インターネットな老年

(本稿は「季刊タウンやさわ」(矢沢観光開発協議会 H27年6月発行)に掲載するため、H26年8月に準備したものです。)

■ 人そして川
今年、8年ぶりにウエブ・サイトというのかブログ・サイトというのか、インターネットで新しいサイトを始めました(https://hitakami.takoffc.info)。

「人そして川」の一画面
「人そして川」の一画面

このサイトのタイトルを「人そして川」、サブタイトルを「人はどこから来たり、どこへ行くのか?」としましたが、これは8年前に始めて4年間ほど更新を続けたサイト「テュルク&モンゴル」(サブタイトル「民族はどこから起こり、どこへ行くのか…」(http://ethnos.takoffc.info/)の捩(もじ)りです。
テーマは東十二丁目を中心にした人と川、手始めに照井亮次郎、藤原金次郎と北上川中流域の河道変遷を取上げています。

北上川西岸から眺めた東十二丁目方面
北上川西岸から眺めた東十二丁目方面

最初の記事にこんなことを書きました。
「サイト開設に当って
このサイトのタイトルを「人そして川」、サブタイトルを「人はどこから来たり、どこへ行くのか?」としました。
ここで念頭にある「人」はまず故郷の偉人・異人たち、そして「川」は北上川です。
私の故郷は岩手県花巻市東十二丁目、通称「島」といいます。私は樺太で生れたのですが、終戦前に両親の出身地である東十二丁目に引揚げてきて、3歳から高校卒業までをそこで過ごしました。
東十二丁目の偉人とは、例えば
照井亮次郎  榎本武揚に共鳴し、メキシコ移民の先駆者となった人
藤原金次郎  大棟梁で、明治末期に「規矩的当図解」を著した人
北上川は、東十二丁目の西側を流れているのですが、この近辺(北上川中流域)の河道の変遷とその影響に興味を持っています。
上の写真は、北上川西岸から眺めた東十二丁目方面、向こうの山並みは岩手県東部に拡がる北上山地の西麓です。…」

照井亮次郎(明治7(1874)~昭和5(1930))
亮次郎の記事はこんな書き出しで始めました。
「ここ半年ばかり照井亮次郎についてあれこれ調べています。
ことの発端は盛岡に住む旧友S君からのメールでした。
「こんにちは! 照井亮次郎の生家 北上川の東岸、花巻市長根とあるけど、どの辺かな? 昭和59年3月16日母屋一棟消失したようです。」
そして私の返事
「長根の高島道路ぞいに金比羅神社があり、その南側の空き地が焼けた家のあったところです。そこにはかつて秀(しゅう)さんという女性が一人で住んでいましたが、火事のあと失意の中で亡くなったようです。
私の記憶に残っているのは、彼女の家には猿がいて、ちょっと変った家だったということ。子供の頃猿を見るためだったのか、時々遊びに行ってました。…」

亮次郎については、「矢沢振興センターだより」(H21.3.31発行 No.24)で、「[ご存知ですか?] メキシコ移民の先駆者・照井亮次郎(東十二丁目出身)」と題して紹介されたりもしていますので、ご存知の方も多いと思います。
亮次郎に関する文献としては、このセンターだよりで紹介されている上野 久著「メキシコ榎本殖民 - 榎本武揚の理想と現実」(中公新書 1180、1994.4.25)と、この書を漫画化した上野 久・木ノ花さくや編著「サムライたちのメキシコ - 漫画 メキシコ榎本殖民史」(2008.4 京都国際マンガミュージアム)があります。そして亮次郎にフォーカスした川路賢一郎著「シエラマドレの熱風(かぜ) -日・墨の虹を架けた照井亮次郎の生涯-」(2003.3.24 パコスジャパン)が出版されました。

「シエラマドレの熱風」 カバー
「シエラマドレの熱風」 カバー

花巻では、及川 昭氏が「花巻史談」第29号(H16.3.31)に「榎本武揚と照井亮次郎 -メキシコにロマンを求めた男-」を、同第31号(H18.3.31)に「照井亮次郎の日墨協働会社におけるコミューン的経営とその思想の形成」を発表しています。

亮次郎の思想と行動の詳細は前述のサイトや著作を見て頂くとして、亮次郎の一生を総括したとき、それは一体何だったのか。石崎直治先生の「東十二丁目誌」(H2.2.28)には、「巨万の財産を有した」とか「成功した人である」と紹介されていますが、私には「悲惨な一生」であったようにも思えてなりません。
― 榎本武揚に対する失望、丁酉会社の挫折、メキシコ各地を放浪、日墨協働会社設立後のメキシコ革命の波及、地元民との軋轢、妻や次女との死別、日墨協働会社の解散、小田島柳子との離別、自分自身の病気、そして孤独な死! ――

さて、今日亮次郎についてかなり詳しく知ることができるのは、川路・上野両氏のような研究者の努力によるものですが、その研究を可能にしたのは亮次郎が父や兄に出した多くの書簡が残っていたためであり、書簡の作者である亮次郎自身とそれの保存に尽力された兄・敬三のお陰です。
翻って、スマホとインターネットの時代である現代はどうでしょう。情報の流通は格段に便利になりましたが、情報はどのように保存され蓄積されていくのでしょうか。例えば我々が日常生活で遣り取りした情報がどの程度100年後に残っていることか。かつては紙に墨やインクで書かれ土蔵に残されたような情報が、これからはどうなるのでしょうか。

しかし、インターネットには危ういところも多いのですが、特に心身共に衰えた高齢者には便利な道具で、衰えた記憶を補い、狭くなった行動範囲を広げてくれます。
亮次郎のメキシコ上陸地点・サンベニートの海岸に佇み、また亮次郎終焉の地・ロドリゲス・クララの街中を彷徨(さまよ)ったり…

サンベニートの海岸
サンベニートの海岸
ロドリゲス・クララの街中
ロドリゲス・クララの街中

藤原金次郎(天保7(1836)~大正8(1919))
私は去年まで金次郎を全く知りませんでした。去年の晩秋、小学校の同級生で今は自宅で療養中のO君を訪ねました。そして亮次郎のことなどあれこれ話をしていると、郷土の大棟梁・藤原金次郎のことが出てきたのです。病気のせいもあって、記憶があいまいなところもあるのですが、「この家やお前の家の実家、同級生のTの家は金次郎が建てたもの。岩手だけでなく、千葉でも活躍し、弟子が大勢いた。博士になったという。」

そこで早速石崎先生の「東十二丁目誌」を見るとやはりありました。

藤原金次郎
藤原金次郎
規矩的当図解
規矩的当図解
規矩的当図解奥付
規矩的当図解奥付

「天保7(1836)年3月10日東十二丁目村に生れ、大正8(1919)年11月10日84才の高令をもって病没。氏の著作を出版順に掲げると次の通りである。
・明治新撰規矩的当図解   全1冊  明治36年7月5日発行
…(中略)…
・文明開化星繰合掛割早算   1組  明治42年11月17日発行届出
規矩的当図解は現代の数学家が見ても非常に勝れたもので、当時これだけのものを書き上げたことを絶讃しているし、星繰合掛割早算は今の計算尺と同じものらしい。
なお氏の経歴伝は歓喜寺にあり次のようである。…」
そして、驚いたことに「明治新撰規矩的当図解」がネットで自由に閲覧できるのです(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936637)。
一方、歓喜寺にあるという「経歴伝」について住職にお聞きしましたが、判然としませんでした。なお、歓喜寺の本堂には金次郎の写真が掲げられています。

金次郎の作という民家3軒はいずれも茅葺き屋根が鋼板葺きなどに変り、外装もアルミサッシになったりして、昔の面影がありません。
金次郎の作がもう一軒、山の方にある薬師堂がそうだというのですが、場所がはっきりせずまだ実地検分していません。
これ以外の資料は今のところ知りませんが、金次郎の子孫や金次郎に連なる棟梁がおられるとのことですので、調べれば何か出てくるかもしれません。
「明治新撰規矩的当図解」を解読してみたいと思ったりもするのですが、この老化した頭では?!

北上川
東十二丁目の2大農業用水路、歓喜寺の前を流れるそれと小袋部落の北側崖下を流れるそれは、北上川の河道跡らしいのです。
これも石崎先生の「東十二丁目誌」で知ったのですが、それによれば前者を原始期の、後者を古代の河道跡としています。

北上川河道(原始期)
北上川河道(原始期)
北上川河道(古代)
北上川河道(古代)

また花巻城下の河道変遷にも、高木の分断など興味深いものがあります。東十二丁目の河道変遷は主に自然現象によるものと思いますが、花巻城下の河道変遷は人の力による河道付替えです。

「東十二丁目誌」は河道の変遷について東北地方建設局岩手工事事務所編「北上川」(全9輯 S48.3~S56.3、H3.3)を引用しているのですが、これもネットで自由に閲覧できます。(http://www.thr.mlit.go.jp/iwate/iport/kitakami/asobu_manabu/kitakamigawa/index.htm)。
建設省(現・国交省)の一出先機関に過ぎない岩手工事事務所(現・岩手河川国道事務所)が、このような大部の、それも河川工事に限らず歴史、文化にまで及ぶ著作を完成させたことに驚きました。これには建設事務官・佐嶋與四右衛門氏の貢献が大きかったようです。第8輯の序に「初輯から一貫してご活躍頂いた佐嶋與四右衛門氏…」とあり、第9輯の編集後記に「原稿の大部分を執筆された元建設事務官佐嶋氏の努力に敬意を表する」とあります。官庁の出版物で、組織内の一職員にこのような敬意を示すのは異例なのではないでしょうか。

歓喜寺の裏山に登り、和賀岳など奥羽連山を背景に東十二丁目一帯を眺め、猿ヶ石川と豊沢川を合わせた大河・北上川の氾濫原にある中州、まさに「島」であった太古の様を想い描いてみるのも一興です。

タリム旅行案内
私がインターネットにサイト、いわゆるホームページを初めて開いたのは1999年11月、15年も前のことです(http://ethnos.takoffc.info/tarim/)。

「タリム旅行案内」トップページ
「タリム旅行案内」トップページ

その時、こんなことを書きました。
ホームページ開設のいきさつ
このホームページの主役はカシュガル人、エリキン・アブリミットさんです。
彼のフルネームはErkin.Ablimit.Ezizi (エリキン・アブリミット・エズィズィ)といい、 カシュガル人(Kashgari)なので[Erkin Kashgari] (エリキン・カシュガリ)をペンネームにしています。エリキンは「自由」という意味だそうです。 …
エリキンさんと初めて会ったのは1997年の8月でした。パックツアーで中国新疆ウイグル自治区のカシュガルからクンジュラブ峠を越えてパキスタンのフンザに抜けたのですが、彼が中国側のガイドでした。 途中タシュクルガンのホテルに泊まった時、夕食の後私の部屋でいろいろな話を聞くことができました。夕食の残り物を肴に新疆焼酎を飲みながら、ウイグルの歴史、詩のことなど...
帰ってきてから何度か手紙のやりとりがあったのですが、去年の12月にEメールが飛び込んできました。初めはローマ字でしたが、程なく普通の日本語が使えるようになり...
そして「カシュガルに来ないか」と誘われ、この10月に今度は一人で10日間ばかりカシュガルに行ってきました。そして彼がインターネットにはまっているのを知りました。カシュガル滞在中もいろいろ話を聞けましたが、帰ってきてからも「ウルムチ」、「天山」、「崑崙」などについて長文のEメールをもらいました。まだまだ書きたいことはたくさんある様子。
そこで彼に「ホームページを作らないか」と誘ったら、二つ返事でOK。
...というような次第です。
いつまで続けられるかは彼のEメール次第です。これからカシュガルは旅行のオフシーズン。エリキンさんも暇になるはずですので、Eメールの山にうれしい悲鳴をあげる事になるかもしれません。

香妃墓とウイグル族の墓(カシュガル)
香妃墓とウイグル族の墓(カシュガル)
モスクの木柱(カシュガル)
モスクの木柱(カシュガル)
馬車タクシー(カシュガル郊外)
馬車タクシー(カシュガル郊外)
ざくろ(カシュガルの果物バザール)
ざくろ(カシュガルの果物バザール)
結婚披露宴で踊る娘(ヤルカンド郊外の砂漠郷)
結婚披露宴で踊る娘(ヤルカンド郊外の砂漠郷)

そして中国風に言えば新疆ウイグル自治区、彼らの言う東トルキスタンを中心に観光、歴史、民族について楽しく取上げていたのですが、2003年時点で彼のこんな挨拶を載せることになりました。ある日本人に対する恨みがましい愚痴が入っています。

ご挨拶  Essalamu Eleykum!
友人の皆様:
いつも大変お世話になっております。
私はエリキンと申します。東トルキスタンのカシュガル生まれで、ウイグル族。 1986年7月新疆師範大学化学部を卒業。 1986年8月~1991年4月までカシュガル成人学院で化学の先生を勤めていました。1987年日本語を勉強し、1991年4月カシュガル中国国際旅行社に転勤し、2002年7月まで日本語ガイド、外連部の部長などをしておりました。
1999年からウイグル民族史及び東トルキスタン史、文化、現状などを日本人の皆さんに伝えてきました。
中国共産党政権は東トルキスタンを侵略し、ウイグル民族に酷い民族圧迫及び弾圧しながら、世界にそれを隠しています。私は日本人観光ツアーのガイドをしながら、中国の侵略や東トルキスタンで行っている民族圧迫、弾圧などを含めた東トルキスタンの現状を伝えてきましたが、それが日本人の方により後でばれてしまい、2002年7月中国を逃げざるを得なかった。カシュガルからキルギズスタンに逃げ、キルギズスタンでトルコのビザを取ってイスタンブールに来て、難民生活をしております。
東トルキスタン、中央アジア、トルコへ旅行したい方、東トルキスタン問題、東トルキスタン独立運動などに興味のある方は遠慮なくご連絡ください。ご案内させて頂きます。どうぞよろしくお願いいたします。
皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り致します!

そして私のコメント:-
2003年春 – エリキンさんの近況
エリキンさんの「ご挨拶」にもあるように彼が出国せざるを得なくなってから、半年以上が経ってしまいました。 彼は今もトルコに滞在中です。そして今後とるべき行動についてあれこれ作戦を立てている最中のようです。
そんな訳でこのサイトの更新もままならず、またサイトの性格付けもはっきりしないままになっています。今しばらくお待ち下さい。
シルクロード探訪だけでなく西域の現状にも関心をお持ちの方は、トップページにリンクのある「ウイグル人の現状」をご覧下さい。主義主張によるバイアスはかかっていると思いますが、日本の報道だけでは見えてこない別の現実がそこにはあります。
エリキンさんが出国せざるを得なくなった事件に日本人が直接関係していたと知って、残念でなりません。
彼の平安と活躍を祈るばかりです。

黒海を望むボスポラス海峡北端でエリキン氏と筆者(2005年)
黒海を望むボスポラス海峡北端でエリキン氏と筆者(2005年)

2006年に至ってサイトの更新終了を宣言しました。その後もイスタンブールに彼を訪ねたり、「東トルキスタン支援ネット」と称して日本での寄付集めを手伝ったりと、彼との交流は続いたのですが、ここ数年はメールの遣り取りも少なくなっていました。

ところが今年の8月に何とこんなメールが来たのです。
「今クアラルンプールに来ている。中国を脱出したウイグル人7人(母親と小さい子供3人、若者3人)がクアラルンプールから成田経由でイスタンブールに向かう途中、成田で偽造旅券の疑いで足止めされ、千葉の借家で仮住まいをしている。トルコ外務省の入国許可を待っているが、少し時間が掛かりそうなので、彼らとの連絡を密にするために携帯電話を手配して欲しい。」

(2015.6.12掲)

「インターネットな老年」への1件のフィードバック

  1. 昨年中に発行予定の「季刊タウンやさわ」がようやく6月末に発行されました。「季刊」と銘打っていますが、前号の発行が昨年4月ですから、近年は年1回の発行のようです。

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