(石崎直治著・発行「東十二丁目誌」(H2.2.28)より)
…私達の村里は、或時代には島村と呼ばれ、或時は東十二丁目村と云われて来ているが、どのような由来があるのであろうか、伝承や記録をたどって考えて見たい。
島村 明治9年(1876)に編纂された岩手県管轄地誌によると、「陸中国稗貫郡東拾二丁目村、本村ハ古ヨリ本郡二属シ西拾二丁目ト一村ニテ島村ト称ス、天正(1573~1592)ノ頃本称二改メ分テ東西両村トナル」と書かれている。(注1)
島村の由来についての伝承では、北上川が古昔北上山系の麓に沿うて、北から南に流れていたこと、その後川の蛇行が甚しく進み村内を縦横に流れ、小高い所が島のように見え河道が照井沼を流れた頃は長根が中州状であったりしたので、島状を呈したことから島村と云ったのだというのが一般の通念であった。
然し島村の地名についての新たな論考が、司東真雄氏の著「岩手の歴史論集(古代文化)」の中に提示されている。内容の大要は次のようである。
「人名必ずしも地名を称したと断ずるわけにはゆかないが、少なくとも酋長級のものには地名(蝦夷(えみし)の自治区の)をそのまま人名の代名詞として呼ばれていた者があったのではないか」との前提で、具体的な多くの事例があげられているが、その中に次の項がある。
□ 延暦廿四年(805) 三月六日 日本後紀、類聚国史、日本逸史
□ 播磨国夷第二等去返公嶋子賜二姓浦上臣一。
この文献の意は、去返公嶋子が播磨国(はりまのくに)(兵庫県)に移配され、浦上の臣という姓を賜ったということであるが、去返公嶋子について、「去返公はサルガエシのキミと訓ずべきだから、今の東和町と北上市臥牛と花巻市島とを含む地で、恐らくのちに猿ケ石郷となったのであろう。明治まで島村であったところとその東の山の臥牛が島の里で、島子の住所は今の臥牛の寺跡というところではなかったか、猿ケ石川流域が一望のもとに見られるよい地点で、島の里に居ったのであるから、その地名をとって島子を称したものであろう」と説明されている。(注2) …
東十二丁目 管轄地誌によると、天正の頃東西両村と分れたというが東西は、北上川を境にして定められたであろうと考えられるけれども、十二丁目というのはどうしてそのように云われたものであろうか、天正の頃の十二丁目の語に関係すると思われるものをひろいあげて見よう。
①天文24年(1555) 稗貫大和守義時が上洛した時の同行した家来の中に、十二町(丁)目下野守がある(蜷川家記)
②十二丁目故舘、獅子か鼻の淵のうへ北上川の南岸に在、城の東も亦昔河水流れし跡みえて切岸高く峙ち堀築地等荒残れり、伝云此城主、本氏は伊藤氏也と云、永禄年中(1558~1570)の事にや稗貫の従士大迫何某主命に背き反逆をなすにより…十二丁目右馬之助といへるもの返し合せ戦ひ…稗貫旧記に天正の頃(1573~1592) 稗貫家中交者(こうしゃ)に十二丁目佐渡同斉宮と見ゆ是等の父祖にや(和賀稗貫郷村志)
③稗貫一族諸臣の中に、十二丁目佐渡守助茂、十二丁目下総守祐基、十二丁目掃部助祐忠、十二丁目主水正祐隆、十二丁目右衛門祐慶、十二丁目斉宮、がでている(奥南落穂集)
④天正18年(1590) 豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻めるにあたって、奥州の諸候に出陣を命じた。南部氏はこれに応じたが、稗貫氏、和賀氏共に不参であった、このため稗貫、和賀二郡は10月秀吉により領土没収、居城追放の処分を受けた。
⑤天正20年(1592)の「南部大膳大夫分国之内諸城破却書上之事」の中に、
稗貫郡之内 / 十二丁目 平城破 寺前縫殿助持分
以上の5点をあげたが、十二丁目を解明する根拠を見出し得ない。(注3) 天正18年の時点では稗貫氏の滅亡、そして十二丁目城の破却があり、十二丁目氏もまた運命を共にしたことを思うと、支配者がかわった時期に東西両村に分村という事もあり得ることだが、地名と城と氏の三者の前後関係についての結論は今後に委ねざるを得ない。
向十二丁目 東十二丁目になった頃と年代はあまりちがわないと思うが、向十二丁目とも呼ばれたことがある。慶長8年(1603) 北松斉所領8千石知行郷村として、岩手県史に次の表が出ている。
□ (慶長15年の村名、○印は慶長8年分)
北上河東
□ 稗貫〔○小舟渡・○高木・○向十二丁目・○高松・矢沢
□ 和賀〔○上更木・平沢
北上河西
□ 稗貫〔○花巻・○川口、○万丁目、○太田、○湯口、○鍋倉、○十二丁目、円万寺
□ 和賀〔(省略)
右の表によって、東十二丁目が向十二丁目になっていることがわかるが、県史には更に慶長18年9月21日付利直黒印をもって、北九兵衛直継は、稗貫郡向十二丁目村450石を加増されているが、それに添状をそえ、その一節に次の注意すべき文言がある。
「先日、母所まで申候。むかい十二丁目の内三百と申候へ共、後検地に四百五十石に成候。右約束の如く、三百石を遣す可く候へ共、其方事に候間、其まま遣候。」
の記事があり、慶長年間の支配に於ては向十二丁目とされていたようである。
町村合併と市制施行 明治22年(1889) 4月、矢沢・高松・幸田・高木・東十二丁目の5ヶ村をもって矢沢村が作られ、矢沢村東十二丁目と呼称、昭和29年(1954) には、花巻町を中心に市制が施行され、花巻市の誕生となり、花巻市東十二丁目と変更されて現在に至っている。
[補足]
(注1) 島村分村:明治初めに編纂された岩手県管轄地誌に、島村が16世紀の後半に東西十二丁目村に分割された、と書かれているそうですが、これは本当でしょうか。十二丁目村が東西十二丁目村に分割されたというのなら、分かるのですが。
・16世紀以前に島村の領域が西十二丁目の方にまで拡がっていたことを示す史料を、他に知りません。
・北上川西側の河岸段丘の上に拡がる西十二丁目方面を「島」と称するのは、不自然な感じがします。
・十二丁目氏が有力であった16世紀に、そのお膝元である西十二丁目方面を「島」と呼ぶとは考え難いです。
・16世紀後半に「東十二丁目村」に改められたとのことですが、17世紀以降も「島村」という村名が地方(じかた)文書の中で使われています。
(注2) 島(嶋):9世紀初頭の坂上田村麻呂東征時には既に「シマ」という地名があったが、それは必ずしも「島」を意味するものではない(蝦夷(えみし)語の「シマ」の意味は不明、後に「島」の字が当てられた)、ということでしょうか。
(注3) 十二丁目:由来は不明。「十一丁目」や「十三丁目」といった地名は近辺に見当たりません。似ている地名としては「万丁目」があるのみ。十二丁目氏との関係では、伊藤氏が16世紀中頃に十二丁目を本拠地としたので「十二丁目氏」を名乗ったものらしい。
(2014.10.25 掲)
「「東十二丁目」と「島」という地名」への1件のフィードバック
コメントは停止中です。