■ 旧外台村の歴史
私は東十二丁目の実家に帰ると、よく花巻南大橋を渡って南城のスーパーやホームセンターに買い物に行きます。その途中、北上川西岸の広々とした田畑を見下ろす旧奥州街道の道端に、「旧外台村の歴史」と銘打った白い標柱が建っており、それには次のように記されています。
(1) この道路下から北上川までの地域一帯はかつて外台村(とたいむら)と言い、明治22年(1889) 外台村・西十二丁目村・下根子村の三村合併によって根子村が発足するまで一村を形成していた。「村に人家なし」という全国でも珍しい村であった。
(2) 昔、北上川は分流し蛇行して流れていたが、天明2年(1782) 豊沢川河口から獅子ヶ鼻までの変流工事によって現在の流れになったという。(注1) 下の沼は古川と言い、当時の北上川の流れを今に伝えている。
■ 外台村の支配
「村に人家なし」とはどういうことなのか?調べてみるとこんな記録がありました。
高橋嘉太郎著「岩手県下之町村」(大正14年 岩手毎日新聞社)より:
根子村 (大正12年5月現在)
本村は町村制実施の際、西十二丁目、外台、下根子の三村を合して根子村と改む。西十二丁目及び外台の二村は旧藩政時代は二子通に属し、下根子は万丁目通に属したりも、代官所は共に二子万丁目通代官所支配下にてありし。外台は元畑高52石7斗2升5合を有し、無戸の一村にして殆ど全国その類例なしと言われたる村なり。西十二丁目肝煎にて支配せしなり。河東矢澤村の大字に東十二丁目と称するは、昔は西十二丁目と共に単に十二丁目と称せしを、北上川流域の変更により東西と分かれ村名を付したるものなるよし。その中間にあり、外台は何のために設けられたる一村たるや詳ならず。[根子村は]東は北上川を隔て矢澤村東十二丁目に隣り、西は太田村に接し、南は和賀郡飯豊村大字成田に界し、北は豊沢川を隔て花巻川口町に相対す。…
「旧高旧領取調帳」に拠って、外台村の規模を周囲の村と比較してみると、
□ 外台村 130石
□ 西十二丁目村 1,003石
□ 下根子村 1,430石
□ 東十二丁目村 977石
「旧高旧領取調帳」は明治政府が編纂した江戸時代の末期時における全国村名目録で、 明治初年における近世村落の概要を知ることのできる史料です。
■ 外台の地理
左の写真をクリックすると、拡大表示できます。(操作方法はブラウザーに依存)
① 釜石街道(国道号線) 朝日大橋
□ 左:花巻市街へ、右:東和町を経て釜石へ
② 奥州街道(国道4号線)花巻東バイパス 銀河南大橋
□ 左:北上を経て仙台・東京へ、右上:盛岡を経て青森へ
③ (市道) 花巻南大橋
□ 左下:国道4号線へ、右上:東和町へ
④ 宮沢賢治詩碑
⑤ 旧奥州街道 「旧外台村の歴史」白標柱
□ 上:花巻市街へ、下:二子へ
■ 賢治の畑
(菊池忠二著「詩碑附近」(「宮沢賢治研究叢書②賢治地理」 1975 学藝書林)より)
詩碑附近
しばらくベンチに休んでいた私は、少しはだ寒さを感じて立ち上った。…南側の杉林が風にゆすられてざわついてきた。広場の東端に立って、私は眼下にひろがる景観をしばらく眺めた。田圃や畑、北上川、旧矢沢村の部落、北上山地とはるかにつづいている。
桜部落のなかでも「八景」といわれる地域だけあって、この台地から見渡す景色は、雄大な一幅の絵である。…
それから私は、広場の南東の角にある崖道をゆっくり降りた。急傾斜だから草や杉木立の幹にすがりながら降りるのだ。崖の高さは、十二、三メートルもあるだろうか。昔はこの近道がなかったから、賢治が川岸の畑へ行く時は、そのつど伊藤さんの屋敷を西側に迂回して出かけたのだという。
崖道を降りれば、幅3.5メートルほどのまっすぐな農道が川岸まで続いている。この川岸までの低地域一帯は「外台」(とだい)といわれる所で、『岩手県下之町村』にも、
「旧藩制時代は・・・・・・元畑高五十二石七斗二升五合を有し無戸の一村にして殆ど全国其類例なしと言はれたる村なり。」 (同書236頁)
と記されている。
戦後の昭和23年9月、アイオン台風で北上川が氾濫した時には、この外台一帯が大きな湖水のようになったと、いつか伊藤清さんが話していた。宮澤賢治が働いていた当時は、この附近一帯が桑畑であったという。今は見渡す限りの麦畑だ。その間に野菜畑が点綴する。もう麦には青い穂がでかかっている。菜の花も今盛りである。この緑と黄のコントラストは、のどかな田園風景のシンボルだ。農家の主婦が二、三人あちこちの麦畑の間で働いている。…
私は百五、六十メートルほどの道を、ゆっくり川岸までやって来た。急げば二、三分の距離である。この農道は、もと対岸の旧矢沢村からこの桜部落を通り、旧太田村の清水観音に至る重要な道であったそうだ。
日本三大清水の一つである太田清水観音は、地方民の信仰がことにも厚く、農学校時代の宮澤賢治もその祭礼(8月19、20日)には、よく生徒をつれて出かけたといわれている。
この農道から少し南へ寄った所に、当時は渡船場があったのだそうだが今はない。昭和10年頃に耕地整理が行われたため、この附近一帯は当時とはだいぶ地形が変っているとのことだ。だから賢治の耕した畑の範囲は、はっきりわからない。ただ畑の東端に桑の木が一本、目印のように立っている。その附近が賢治の畑であったと、伊藤忠一さんから教えられたのだ。
私は道端の草の上に腰を下した。そこには濃緑色のクローバーがいっぱいに繁茂している。土は手で握ってもサラサラこぼれるほどひどい砂質土壌なのだが、地味が肥えている証拠なのだろう。ここから北上川までは、ほんの十五、六メートルにすぎない。川岸には猫柳が群生している。早春にはメメンコ(方言でベンベロコともいう、猫柳の花)がたくさん出ていたはずだ。黄いろく濁った川水が、ところどころ渦を巻きながらとうとうと流れている。ふと「億千の針」と形容された言葉が浮んでくる。確かにそんな感じの流れである。
ここの畑は、毎年のように水害にあうため、小作人からも返されていたのだそうだが、宮澤賢治は25アールばかり耕したものだという。彼が作付してからも、洪水のために被害を受けたことが、作品「増水」(1926.8.15)の中に、
・・・・・・・・・・・・
川あとの田はもうみんな沼になり
豆のはたけもかくれてしまひ
桑のはたけももう半分はやられてゐる
・・・・・・・・・・・・
水はすでに
この秋のわが糧を奪ひたるか・・・・・・・・・
と出てくる。
ここから見る四方の風景は、さっきの高台から眺めた景観を一層おし広げたような形である。北の方には花巻市街と朝日橋をぬけて、遠く姫神山(1125m)がうすぼんやり望まれる。北東には早池峯山(1917m)が見えるはずだが、今日はあいにく雲に閉ざされたままだ。北西に江釣子森(375m)が青い山肌を見せて光っているが、その遙か北方には、たぶん岩手山(2041m)も晴れた日には見えるはずだ。(注2)
南を望むと北上の流れが、往時の古戦場である獅子ヶ鼻の崖下を洗って、一条の帯のように光っている。
今日は風も強く、一雨やってきそうなうすら肌寒い日なので、賢治の作品「春」の気配を、そのまま感じとることはむずかしいようだ。それでも木々の緑は、なつかしいほど新鮮に息づいているし、私の周りをゆれ動く陽気は、みちのくの春の深みを感じさせるのに充分である。もう初夏の訪れも間近いことだろう。
宮澤賢治がここの畑に栽培したのは、作品その他の記録によれば、次のような種類であったらしい。
燕麦、大豆、ごぼう、白菜、キャベツ、雪菜、赤かぶ、チシャ、アスパラガス、花キャベツ、トマト、チューリップ
これらの穀物、野菜、花卉などが、2反5畝の畑にどの程度の面積で作付されたのか明らかではない。おそらく彼自身の栽培計画にしたがって、輪作や間作が行われたのであろう。伊藤忠一さんの話によれば、すべて金肥を使う清浄栽培みたいなものだったという。しかし反面、元肥としてその頃誰も捨ててかえりみなかった牛糞を、大工町の八木牛乳店からゆずられて使ったともいわれている。そして大正13年頃から岩手県内で使用され始めたという最新式の運搬具リアカーを宮澤賢治は、この時肥料の積み出しや、野菜、花卉の収穫、販売等に用いていたのである。
当時この地方としては、白菜、キャベツ、トマト、アスパラガス等はまことにもの珍らしい野菜であったため、渡船場を行き来する人たちが、時折それを失敬してゆくこともあったのだそうだ。…
宮澤賢治がこの畑で働く時間は、午前中が10時か10時半過ぎまで、午後は3時か4時頃までと、わりにきちんと決っていたとのことだ。ある記録には、夕方おそくまで働いて、母イチさんを心配させたということが伝えられている。だがおそらくそれは、短かい労働時間のために、近隣の農家から金持息子の道楽仕事とみられたことに対する、一時的な抵抗であったか、あるいは稲作指導で、畑の手入れが不足し、仕事がたまったせいなのかもしれない。面積が25アールの畑では、毎日月を仰いで帰るほど、たくさんの仕事があったとは思われないからである。…
[補足]
(注1) 河道の移動についてはこちらをご参照下さい。
(注2) 現在では、姫神山 1124m、早池峰山 1917m、江釣子森山 379m、岩手山 2038mとされています。
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