(矢沢村誌編纂委員会編「矢沢村誌」(S29.3.31 稗貫郡矢沢村発行)より)
高木野福開田の歴史については、往時楢山氏の計画であったが、農民の反抗にあい中止したこと前述の如くである。(注1)
後明治40年10月佐藤松五郎、佐藤善、柳田大三、佐藤伝治、佐藤鶴蔵、滝田金太郎等相謀り、高木野福畑地を耕地整理施行法により之を遂行せんとして、岩手県農会に出願したが、直ちに八重樫技手、長岡技手を派遣され、その測量設計したけれども、未だ其機至らなかったか、数十人の者共夜に乗じて発起人の家に押寄せ、反抗され又中止せねばならなかつた。
大正元年秋に至り再び企図することゝなり、発起人として佐藤松五郎(当時28才)、佐藤善、島六三郎、富沢勝蔵、鎌田清次郎、櫛引孝一、佐藤孝清、高橋信、多田安邦、鎌田重助、花巻佐藤礼助、梅津善次郎、三田新八、石川卯八、新渡戸米八、山田耕哉、金子嘉助、八重樫茂吉、滝田金太郎の19名を以てその運動に着手し多数地主の同意を得たのである。
大正2年4月愈々県知事に技術員の派遣を申請して、県技手水越太十郎氏、同工藤祐春氏派遣され、専ら実地測量と設計に従事された。そして県監督官耕地整理課長農学士技師江越信胤氏及び枝手半沢稲頴氏が監督指導に当られた。この総予算額金4万5干円で、内2万円は日本勧業銀行から起債した。内訳金2万4千円は水路掘鑿(くっさく)費で、金2万1千円は開田整理費及び事務費である。
用水取入口は更木村臥牛地内猿ヶ石川苗代淵で、水路の総延長2,950間(5,370m)となり、其の内訳明渠は2,451間、隧道4ヶ所230間、掛樋6ヶ所39間、伏越暗渠2ヶ所140間である。(注2)
同年12月20日認可指令あって、矢沢村高木耕地整理組合が設立した。同月23日矢沢尋常高等小学校に於て総会開会、組合員274人中出席者214人あり、満場一致を以て組合長に佐藤松五郎が選任された。
大正3年4月25日監督県技手水越太十郎氏、同工藤祐春氏の実地指導の下に用水路堀鑿工事に着手し、同日午後起工式を挙行した。
組合側の工事主任は富沢勝蔵、監督は佐藤礼助、組合技師は阿部兵太郎、宮沢猪太郎が嘱託された。
大正4年5月10日用水路が竣成した。実施工事費金19,200余円であつた。同5月15日通水式が挙行された。主なる来賓大津県知事、柿沼内務部長、梅谷警察部長、陣警部、藤田勧業課長、江越耕整課長、半沢耕整主任、桂見花巻税務署長、葛稗貫郡長、上席郡書記、花巻裁判所登記部主任、笹井花巻警察署長、菊池花巻町長、花巻町会議員佐藤金太郎、小原矢沢村長、矢沢村会議員、鳥谷ヶ崎神社々司阿部有孚、同社掌稲田生実、県会議員佐藤孝清、矢沢村助役高橋信、其の他組合員全部参列し盛会であった。
大津麟平知事の告諭
諸君、矢沢村高木耕地整理組合は、本日を以て高木用水通水式を挙げることになりまして、不肖も亦招かれてこの盛典に列することを得たるは、実に喜びに堪えません。顧(おも)うに他の類の少ない大工事を竣成したのであります。されば他日に於てその利益を受くることの、如何に大なるべきは今に予想されるのであります。これが大工事は全く困難であったでありましよう。然しながら組合長及び組合員諸君が、一致努力万難を排して共同の利益を計るに勤めたことと信ずるのであります。
それが非常に喜ばしく不肖が思うのであります。承わると当用水路計画は、南部藩楢山佐渡という方によりてなされたことがあったけれども、当時の人民が反対した為に、其の意を得なかったと云うことですが、今回この成功を収めたことの、歴史的に非常に趣味あるものと思うのです。実際をいえば、曾(かつ)て人智未開の時苦心せる楢山氏の遺志を継続したのである。人として古人が苦心して計画しおきたる事業を完成するのは、誠に美事と云わねばならないと思います。当組合はこの精神を現わして、この工事の竣成を見たのです。将来に於て我々は、諸君と共に楢山佐渡の恩恵を忘れずに、共同力の下に地方の利益を計らねばなりません。されば我々は諸君と共に、この盛典に楢山氏の英霊を地下より呼び起して来て、永久に記念としたのである。それから此の如き事業は、地方の開発を計るに大なる力のあるは云うまでもないが、引いては国家の為であらねばならぬ。これと云うも皆共同の力、即ち和合の力、この力が成功したので目出度いのであります。本県下に著しい大工事を成功した裏面に、厳とした和合の力が潜んでいるのであります。故にこの高木用水は和合の力を記念すべきことである。なおこの用水は、和賀郡更木村地内に水源地を設けているが、更木村では何等の利益を受けて居らぬに、何等の故障も何等の賠償も求めずして、用水を設けしめたのは、実に賞美すべことで、義侠的に出た美事であって、是亦本日の盛典に於て記念すべきことである。(注3)
次に今日時勢の進歩を計るには、個人個人の競争も必要であるが、文明的に進歩するには、公共の事業が必要である。いくら議論があっても公共の事業に従うは全く人類としての最高理想である。耕地整理用水路事業亦然りである。諸君『水よく舟を浮べ水よく舟を被(くつが)えす』と云うことがあります。平静の水、狂乱の水、反掌の間に変ずるから、つまり平和と騒乱との両面をもっているのである。本日は高木用水の開かれた誠にめでたい平和の現われであるが、諸君は平和の人たらねばなりません。用水路を喧嘩の種として、狂乱の水としてはならぬ。組含員諸君は、第一の利益を成就したのであるから、将来に起らんとする第二第三の利益を、実際に収めねばならぬ。勿論組合員の中には、互いに利害関係を異にすることがあても、どこまでも一致和合して、溶々と平和の音楽を奏でて、耕地に流るゝ用水路の歌の如く、どこまでも末長く地方発展の為、一致和合の実を挙げねばなりません。工事として県下第一の好成績を挙げたる記念、古人の意志を貫徹し其の恩恵を忘れぬ記念、隣村更木村義侠の記念、一致協同の力がかち得たる記念、何れも水の性質が持てる善方面に関することのみを意味して、めでたき通水式であります。将来に於ても、諸君は平和を記念すべき、以上の記念を記念として、永(とこ)しえに平和を持続せられんことを望むのであります。聊(いささ)か希望を述べ尚将来の覚悟を促しておく次第であります。
式後久田野に於て園遊会を催し、午後4時半解散、次に花巻公会堂に於て祝賀会が行われ、数十の来賓と組合員が会合した。県知事祝盃をあげて曰く、
『高木用水路の前の企画者楢山氏は、賊軍の名の下に遂に腹を切って没したと聞いて居る。この用水の完成を見る迄には、組合長其の他幹部の人々が事若(も)し成らすんば腹を切ってもと決心していると云うことであるが、国家を利益せんと欲する者は期せずしてその覚悟の一致するを見るのである。先に楢山氏あり、今日佐藤松五郎氏あり、以て本日の盛典に遭うことが出来た。之れが幹部の人々は事業の経過を顧み、感慨無量なるものあることと思う。時や今花の盛りで、地や亦花巻である。この一大幸福を得て、人々の顔は歓喜に輝き実に色よき花の如くである。今後は果していかなる果実を結ぶであろうか。定めし堅実なる幸福の実を結ぶを疑わないのである。東には軽鉄あり西には電車あり、必ずやその然るべきことを信ぜざるを得ない。高木用水は歴史的に、この地方を啓発すべく開鑿せられたからである。私は昔の楢山氏を追慕すると共に、今日の佐藤松五郎氏を敬する。佐藤氏たるもの今後益々地方の為に尽力せられんことを望むのである。私は佐藤組合長の為に万歳を三唱したいと思う。列席者諸君御同意御起立を願います』
と万歳を三唱した。それから組合長から記念品感謝状を知事、内務部長、勧業課長、郡長、技手へ贈呈した。
此の用水を高木用水と称した。
次に開田に着手し、爾来昭和9年5月迄正に十有九年の長年月に亘り、110町歩(109ha)の開田を竣工することが出来た。此の間の組合長は、初代佐藤松五郎氏より稗貫郡長葛博、佐藤礒一、箱崎圧吉、箱崎圭介と五氏を経て漸やく竣工したのである。
耕地整理前の収穫は畑1反歩当大豆5斗(時価金6円)萱1反歩当20貫(時価金10円)であったが、整理後の収穫は、田1反歩当玄米2石全収量2,200石である。而して漸次増収を見つゝあるので、其の福利只それ高木部落当事者のみの喜びではない、国家の福利である。
[補足]
(注1) 楢山氏の計画:「高木・東十二丁目・更木、幕末の百姓一揆」参照
(注2) 高木用水の現況:現在の高木用水は、猿ヶ石発電所の送水路の途中(取水口Aから約900m、送水トンネルの入口手前) B地点で分水され、約4,900m北上し分水枡Cに達します。そしてこの分水枡で水は4本の細水路に分かれ、田圃へと流れていきます。
本文にある「水路の総延長2,950間(5,370m)」は現在のA地点からC地点までの距離5,800mとは若干異なっています。
高木用水の建設は大正3(1914)年着工、翌4年竣工ですが、一方猿ヶ石発電所は昭和5(1930)年の運用開始ですので、高木用水建設時にはまだ発電所の送水路は存在せず、当初は猿ヶ石川から直接取水していたと思われます。
(注3) 更木村の美事:通水式来賓の中に更木村関係者の名が見えないのは、どうしたことでしょう?!
(2015.6.5掲/6.11改)
[備考]に「高木用水の現況」を追加しました。