島の七家、九家、八家

  島七家(け)
照井武弘氏主従は、延暦20年(801)坂上田村麻呂将軍に参軍して夷賊と戦い軍功があり、其後主従8人此処に土着して照井の庄と云い、武弘は照井氏を、従者の七人は島氏を称して島七家と云った。
照井の子孫は当地の主であったが、宗家は藤原清衡を助けて一関に移り住んだ。鎌倉時代になり5代武政は和賀郡猿橋に移り、17代武克は和賀郡横川目に住して和賀氏の家臣になったと伝う。

島の七家は大要次のようであったと伝えられている。
(かみ)の島家  隼人で上に居住していたが、後に杉山右京の末葉藤左エ門が矢澤の押切沢から来て草鞋をぬぎ、押切氏を称した。
中の島家  麻登太と云い天神に住んでいたが、後竹原に移り小田島となる。
(しも)の島家  蔵人といってこの地に住んでいたが、いつ頃か当地をはなれ不詳。
(き?)の島家  国綱と称して明前(門前)に住んでいたが故あって大木氏となる。
久留の島家  淡水(あわみ)といい更木境に代々住んでいたが後裔不詳。
丘の島家  下山(しもやま)に住した後隠里に移り小田島氏を称す。
川の島家  島川守(入道して満海坊)で島長根にあり後古川氏となる。
(照井庄誌史による)

この話は「東十二丁目誌」(注1)の「第三章 古代」の「村の伝承」に載っているもので、これまでにも何度か言及しました。(2)
「坂上田村麻呂」云々は当地の古い話によく出てくるものですし、「七家」についても出来過ぎの感があり、作り話というか、かなり脚色された話と思います。しかしいつ頃成立した話かは分かりませんが、当時の東十二丁目の状況を何かしら反映したものなのでしょう。(「5代武政」とありますが、田村麻呂の時代から鎌倉時代まで400年前後で「5代」とは?)
現在でも押切・小田島・大木・古川は島に多く見られる苗字です。明治中期の東十二丁目には苗字が18種あり、多い方から古川、押切、小田島、高橋、大木となっていました。しかしこれら苗字がいつの頃から使われだしたのかは分かりません。全てが武士の出とは思えないのですが。

「東十二丁目誌」ではこの話を(照井庄誌史による)とし、「照井庄誌史及び系譜集録:村の歴史や諸家の系譜等について、昭和4年以降研究に専念の石塚喜墱氏(当地大沢出身、現在秋田県横手市得浄寺住職)は、研究成果を標記の冊誌にまとめられている」と記しています。石塚氏とその著作については未確認です。

  (九家)
照井家から最初に東十二丁目(島)に移り住んだのは、照井武弘である。武弘は照井常陸介武満の三男である。武満は、和賀郡沢内郷の内の(沢内・湯田)鷲の巣に応永7年(1400)頃に移住した照井尾張守武世の孫であるが、ひそかにせまいこの地から和賀・稗貫の広いずれかにか進出せんとの野望をいだきその時を待っていた。…
照井武満は、このような好条件を得たので、鷲の巣から稗貫郡十二丁目内館に移住を決めたものである。そして嫡男・武壽(たけひさ)、三男・武弘と共に文明6年(1474)移住することになった。…
その後、照井長門守武弘は、佐藤秀信の娘を妻とし、延徳元年(1489)後見役として、佐藤典膳秀守、老臣、押切上総・追鬼筑前・源俊朝・源頼宗・古川備中・清原範義・加茂脇尾張・平孝延、以上9名の家来を連れて、東十二丁目村の島の館に移ったものである。
嫡男は、玄番武親である。
(照井家古文書参考)

on_terui_takehiroこの話は「照井武弘について(東十二丁目郷土史参考)平成4年1月 照井秀夫」と題する手書きの資料(A4版11ページ)に載っているものです。著者の照井秀夫氏については今のところ不詳ですが、本書の中で「照井武弘…同族の一人として」と言い、末尾に「平成4年1月15日 照井秀夫 67才」と記しています。
照井武弘の東十二丁目進出について、こちらの方が史実に近いのではないでしょうか。「東十二丁目誌」にも、その中世年表の中に「延徳元年(1490)2月 長門守武弘東十二丁目村島の館に住す(照井氏系譜)」とあります。
こちらの九家と前記七家の両方に出てくるのは押切・古川の2氏のみです。新たに出てきた佐藤は現在も東十二丁目に多くありますが、北隣の高木で圧倒的に多い苗字です。
七家の話の方が九家のそれよりも後に成立したように思えるのですが、どうでしょうか。

  (八家)
文明6年(1474)鷲の巣から、十二丁目に移住してから武満-武壽-武徳-と三代およそ80数年以上の歳月がたった。武徳(たけのり)は、武満の孫であるが、祖父、父と十二丁目付近その他一帯を追々と手を入れ、あるいは田畑を開発してきたが、中でも里川口村は土地は豊熟の地であったので、天文18年(1549)2月、稗貫郡里川口の郷、高田館に移り住んだ。時に45才であった。
この時、武徳は十二丁目の東西両村・南北根子村・万丁目村・太田村・里川口郷の村を所領し、これらの地に家臣を居住させ撫育したので各人専ら励勤する。
この頃、東十二丁目に居住していた家臣は、当時の老臣、追鬼主殿助・藤原頼道・押切安房・源俊成、この外旧臣には、加茂脇頼母介、藤原孝貞、古川兵部、清原範輔の方々である。この頃は世の中もよく治まり充実した時代であったが、天正18年(1590)豊臣秀吉、小田原城を征伐後に奥州統一のため攻めて来たことによって、和賀・稗貫・照井一族の悲劇が始まった。

この話も「照井武弘について」に載っているのですが、残念ながら出典が示されていません。ここでは東十二丁目を領していたのは武弘系照井氏ではなくその本家になっており、武弘の子孫への言及はありません。
九家、八家の話を通して最大の疑問は稗貫氏、十二丁目氏との関係です。武徳の領地は十二丁目氏の領地と重なり、更にそれよりも広かったと思われるのですが、一体どうなっていたのでしょうか。
「高木村の歴史」(3)の「稗貫氏末期の一族と家臣団」の項に、「矢沢地区の地頭として…嶋治左エ門の名がある。このほか、和賀家臣団にも…地頭として…嶋左近等の名があり…」などとありますが、この嶋氏は何者でどこの地頭だったのか?武弘系照井氏のことなのか?
まだまだ興味は尽きないのですが、私にはこれ以上の追及は難しそうです。(西)十二丁目村と根子村の歴史も調べてみたいのですが、適当な資料が見当たりません。

[補足]
(1) 「東十二丁目誌」:石崎直治著・発行、平成2年2月28日発行
(2) こちら↓をご覧下さい。
  「東十二丁目誌」註解覚書(1) -地名・古代-
  「東十二丁目誌」註解覚書(3) -満海坊-
  押切藤左衛門家のルーツ
(3) 「高木村の歴史」:佐藤昭孝編集・発行、昭和62年4月30日発行

五輪塔・照井武弘墓
五輪塔・照井武弘墓

(注4) 五輪塔・照井武弘墓:東十二丁目字二津家なる旧墓地内にあり(上掲写真の後方に見えるのは円通山歓喜寺)、高さ 4尺、「照井長門藤原武弘墓 奉再建立安政二乙卯年(1855)七月」

(2016.5.31 掲)

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