組合へ
明治37年(1904)7月、三奥組合は、組合規約を改正し「殖民信用組合」とした。…
三奥組合の規約、第三、四、五、八はそのまま生かしている。…その外に、…
 ○組合員ハ全財産ヲ組合ノ営業資本ニ供出シソレ以外ニ私有財産ヲ所有スルコトヲ許サナイ
と、規定し私有財産を保持することを禁止と明確に打ち出している。…
これらの規約でみる限り、社会主義的性格の規則を益々強化し規則の遵守を義務づけ、強固なものとしている。かつてのソ連邦の社会主義政権が生れるはるか以前のことである。…

法人日墨協働会社
明治38年(1905)9月、臨時組合会議が開催され殖民信用組合はメキシコ商法にのっとり、法人組織とし「日墨協働会社」となった。…
「三奥組合」「殖民信用組合」の特色である「私有財産の禁止』は厳格に継承された(注2)
会社設立から7ヶ年は一致団結、事業は理想通り極めて順調に発展していった。…

明治44年(1911)12月、照井は父宛に事業報告の内容を書き送っている。
 我々ノ会社ハ目下六ッノ雑貨店、三ッノ薬種店・農牧場、医院、学校ヲ所有シ日本人四十余名、各々同数ノ土人ヲ雇傭シツツアリ…
この報告によれば、事業の拡大とともに、日本人のメキシコ移住が増加していることがわかる。それに対し、父亮蔵は、
 彼等最盛ノ時代ナリナラン……
 会社ノ名称ハ日墨協働会社トシ其ノ組織ハ共産ニシテ幹部及家族ハ財産ノ私有ヲ許サズ然モ日本ノ国ト同様ナル殖民地ヲ得ルハ彼究極ノ目的ナルモノノ如シ……
と感想を述べ亮次郎の社会主義的運営方法を理解している。…

結び
照井亮次郎は22才で渡墨し、56才で客死する34年間は苦闘の連続であった。その中にあって不撓不屈、ロシア革命以前に三奥組合~日墨協働会社を社会主義的コミューンに組織したことは驚嘆に価する。

彼の教養、主義・主張の思想は学校教育で学び得たものではない。
宮城農学校に於いて若干はその基礎は敷かれたとしても、本校は実学を旨とした農業教育の中等教育機関であった。故にメキシコ市における養蚕技術、三奥組合、日墨協働会社においての農作物栽培技術はこの実学を発展させたものであった。しかし、その会社経営の知識・方法・主義主張の思想は何処より生れ出たものであろうか。…

第一に、彼は幸いなことに頭脳明断、優れた才能の持ち主であった。
それは彼の起草した諸文書、演説、書簡でも窺い知れる。…
次に彼は大変な勉強家であり、大読書家であった。父、兄を通して彪大な新聞・書籍を日本より取り寄せている。従って日本・世界の情勢を把握していた。…

最後に、彼は渡墨以来メキシコの厳しい政治・風土を見聞、体験し続けて来て居はしたが、抱き続けていた思考を思想に固めた動機は丁酉会社を解散しメキシコ市へ漂泊の旅を続けた折、見聞・体験した時である。その模様・動機については明治32年8月14日付、兄敬三その外の書簡で判読出来る。

ディアス独裁政権下のメキシコ庶民の生活・教育水準・政治・経済・外国資本等を悉(つぶ)さに見聞した彼は今まで学んで来た、思考・思想を統(す)べながら、次の考えに到達したのである。
日本人がこの厳しい異国メキシコの風土の中で生きていく方法、それは「協働・協調・家族主義」の、社会主義的コミューン以外にないと。…

[参考]
(注1)「三奥組合規則及び日墨協働会社定款」
(注2)「三奥組合規則及び日墨協働会社定款」
 本文で言及している組合規則第三、四、五、八に対応する会社定款の条項:
 組合規則第三 → 会社定款 八、九、十九、二十、二十八条等
 組合規則第四 → 会社定款 八条
 組合規則第五 → 会社定款  二十七、二十八、二十九、三十四(二)、五十六、五十七条等
 組合規則第八 → 会社定款 十、二十四条等

(2014.7.18掲)