年初に「石崎直治著『東十二丁目誌』註解」を4~5年かけて纏めてみようかと思い立ち、今年は第1章から第4章までをやるつもりでいます。
本書には日本史の通史的な事柄等も含まれていますが、注釈を加えたり補足したりするのは、東十二丁目に直接関係する事項を中心に、拡げても精々稗貫・和賀両郡に関することまでに限るつもりです。
第1章 東十二丁目の地名
第2章 原始時代
第3章 古 代
第4章 中 世
この中で私が特に関心を持っているのが、「東十二丁目」という地名と、「照井」に関わる伝承です。
第1章 東十二丁目の地名
島 村 東十二丁目の別称「島」につては、昔、古北上川が北上山地の西麓を流れていたころその中州状であったところから「島」と云った、というのが一般の通念であった、と述べられています。
しかし「新たな論考」として司東真雄氏(国見山極楽寺住職、奥州大学教授)の論文が紹介されています。石崎先生の意図がはっきりしませんので、少し追及してみるつもりです。
「南部藩参考諸家系図」を引用して、「和賀郡嶋村ということがあったものであろうか」と述べられています。別の近世の文書に「和賀郡矢澤村」と書かれた例もありますので、「第5章 近世」の中で検討してみようと思います。
「北上川の河道の変遷」として「北上川 第6輯」から引用し、その中で古代・中世の河道が図示されていますが、その根拠が何なのか、これも気になっています。
東十二丁目 本書では、「十二丁目」に関する史料を挙げた上で、「十二丁目を解明する根拠を見出し得ない、…地名と城と氏の三者の前後関係についての結論は今後に委ねざるを得ない。」としています。
「東十二丁目」を「東・十二・丁目」と区切って考えてみます。
・「東」については、「十二丁目」・「西十二丁目」に対する「東十二丁目」ということで、問題ないでしょう。但し「向十二丁目」という呼称もあったということを本書で初めて知りました。
・「十二丁目」について、この地方には「十丁目」も「十一丁目」もなかったようで、似た地名としては「万丁目」があるのみです。
「十二丁目氏」との関係で言えば、伊藤氏が十二丁目(城)を本拠としたことから、十二丁目氏を名乗った、ということで良いのではないでしょうか。
従って今のところ「十二丁目」の謂われは不明です。
・「十二」はどうでしょう。「十二」の付く地名を探してみると、「十二箇村(後に十二鏑村)」というのがありました。現在の花巻市東和町土沢の一部です。十二丁目の「十二」とこちらの「十二」に何か共通するものがあるのか?
・「丁目」について、「17世紀初頭には既に(江戸で)『丁目』という用語(一丁目、二丁目のような用法)が使われていたようである」とのことですので、それ以前に使われていた可能性は少ないということでしょうか。とすれば「東十二丁目」の「丁目」は違う意味を持つ? 例えば「ジュウニチョウメ」に近い発音の蝦夷(えみし)語に「十二丁目」の漢字を当てたとか?!
本書に、明治初年に編纂された岩手県管轄地誌から引用して、「陸中稗貫郡東拾二丁目村、本村ハ古ヨリ本郡ニ属シ西拾二丁目と一村ニテ島村ト称ス、天正(1573~93)ノ頃本称ニ改メ分テ東西両村トナル」と記されています。しかしこれは俄かには信じ難いです。
① 北上川西岸の小高い河岸段丘上にある場所を「島」の一部とは言い難い。
② 島村(現在の東十二丁目)を本拠にしていた有力者が北上川の西側に進出し、島村を川西に拡張した、というようなことを聞いたことがない。
私が思い描く仮説は:-
・北上川の東岸に島村が、西岸に十二丁目村があった。
・十二丁目村に本拠を置いた伊藤氏(十二丁目氏)が有力になり、島村を勢力圏に含め、この地を向十二丁目とか東十二丁目と呼ぶようになった。
島村の住民にとって元々は、向十二丁目も東十二丁目も他称に過ぎなかった。
・十二丁目氏が没落後、十二丁目を西十二丁目と呼ぶようになった。
・東十二丁目村が公式の村名となった後も、住民は「島村」という呼称を使い続けた。
第2章 原始時代
余りに古い時代の事で、私には興味のない時代ですが、本書では「縄文時代」を「縄紋時代」と記しています。石崎先生にどんな思いがあったのか、残された資料などを調べてみようと思います。
本書が発行された平成2年以後に発掘された埋蔵文化財についても補足したいところです。
第3章 古 代
□ 第1節 古代のみちのく(概説)
本節に東十二丁目への言及はありません。
稗和地方に関しては、「奥六郡」の註として「奥六郡=…和賀、稗抜(貫)…」とあるのみです。
□ 第2節 古代略年表
東十二丁目と矢沢に関することとして、去返公島子(さるがえしのきみしまこ)の播磨国への移配(805)、矢沢神社勧請(807)、熊野神社創建(810)があります。
□ 第3節 古墳の時代
東十二丁目への言及はありません。
□ 第4節 辺境の征討と開拓の北進
この節は「陸奥国」、「蝦夷(えみし)」、「蝦夷の抵抗」、「村の開拓」と項が展開し、坂上田村麻呂や胆沢城が登場します。
そして最後の項「村の開拓」に「弘仁元年(810) 満海坊なるもの、島邑(むら)開拓記念として熊野神社を草創し…」とあります。
私が子供の頃、遊びに出かけるところに堰(農業用水路)の近くの「マンケェ」がありました。これは満海坊の「マンカイ」のことであったらしい。満海坊の住まいがあったところなのか、満海坊が開拓したところであったのかは知りません。
また今も「満海坊の墓」と称される墓石が残っています。
なお本書には島村の開拓に関する別の伝承も記されていますが、こちらでは満海坊ではなく、田村麻呂の部下、高道朝臣が開墾に従事した事になっています。
□ 第5節 奥六郡の支配
□ 第6節 前九年の役
□ 第7節 後三年の役
□ 第8節 平泉の文化
以上4節に東十二丁目への言及はありませんが、第6節に「黒沢尻柵」が出てきます。
北上市黒沢尻に「九年橋」という橋があり、前九年の役の名残ではないかと思ったのですが、明治九年の「九年」だそうです。
□ 第9節 村の伝承
本節では「島七家と照井氏の系譜」について述べられていますが、これは石塚喜墱氏(島村出身、秋田県横手市得浄寺住職)の研究成果である「照井庄誌史」と「系譜集録」からの要約とのことです。
島七家 田村麻呂軍に参軍した照井武弘氏主従8人がこの地に土着して、照井の庄と云い、武弘は照井氏を、従者7人は島氏を称して島七家と云った。そして、上(かみ)の島家が後に押切氏を称し、中の島家が小田島氏に、耆の島家が大木氏に、丘の島家が小田島家に、川の島家(初代が入道して満海坊)が古川氏になった、というのです。
照井という苗字は全国的には珍しい方に属すると思いますが、私には身近な存在です。このブログの初めに取上げたのが「照井亮次郎」ですし、私が育った家の東隣も西隣も照井です。
私は小学校を昭和29年(1954)に卒業しましたが、全卒業生44人のうち照井が4人いました。(注1)
上の照井武弘主従の話は出来過ぎの感がありますが、これについては後述します。
島の照井氏系譜 照井武弘を初代とする照井家の系図が35代まで載っています。武弘は天平宝字7年(763)生れ、天長3年(826)没と記されていますが、他の人には生没年など年代は入っていません。
「第4章 中 世」の中には、照井武弘の本家の系譜が載っているのですが、そこでは武弘の父・武満が18代として記され、文明5年(1473)に十二丁目に移る、とあります。前述の武弘の時代と大きく食違っていますが、こちらの方が史実に近いのではないでしょうか。第4章で更に検討します。
次回は「第4章 中 世」を見ていくつもりです。注目点は稗貫氏、十二丁目氏、そして再び照井氏。また薬師館址も興味深いです。
[補足]
(注1) 島小学校昭和29年(1954)卒業生の苗字:卒業生合計44人、古川 10人、小田島 7人、佐藤 6人、照井 4人、押切・高橋 各3人、多田・宮川・福盛田 各2人、大木・石崎・鴨沢・菊池・新井 各1名
(2016.1.27掲)
「「東十二丁目誌」註解覚書(1) -地名・古代-」への2件のフィードバック
コメントは停止中です。