東十二丁目には二本の堰(農業用水路)が北から南に貫流していています。一本は東十二丁目の東側、北上山地の麓を流れ、大堰と呼ばれています。もう一本は長根と小袋、荒屋敷の間を流れているのですが、名前は今のところ判然としません。ここでは仮に西堰と呼ぶことにします。
この堰は猿ヶ石川から取水し、途中大きく山地を迂回し、高木で二本に分かれます。大堰は、かつては更木へと南下してから北上川に流れ出ていましたが、現在では二津屋で南西に向きを変え、神明社の西方、更木との境付近で北上川に出ています。一方、西堰は穂貫田の西でこちらも北上川に出ています。
この二本の堰は旧北上川の河道跡を流れているようですが、その成り立ち、変遷、そして現況などについて見ていこうと思います。
「堰」考
私が子供の頃は、これらの水路を「セキ」と呼んでいました(今でも地元ではそう呼んでいると思います)が、堰=用水路と解するのはそれ程一般的ではないようです。本題に入る前に「堰」という用語について吟味してみます。
国語辞典を見ても、「堰」の意味として「湖沼・河川・水路などの水位をせきあげるための水利施設」(「日本語大辞典」 1989 講談社)などとあるだけで、水路自体を「堰」と呼ぶ用例は示されていません。
しかし国交省が選定した疏水百選を見ると、北は青森県の土淵堰から南は宮崎県の杉安堰まで21ヶ所に「堰」の字が付いています。
「現代日本語方言大辞典」(H5.1.30 明治書院)を見ると、方言とは言いながら全国各地で、「堰(セキ、セギ、シェギ)」を「取水のためせき止めているもの」という意味だけでなく、「そこから流れていく水路」、更には「農業用水路」との意味で使われていることが分ります
大堰 –母の記憶-
子供の頃(昭和の始め)、大堰は子供たちの遊び場でした。
歓喜寺の北、200m程のところで大堰に橋が架かっています。その橋の北側は川幅が他の倍ほどに広くなっており、「馬の冷やし場」と呼ばれていました。農作業を終えた馬を洗ったり、夏場には馬の体を冷やす場所だったのす。そしてここは子供たちの水浴び(水遊び)場でもありました。
水浴びに興じて、唇がブンド(ブドウ)色になるほど体が冷えると、西に傾斜している土手に寝そべって日向ぼっこをし、体を温めたものでした。
馬の冷やし場の水底には石が敷き詰められていて、澄んだ水越しにそれが良く見えたことを憶えています。
現在の堰の両岸は直立したコンクリート版で覆われていますが、当時は下の方だけが石垣で、その上は土手でした。そして石垣の隙間から時々蝮(マムシ)が顔を出したものです。
また上流から流れてくる草の塊の中にも蛇がいることがよくあるので、草が流れてくると用心したものです。
橋を渡って東に山を少し登ると、今でも馬頭観音のお堂があります。押切総本家である藤左衛門家の氏神様(?)で、元朝参りや祭のお参りで行ったことが思い出されます。
西堰 –私の記憶-
私も子供の頃(昭和20年代)、夏になると荒屋敷と長根の間の堰に水浴びに行きました。水に入って泳ぐというのか歩くというのか…はしゃいでいたのでしょう。川底から水面まで届く程の細長い葉の水草がびっしり生えていて、歩くと足に絡みつき思うように進まなかったことなどを思い出します。
大雨で橋の下端まで増水した時に、橋の上流側から飛込み、下流側まで潜って行き、自慢げなワンパク坊主もいました。今見れば大した幅の橋ではないのですが…
この附近の田んぼにはツブ(田螺(たにし))が多くいたようで、ツブ採りが部落児童会(子供会)の年中行事でした。採ったツブを部落の家々に売り、そのお金で食事会のようなことをやっていたように思います。
(2015.1.31掲 / 3.21改)
大堰の流路について訂正しました。