葛丸川

(金子民雄著「葛丸川幻想 -宮澤賢治・童話の舞台-」(注1)(「宮沢賢治研究叢書②賢治地理」 1975 學藝書林)より)

葛丸川と東北本線
葛丸川と東北本線

東北本線の花巻駅をでると、次に急行列車は盛岡まで停車しないから、花巻駅の次の二枚橋(注2)と石鳥谷という小さなローカル駅など、さっと通りすぎてしまう。まして、この二つの駅の間で跨ぐ小さな川の流れなどに目をとめる人は、まずあるまい。それほど小さく平凡な川、これが葛丸川(注3)である。この川を列車の窓から眺めると、西に続く山々の間から流れ出、北上川に注いでその短い一生を終えるのであるが、もし歩いてでもその源流まで遡ろうとすると、そう簡単なことではない。ともかく、この流れでる山のふもとまで行く一番よい方法は、石鳥谷駅で下車し、早池峰山行とは正反対のコースで、小屋場というこれまた小さな村落まで、20分ほどバス(注4)でゆられて行くしかない。それから山の麓まで1時間はかかろう。これまで広々と開けていた田園から、段々と樹木も増し、霞んでいた山々のシルエットが次第に大きくなってくる。そして、葛丸川の渓谷をへだてたすぐ左手に、黒いこんもりした小高い山が、一層はっきりしてくるが、これが黒森山だ。
黒森山の山麓を環続して流れでる清例な葛丸川を、初めて眺めた5歳の年からもう30年以上の歳月がたったというのに、わたしはこの狭い渓谷沿いに続く山径をかつて宮澤賢治がたどり、野宿し、野外調査をしていった道だったとは、うかつにも知らずにすごしてきた。そこに聳える一つ一つの山の頂きや、川原の小石や、崖や、廃鉱や、樹木にいたるまで、ありし日の賢治が目をこらして眺め、童話のなかでモデルにして描いていったということすら、春、夏、秋と、いくどとなく訪れる機会の多かったわたしにも、なにひとつとして気付いてはいなかった。そのことを知ったのは、戦後もずっとたってからのことにすぎない。初めて活字になった「楢ノ木大学士の野宿」という、童話を読むまで。
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大瀬川の小屋場という、数軒の雑貨店と魚屋と、それにいく軒かの農家がごちゃごちゃ並んだ、鄙びた平屋の前でバスを下りると、右手はすぐ柳田翁の昔話で知られた紫波郡との境となり、左手は、花巻温泉からの乾いた道が坦々とのびている。さらさら流れる疎水と、庚申塚や山神を祀った、石碑のわきの繁った樹木の下をぬける。するとまた、急に明るくなって、山々の稜線がずっと近くに浮かび上ってくるようになる。戦後の数年まで、亭々と巨木が繁り、葛丸川の清流は、農家の井戸水にも利用されていた。わたしも少年時代、夏の暑い時期に泳いだことがあるが、澄みきった冷たい水晶さながらの水の感触を、いまも忘れられない。しかし、川をみればダムを造らずおけないせっかちな日本人は、この清流峡にも見ばえのしない無駄なダムを造り、あげくは濁った水をためるだけで、昔を知るものには深い悲しみをおぼえさせるだけとなった。(注5)

心もちわずかに登りになった径は、以前より道幅が広くなって、自動車も通れるようになった。だからもうこの辺の農家の人たちは、歩くということをすら忘れてしまったようだ。間もなく、右手にそびえるかなり急な、水上山の山脚の下にでる。すると、いくらかこれより低い、左手の黒森山との間の渓谷が深くえぐられ、葛丸川の奔流が、ちらちらと山径の脇に生えた杉や、かえでや、楢の木の間こしに、はるか下方に姿をのぞかせ始める。新緑のころには、それでも明るい鮮緑色に映えて美しいが、夏は薄暗く、欝蒼とした樹木の陰は気持のよいものではない。それでいて、十月も下旬となれば全山は燃えるように紅葉する。賢治がたどっていった季節はいつだったのか。おそらく調査ともなれば、最も殺風景な三月下旬から四月にかけてではあるまいか。夏は密生した樹木にさえぎられて歩けないし、秋は熊が多くてこれまた困難だからだ。雪融け水のあふれない早春が、調査には一番適している。

「楢ノ木大学士は宝石学の専門家だ」と、賢治はこの童話の書き出し部分を始めているが、こんな雰囲気を感じさせてくれるのも、ようやくこのあたりからである。…

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時期がずれて7月になってしまった。今度は、念を入れてこの童話のコピーを持っていくことにする。山間(あい)とはいえ、もう早春のあの気持よい感触はない。汗びっしょりになって、てくてく歩いたものの、やはり、目ぼしをつけておいた第一宿泊地は無理ということで通りこした。もっと上流らしい。見たところ、賢治が幻影をみた、童話の重要な役割を果すはずの四つの岩頸(岩山)らしきものがないのだ。やはり、童話は童話で、賢治の空想だったのかなと、ちょっと不安になりながら、さらに川について遡ることにする。

間もなく、畑(はた)部落の跡に着いた。葛丸川の左岸の台地に、まだ数年前まで、それでも十数戸の家屋と分教場のあったところだ。しかし、いまは壊れた一軒の公会堂の建物だけがぽつんと立つだけで、一層うらびれて寂しい。賢治の時代、道らしい道はおそらくここまでで、これより先に行くには好地石の産地として、採鉱されていた鉱区までの廃道ぐらいしかなかったであろう。第二宿泊地がどうもそこらしいから、とすると、第一宿泊地はやはりこれまでの途中でなくては辻棲が合いそうでない。また疑問がわく。彼の童話は、まるっきりの作り話だったのだろうか。しかし、直感と読後感とではとてもそうは思えない。径わきの樹林が少し切れて暑いので、いまは放置され、使われなくなった葛丸川に架る木橋の上で、三時間ほど横になった。大きな栗の木が枝をたらし、橋の下1メートルあたりをずっと水量の少なくなった葛丸川が、勢いよく流れている。谷と径とがそう差がなくなっている。前日の豪雨で、橋桁の板は洗われて綺麗だし、これからどうしようかなとぼんやり考えながら、陽の傾むくのを待ち、賢治の童話のコピーを所々ひろい読みしながらまどろむのも、結構、悪い気持ではなかった。あの四つの火山の岩頸というやつは、一体どこにあったのだろう。賢治のやつ、どこを眺めていたのだろうか。それには、大学士の寝言と、いま一度あの童話のストーリイとをたどってみた方がよいかもしれない。(注6) …

葛丸川全図
葛丸川全図(画像をクリックして拡大表示できます)

[補足(蛇足?)]
(注1) 「葛丸川幻想」:初出 「アルプ 197号」(昭和49年7月)
(注2) 二枚橋駅:現在は「花巻空港駅」
(注3) 葛丸川:賢治の作品に疎い私は、最近まで葛丸川のことを知りませんでした。この夏、東十二丁目で一人暮らしをしていた92才の母が、独居が難しくなり、石鳥谷の老人向け住宅に転居するとになりました。その準備で東十二丁目と石鳥谷を何度も往復しているうちに、国道4号線に立っている「葛丸川」の標識が気になり、調べてみて、見つけたのがこの作品。そして著者が金子民雄!
金子民雄:10年ほど前、中央アジアにはまっていた頃に、金子民雄の「宮沢賢治と西域幻想」などを読んでいました。
金子民雄の母は、石鳥谷町大瀬川の出身だそうです。詳しくはこちらの2ページ目、右側をご覧下さい。
(注4) バス:この路線は現在運行されていません。
(注5) 葛丸川渓谷:金子民雄は嘆いていたが、今や観光地のようです。
   葛丸川渓流・たろし滝
   葛丸川源流
(注6) 「楢ノ木大学士の野宿」は「大学士は葉巻を横にくはへ / 雲母紙(うんもし)を張った天井を / 斜めに見ながらにやっと笑ふ。」で終っていますが、この笑い一体い何なのか?
この物語(詩?)の全文は青空文庫で読むことができます。

(2014.10.3掲/10.4改)