[岩手日報 大正四年五月十六日]
〇高木耕地整理通水式
稗貫郡矢沢村高木耕地整理組合通水式
は既報の如く昨十五日盛況裡に無事挙
行したり同日午前七時四十分大津知事
柿沼内務部長藤田勧業課長江越技師陣
警部一行は花巻駅に着するや直ちに馬
車を仕立てゝ一般来賓及組合員一同は
水越主任技手の先導にて水路を遡り
臥牛水源地に到着したるが暫時休憩臥
牛有志者の茶菓の饗応ありて後水取口
に於て神官の祈祷あり大津知事は水門
のハンドルを挙げて通水初めを行えり
一同は工事の精巧なるを視察称賛して
第十二区渡船場下より乗船猿ヶ石川の
急流を下りて美濃淵出口に上陸し正午
久田野の式場へ臨めり久田野は (注1)
△眺望絶佳の地 彩旗幔幕微風
にはためきていと長閑なり号砲を合図
に一同席に着くや佐藤組合長は挙式の
旨を告げて始まり組合員小学校生徒の
君が代二唱に次で水越技手工事報告を
為し組合長の式辞あり大津知事は其の
成功を祝して告諭し来賓の祝辞組合員
総代の答辞にて終了したるが天気快晴
数千の村民群衆して仝村稀に見る盛典
なりき式終了後は直ちに園遊会に移り
数番の独特なる余興ありて歓声沸くが
如くこれまた盛況を極めたり夫れより
△花巻公会堂に 来賓を招待し
更に祝宴を開きたるが大津知事以下の
県庁員葛稗貫郡長笹井花巻署長其他の (注2)
官公吏実業家等百数十名に達し殊に盛
岡より待せる幡街芸妓十数名は花巻美 (注3)
人と共に酒間を斡旋して至れり尽せり
の盛宴なりし由来高木耕地整理組合地
区は総面積百五十一町八反歩此の地価
一万四千九百五十二円を包擁し二百七
十四名の組合員に依りて開拓せらるゝ
ものなるが現在の整理地域は殆んど七
分通りは未開の不毛原野にして開墾整
理の暁には優に百七十余町歩の良水田
を現出するにあり此の総予算四万五千
円を編成し先づ水路を拓くに着手した
るものにして水取口を和賀郡更木村大
字臥牛を流るゝ猿ヶ石川に測れり大正
二年工事に着手以来組合員は鋭意勤労
約二里に亘る猿ヶ石川沿岸絶壁の懸崖
を掘鑿し特に二百間余の隧道の如き難 (注4)
工事ありて苦心実に想像の外なりしな
り本事業は去る明治三十八九年頃に組
合長佐藤松五郎氏に依りて企画提唱さ
れたるも
△部落民の多く は無謀の挙な
りと称して顧みるもなく其間幾多の
難事に遭遇したり然し成功の自心強き
佐藤組合長は畢生の事業なりとして極
力奔走し大正二年漸く組合員を取纏め
て今日を済すに至れるなり併して本組
合の事業は他の既墾地を整理するもの
とは違い本県に於ては稀に見るものな
り即ち大部分は全くの未開墾地を整耕
するものなるを以て開拓完成の暁に
は新たに百数十町歩の良田を現出す
るものにして確かに本県農界新記録
を示せり (花巻支局電話)
高木耕地整理組合記念碑
( 1) 維時(これとき)昭和九秊(ねん)陽春五月下旬 我矢沢村高木耕地整理組合事業完成を遂げ茲(ここ)に開墾記念碑を建立す
( 2) 夫(そ)れ邦家の隆昌は生産の富饒(ふじょう)に在り 生産増加は実に開墾に存す 組合廿万円の資金を投じ (注5)
( 3) て刻苦精励廿三秊の星霜を閲(けみ)し 今や百有余町歩の畑及山林原野全く開拓せられ遂に今日の美田を得
( 4) たり 蜿蜒(えんえん)二里に亘る幹線水路は其の工作完全にして微動だにせず区画井然(せいぜん)たる耕地は如何なる旱天
( 5) の時と雖(いえども)水利の便に苦しむことなし 土地所有者将来永遠に本事業の恵沢に浴し殖産興業の発展に資
( 6) するもの蓋(けだ)し勘(ママ)小ならざる可(べ)し 回顧すれば往昔(おうせき)南部藩士某 主命を奉じて高木部落の開墾を企図
( 7) し之が用水路取入口を和賀郡更木村臥牛地内権現淵下猿ヶ石川に設け穴堰二個所百二十余間を掘鑿(くつさく)し
( 8) 明渠(めいきょ)亦(また)大部分竣功したりしも 偶々(たまたま)関係農民の反対を受け遂に中止の止むなきに至りしと云う
( 9) 其の後明治四十秊当時の県会議員柳田大三君大いに蔇(いた)る所あり開墾耕地整理の測量調査方を県当局に
(10) 請願し技術員の実地踏査に因り其有望なる事を認められたるも是亦部落民の賛成を得ずして挫折せり
(11) 然るに大正二年に及び花巻町及矢沢村の有志十九名発起人となりて 矢沢村高木耕地整理組合を創
(12) 竣し同年十一月二十日設立認可を得 初代組合長に佐藤松五郎君就任し 次いで葛博君佐藤磯一君就
(13) 任 大いに事業の遂行に努力したるも種々なる事情の為に工事の進捗意の如くならず荏苒(じんぜん)七年後 労
(14) 力と資金とを費すも尚未だ完成を見る得(ママ)わず破綻の危機に直面せること一再ならず 苦心容易なら
(15) ざるものありしが大正九年八月時の県耕地整理係長横田利(?)喜一氏並に同係主事川崎自省氏の指導によ
(16) り更正計画樹立と共に組合規約を改正し現組合長箱崎庄吉君就任せられ同副長箱崎圭介君佐藤善君之
(17) を輔佐するに及び県当局の機宣を得たる処置の下に工事の完成と財政の整理に鋭意努力し漸次改善の
(18) 実を挙げ幾多の難関を突破して遂に今日の成果を挙ぐるを得たるは実に箱崎氏の献身的財政の援助と
(19) 労力の奉仕とに因るは勿論亦歴代組合長以下各役員並に組合員一同の協心憀(ママ)力の賜(たまもの)にして其の功績の
(20) 顕著なること眞に偉大なりと頒(しょう)せざるを得ず 仍(よ)って茲に記念碑を建立して成功を慶祝すると共に永く
(21) 之を不朽に伝え以て其功労を景仰(けいこう)する所以(ゆえん)なりと云(いう)爾(のみ) 昭和九年五月 矢沢村高木耕地整理組合
( 1) 組合創立発起人氏名
( 2) 多田 安郎 富澤 勝藏 高橋 信
( 3) 櫛引 孝一 鎌田清次郎 鎌田 市助
( 4) 佐藤松五郎 佐藤 善 佐藤 孝清
( 5) 島 六三郎 三田 新八 石川 卯八
( 6) 梅津善次郎 瀧田金太郎 山田 耕哉
( 7) 佐藤 禮助 新渡戸米八 金子 嘉助
( 8) 八重樫茂吉
( 9) 旧組合長及組合副長氏名
(10) 佐藤松五郎 葛 博 佐藤 磯一
(11) 佐藤 禮助 高橋 信 島 善平
(12) 山田 耕哉 島 六三郎 鎌田金太郎
(13) 富澤 勝藏 佐藤仁太郎 瀧田 甚助
(14) 現組合役員氏名
(15) 組合長 箱崎 庄吉
(16) 組合副長 箱崎 圭助 佐藤 善
(17) 評議員
(18) 佐藤文一郎 瀧田金太郎 佐藤 豊吉
(19) 熊谷弥惣吉 佐藤 善高 佐藤伊勢松
(20) 高橋 梅治 高橋友次郎 高橋 幸次
(21) 佐藤 松吉
(22) 組合会議員
(23) 箱崎 庄吉 箱崎 圭助 佐藤文一郎
(24) 瀧田金太郎 佐藤 善 佐藤 豊吉
(25) 佐藤伊勢松 佐藤 他吉 高橋 富治
(26) 熊谷弥惣吉 佐藤 忠夫 高橋 惣吉
(27) 佐藤精一郎 佐藤 善雄 鎌田 由蔵
(28) 佐藤 庄松 高橋種次郎 富沢吉次郎
(29) 佐藤 隆次 高橋友次郎 佐藤 義高
(30) 建立世話人 高橋 富治
(31) 同 高橋友次郎
[補足]
(注1) 久田野(きゅうでんの):北上川と猿ヶ石川に挟まれた北上山地の支脈の北端部で、開田地域が一望できる。旧天王山と記されることがあるが、これは「きゅうでんの」の当て字か。
山頂には高木丘神社があり、また縄文時代の遺跡でも知られ、出土品が花巻市立博物館に展示されている。
宮沢賢治が挙げた「経埋ムベキ山」の一つ「旧天山」は旧天王山のことという。
(注2) 葛博稗貫郡長:第2代組合長を務めた。賢治関係でも言及される人物で、賢治が稗貫郡の土性調査に従事したのは葛郡長の依頼が発端であったとか、賢治の稗貫農学校教諭就任に関係したとか。
(注3) 幡街芸妓:かつて盛岡には八幡町と本町にそれぞれ幡街(ばんがい)、本街(ほんがい)と呼ばれる花街があり、盛岡芸妓は幡街芸妓と本街芸妓に分かれていた。幡街の料亭は主に商家のだんな衆が、官庁街である本街の料亭は主に役人や政治家が利用していたことから、幡街芸妓と本街芸妓は気質も違い、ともに芸を競い合っていたという。
(注4) 二百間余の隧道:紙面には「二千間余の隧道」とあったが、二百間余に訂正した。
(注5) 組合20万円の資金を投じ:大正2年の当初総予算額は合計45千円(内訳:水路掘鑿費 24千円、開田整理費及び事務費 21千円)であり、水路掘鑿の実施工事費は19,200余円であった。
これら金額を現在の価額に直せばいか程になるのか、正確に算出することは不可能であるが、ある資料に基づいて求めた消費者物価の変化を適用してみると:
消費者物価の変化:(大正2年) 1.00:(昭和9年) 1.45:(平成24年) 2,600
当初総予算額 (大正2年) 45千円 (平成24年価額) 117百万円
実施総工事費 (昭和9年) 200千円 (平成24年価額) 520百万円
当初予算 45千円が何故200千円に膨れ上がったのか。もっとも現在の公共工事でも低く見積って始り、高く終ることはよくあることであるが!
(2012.8.12掲/8.14改)
岩手日報紙面と記念碑の写真を追加しました。