更木の水利-明治以降-

(「更木島東部土地改良区の歩み」(2008.7 同土地改良区)(注1)より)

   旧田地区(注2)
江戸時代中頃の当地区のかんがい用水は更木村金栗の平野仁兵衛氏が区民の協力を得て私財を投じ着工から3ヶ年の歳月をかけて元禄14年(1701)に完成した仁兵衛堰によっていた。
仁兵衛堰は猿ヶ石蓑淵(みのふち)から取水し、猿ヶ石川の左岸を高木村妻上まで北流させ、そこから南流し東十二丁目村を通って更木村久田で北上川に放流するまでの延長4,654間(8,461m)の水路で179町…(178ha)(うち東十二丁目村63町…(63ha)、更木村84町…(84ha))の水田を潤していた。

明治14年(1881)には3ヵ村が分担をして大改修をおこなったが、水路の延長が長いことから修繕費の負担が増加するとともに、更木村は用水路の最末端で漏水などもあり毎年用水が不足し上流からの順番を待たなければ田植えが出来なかったり、用水路の水引人夫に平年で約5千人を要し、干ばつの年には水争いが絶えない状況であった。
そのため新たに猿ヶ石川の臥牛(ふしうし)から大竹に直通の穴堰を掘ることとして明治33年7月に穴堰設立委員会(委員長斉藤久治)を立上げ計画検討に入った。
明治37年に更木村議会において更木村水田灌概用穴堰起工測量に関する決議を行い、同38年11月に農商務大臣から更木耕地整理地区(発起人平野千代治外1名)の認可を得たが、創業総会において工事費負担が多額であるとの理由により事業実施のための正規の賛成数を得られず同45年に起工延期申請を提出している。

大正7年になると猿ヶ石川電機工業株式会社の設立申請が出され、同社の取水位置(猿ヶ石川臥牛地点〉が当方と同じであることから、水路工事を同社が施工し本耕地整理地区に要するかんがい水量は無償で供給し、耕地整理事業費の補助残の半額も同社が負担するとの契約がなされたことから、同年再度耕地整理施行の認可申請を行い、岩手県知事から認可を得ている。
その後、発電所建設会社が黒澤尻電力株式会社となったが前記会社との契約は継続することとなった。

大正12年12月に新田地区の更木島耕地整理組合と併せて本地区も設計変更認可申請を行っている。しかしながら発電所の竣工を待たなければ用水確保が出来ないことから工事着工までにさらに10年の歳月を待たなければならなかった。
猿ヶ石発電所は昭和3年11月に起工し同5年2月に完成したことから、昭和4年に着工した新田地区に続いて昭和7年10月にやっと耕地整理に着手することができた。用水は発電所水槽から毎秒16立方尺(445ℓ)(新田分は27立方尺(751ℓ)〉が分水され、それまでの仁兵衛堰からの用水と振替えられた。昭和10年10月には更木耕地整理地区から更木耕地整理組合(組合長千田甚太郎)に変更となり昭和16年に事業を完了し、総事業費99,357円で田93町…(93ha)、畑2町…(2ha)の整備が行われた。事業費負担として契約に基づき5千円が東北電燈株式会社から寄付されている。

この間、実に明治33年の穴堰の計画から40年余りの歳月を要して本地区はやっと安定的に水が確保され1反歩(10アール)に整然と区画された水田となったのである。

日本経済が第二次世界大戦後の高度成長期に入り農作業の機械化が進展するにつれて区画や道路が狭く、排水路が機能せず湿田が多く農作業に支障が生じるようになってきたことから、昭和55年の土地改良区臨時総会において圃場整備事業実施の決議がなされた。翌昭和56年に事業着手の予定であったが事業採択基準を満たす同意を得ることができず、理事の総辞職、理事長の辞任、反対期成同盟会による訴訟など様々な問題があったが、訴訟は懸命の説得により取り下げられ昭和58年度に事業着手することができた。

工事は団体営土地改良総合整備事業(土地改良区が事業主体となって行う区画整理)、県営水田農業確立排水対策特別事業(岩手県が事業主体となって行う上堰水路の更新)、ため池整備事業(土地改良区が事業主体となって行う発電所水槽と土地改良区水槽間の導水路改良)、に分けて実施され、20アール区画のパイプラインかんがい方式による圃場が完成し平成2年9月には盛大に完工式が行われ全ての事業が平成3年度に完了した。この間、工事によって移転される平野仁兵衛翁頒徳碑の鎮魂祭が63年5月に行われている。また、これらの事業と同時に地区内を通過する主要地方道花巻・北上線の改良も行われている。…

現在は事業完了から20年余りを経過し暗渠排水の機能低下などから排水不良田が増加し耕起や収穫時に大型機械での作業に支障が生じており新たな排水対策が必要となっている.

   新田地区(注3)
本地区は北上川の傍にありながら水がないため畑地として利用されており、大部分が桑畑で養蚕が盛んに行われていた。大正7年に猿ヶ石川電機工業株式会社発電所の建設計画があり、同社との間に取水口から発電所水槽までの用水路(隧道)工事を同社が施行しかんがい用水は発電所水槽より分水し無償で供給するとの契約がされたことから用水確保の見通しができた。大正12年に至り新たに開田を主体とした新田地域の耕地整理事業を行うための更木島耕地整理組合(組合長千田甚太郎、組合員348名)の設立を大正12年12月に岩手県知事から認可された。(同時に大正7年認可された更木耕地整理地区(旧田地域)の設計変更も認可されている。)

事業は発電所建設の完成を待たなければならなかったが、昭和3年11月に起工した猿ヶ石発電所の完成(昭和5年春完成予定)が見込まれることとなったことから昭和4年10月に念願の耕地整理工事に着手することができた。発電所水槽から毎秒43立方尺(1,196ℓ)(うち16立方尺(445ℓ)は旧田分)の用水を分水し、総事業費252,437円を投じて幹線水路(通称コンクリ堰)整備や105町(104ha)の開田と2町7反(2.7ha)の畑整備を行い工事は昭和9年四月に完成した。その後換地処分や、登記処分が行われ全てが完了したのは昭和16年6月であった。この事業で更木島地域の水田が約二倍になり現在のような水田地帯になったのである。昭和19年3月に更木島耕地整理組合は更木島普通水利組合に変更されている。

幹線水路であるコンクリ堰はプールがない時代は子供達の水遊びができるレクリーション施設でもあったが、年々老朽化による劣化が目立つようになり、旧田地域の再整備が終わった平成4年に現況調査を行い更新事業の必要性について議論されるようになった。用水路更新単独の事業では地元負担が大きいので区画整理と併せて県営事業で行うべきとの方向が示され平成9年度には県営事業推進のための調査事業を行った。船渡地区の堤外地(堤防の川側)は河川区域であり事業を行うためには農業振興地域に編入しなければならないことから、この手続きに数年を要した。平成12年には殆どの地権者の事業同意を得て事業採択を待っていたが、水利権が発電用水であったことからその調整にさらに数年を要することとなり事業に着手が出来たのは平成15年度であった。

この事業は岩手県営事業として…行われ、幹線水路(通称コンクリ堰)の埋設管路化、89ヘクタールの圃場の大区画化(標準1ヘクタール区画)、2か所の生態系保全公園の整備などを行い、事業完成後は営農組合(担い手)に農地を集めて営農を行うこととして、平成23年度の完成を目指して現在工事が進行中である。
また、この事業と並行して北上川に新たに架橋する主要地方道北上・東和線の改良事業が実施されており、その道路用地は本事業の換地によって創設し事業費の負担軽減を図ることとしている。

平成19年度には一部地域で営農が可能となり初めての大区画圃場での稲作りが行われ、除礫などの苦労はあったが耕作農家は一様に働き易さを実感していた。

更木の農業用水路

[補足]
(1) 更木島東部土地改良区:平成20年8月に北上市内の他の4改良区と合併し、岩手中部土地改良区になりました。更木島東部土地改良区の最後の理事長は、奇しくも平野仁兵衛の子孫、平野牧郎氏。氏は北上市議会議長等の要職を歴任され、平成21年に旭日小授章を受章されました。
(2) 旧田地区:更木の内、北上山地の西麓と北上川の間に拡がる平野の東、山麓側。
(3) 新田地区:平野の西側、北上川沿い。

(2015.4.4掲)