(石塚喜墱著「照井庄誌史・系譜集録」(S60年頃か?)より)
《…照井家の始祖は照井武弘と称し、又押影中将とも言った。その居住地は照井庄と称していた、往古夷首阿弖流為(アテルイ)と言う者が居城していた城下部落である。城跡は山岳部にあって今は薬師堂が祀られてある(注2)。此処地は岩手県花巻市内の東南部に位置し今は東十二丁目と言われている。此の山岳の下は東北新幹線が通っている。…
照井氏の始祖武弘は、藤原仲麻呂亦名仲満亦恵美押勝と称しその押勝の子恵美武満といいその三男を武弘という。仲麻呂故あって没落後その従臣に守られて加賀国に匿(かく)れそだった。後延暦20西紀800年坂上田村麻呂 天皇の命により将軍として蝦夷(えみし)征伐のとき、軍に従い参戦軍功があって夷首阿弖流為以下を捕虜にし大墓君(たものきみ)等と共に京師(けいし)に送ったと記されている。阿弖流為を捕虜にした場所は隠里(注3)の地ならん、此処から今も石器や石の矢尻がでてくる。
此の戦後武弘主従八人この地に土着し照井の庄と称した。武弘照井氏を名乗り従七人は島氏を称した。島七家という。…》
《胆沢阿弖流為の名前に因って阿弖流伊又阿弖礼恵とも書かれてあるが蝦首の名にしてその居城は今の花巻市矢沢町東十二丁目の地にあり 延暦年間は胆沢の地に属していた、後平城天皇の大同年間に岩手・志和・稗縫和賀の諸郡がおかれたり。明治初年島村と称往古は照井庄と言ヘリ。阿弖流為の居城は東十二丁目薬師山に在り周囲堀を廻らす要衛堅固に造営され今に遺っている、下方は字照井部落があり属(ママ)に弖礼恵と称している。延暦中田村麻呂将軍に従い参戦した藤原武弘が照井氏を称したと伝えられている。
武弘は藤原仲麻呂の孫にして藤原武満三男と言う。武弘又名押影中将とも言う。武弘は祖父の乱後従者と共に加賀国に遁れ育ち長ずるに及び田村麻呂の蝦夷征討に加わり其の賊を伏滅しその功大なるものとあり。田村麻呂は本営を八沢(やさわ)山に置き作戦せられた。阿弖流為城は大軍を以って攻略せるが城北に竹原部落に隠里と言う所があるがここにて阿弖流為が500人と共に降参したものと想う。付近より今も石器と矢鏃が出土せらる。戦後田村麻呂の命により武弘この地に逗留しその後従臣七人と土着す。又八沢には杉山右京が留まりたると記されている…》
私はこれを読んで驚きました。東十二丁目がアテルイの本拠地だなどとは、今まで読んだことも聞いたこともありません。これは一体どうしたことか?
このような物語が隠れた口碑・伝承としてあったのか、それとも著者の創作なのか。
この資料とその著者について「東十二丁目誌」(注4)では次のように紹介しています。
《村の歴史や諸家の系譜等について、昭和4年以降研究に専念の石塚喜墱氏(当地大沢出身、現在秋田県横手市得浄寺住職)は、研究成果を冊誌「照井庄誌史及び系譜集録」まとめられている。》
この冊誌は手書きガリ版刷りで、作成日が明記されておらず、また出典・根拠なども全く示されていません。東北新幹線への言及があり、「東十二丁目誌」の刊行以前ということで、昭和60年前後に作成されたものと思われます。
■アテルイ
他の資料でアテルイの足跡をたどってみると:-
「岩手県の歴史」(注5)には次のようにあります。
《アテルイとモレ
アテルイとモレ。2人のフルネームは大墓公阿弖利為(たものきみあてりい)、盤具公母礼(いわぐのきみもれ)。またアテルイは阿弖流為(あてるい)とも表記される。もっとも2人の名は今日でこそ史上にメジャーの地位を確保し、敵将の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)とともに教科書や入学試験問題にも登場するようになったが、10数年前まではさびしいかぎりであった。…
胆沢のアテルイの生年は不明である。だが、坂上田村麻呂とそれほど歳の差がないと仮定すると、宝亀10年の(伊治君(これはるのきみ))呰麻呂(あざまろ)の乱のとき田村麻呂は23歳、アテルイやモレはエミシ戦士団の中堅として活躍中と推定される。双方ともに呰麻呂の乱の報に接しながら。
延暦5(786年)、いよいよ胆沢遠征の準備がはじまる。東海・東山(とうさん)2道に兵士や武器の調達が命じられたのである、田村麻呂29九歳、天皇の周辺を警護する近衛府将監(このえふしょうげん)(三等官)の職にあった。アテルイはエミシ戦士首長に成長しており、30代前半頃か。…
延暦8年3月初旬、多賀城に会した遠征軍は胆沢へむかった。…
一方、胆沢ではアテルイ、モレらの軍事首長によるエミシ連合軍が組織され、胆沢の命運が託されていた。…
坂上田村麻呂とアテルイ
衣川に滞留し、動かない遠征軍に天皇は激怒し、将軍たちを叱責した。
遠征軍は延暦8(789)年6月初旬、やっと動いた。進軍は3軍合同とし、中.後軍の主力は4000人の兵で北上川左岸を、一方の前軍は同右岸をそれぞれ北上し、巣伏(すぶし)村(水沢市東郊)で合流する作戦である。しかし、アテルイ側はこの作戦をみぬいていた。中・後軍が左岸を北上し、「阿弖旦流為(あてるい)の居(きょ)に至るころ」(『続日本紀』)、エミシ軍300余人と迎撃戦となった。戦闘は遠征軍に有利で、エミシ軍はすぐに引き上げてしまった。中・後軍はさらに北上を続け、途中でエミシ軍と戦ってはこれを退け、村々を焼きながら合流点をめざしていった。だが、これこそアテルイらの陽動作戦であった。
そして巣伏村に至ったとき、突然、800余人のエミシ軍が前方をふさぐように急襲してきた。左岸は北上川と北上山地にはさまれた隘路(あいろ)である。前方が混乱に陥っていたとき、さらに東山から400余人のエミシ軍がなだれを打って現れ、遠征軍の退路を断ってしまった。前方に敵をうけた兵士たちは、重い甲(かぶと)のまま北上川に飛びこむしかなかった。
史上有名な延暦8年の胆沢の合戦は、アテルイ側の勝利に終わった。遠征軍の被害は、戦死・溺死者など総計2600人余り。これは出撃部隊の半数近い数字である。報をうけた天皇も愕然とするしかなかった。しかし、エミシ軍も死者89人、焼亡村落14村800余棟、その他器械雑物の損亡もあり、少ない被害ではなかった。
この年、坂上田村麻呂は32歳、近衛少将兼越後介(えちごのすけ)であった。アテルイは30代後半か。
大敗した政府は、翌延暦9年からただちに第2回胆沢遠征の準備にはいり、はじめて征東使を征夷使(せいいし)に改め、「夷を征する」という目的を明確にした。同10年、遠征軍の首脳人事があり、征夷大使に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)、同副使に百済王俊哲(くだらおうしゅんてつ)・坂上田村麻呂ら四人が任命された。エミシ遠征の局面で、田村麻呂がはじめて幹部として登場してきた。34歳であった。
胆沢の合戦のことは、北上川流域のエミシ村落に知れわたった。また遠征の対象が、胆沢の次は和我(わが)・志波地方であるのも明らかになった。国家への帰服をめぐってエミシ間にしだいに動揺が広がってきた。…
延暦13年正月、征夷大将軍大伴弟麻呂に遠征命令が下った。だが実質的指揮官は、同副将軍坂上田村麻呂であった。田村麻呂37歳、前回の2倍近い兵10万人で胆沢に発った。迎えるアテルイは40代にはいったか。
6月には実戦隊の田村麻呂から、遠征軍勝利の報告が都に届いた。戦果は斬首457級、捕虜150人、捕獲の馬85疋(ひき)、焼亡村落75村という。エミシ側の損害は、前回にくらべても甚大である。
これは今回の合戦が、前回の北上川左岸から、右岸一帯におよんだことを示している。
報告で注目できるのがエミシ特産の馬である。当時の諸国27牧からの年間貢上数105疋を考えると、胆沢で獲得した馬数の多さと、その価値が推定できる。だが、胆沢はまだ落ちない。
延暦15年、第3回遠征計画がはじまり、田村麻呂は軍事・行政の全権を統轄する陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)兼陸奥守(むつのかみ)兼鎮守(ちんじゅ)将軍の3官兼任となった。同20年2月、44歳の征夷大将軍田村麻呂に胆沢遠征命令がでた。軍士は前回の半分以下の4万人。アテルイらは、二度の合戦でエミシ戦士の大半を失い、加えて水田・陸田の広がる胆沢平野も荒廃し、食糧難に陥り、疲弊の度をきわめていた。戦闘は一方的であったのか、9月末「夷賊(いぞく)を討伏(とうぶく)せり」(『日本紀略』)の報告が都に届いた。このときの遠征軍は、胆沢をへて閉伊地方まで攻撃している。
翌延暦21年正月、田村麻呂は胆沢の地に胆沢城(水沢市)を造営した。もはやアテルイらは、抵抗の術(すべ)を失ったのである。同年4月、造営中の胆沢城にアテルイとモレが、エミシ戦士500余人を率いて降ってきた。田村麻呂は2人に対して丁重に応対したようである。
同21年7月、田村麻呂は2人をしたがえて上京し、公卿(くぎょう)(今の閣僚に相当)らに胆沢の安定には彼らの協力が必要であり、国家反逆の罪を不問にしてほしいと訴えた。しかし、公卿たちは「(二虜(にりょ)を)縦(ほしい)ままに申請によりて奥地に放還(ほうかん)せらば、所謂(いわゆる)虎を養いて患(わずらい)を遺(のこす)すなり」(『日本紀略』)として却下、八月、河内国椙山(すぎやま)(杜山(もりやま))で斬刑(ざんけい)に処した。
初老のアテルイであったか。》
■アテルイの今
アテルイの死から1200年を経た今日、アテルイは多くの人々に注目され、多方面に活躍する存在となりました。
歌舞伎NEXT 阿弖流為〈アテルイ〉
《古き時代。北の民 蝦夷は国家統一を目論む大和朝廷に攻め込まれていた。そこに、かつて一族の神に背き追放された阿弖流為が、…》
火怨・北の英雄 アテルイ伝
《…古代の東北には「蝦夷(えみし)」と呼ばれた人々が暮らしていた。彼らの文明がどのようなものであったかは、大学の先生方にお聞きしても、明確な答えは返ってこない。彼らは何ら弁明する手段をもたず、沈黙のまま歴史の闇に消えていった敗者である。しかし、…》
アテルイ 北の燿星
《誇りにかけて守らねばならぬものがある
高橋克彦氏原作の「火怨」舞台化によるミュージカル》
アテルイ
《その瞳は、未来を見ていた
長編アニメーション映画》
アテルイを顕彰する会
《…延暦8年(789年)、アテルイ率いるエミシ軍が現在の岩手県胆沢地方に侵攻した数万の朝廷軍と対決し、巣伏の戦いで大敗させた。この胆沢の合戦から1200年にあたる平成元年(1989年)は、アテルイ復権と顕彰活動の画期をなす記念すべき年になった。…》
アテルイ復権の軌跡とエミシ意識の覚醒
《…小説家・高橋克彦は2003年の対談で、「蝦夷(エミシ)の末裔だと胸を張って言えるような人が出てきたのは、ここ15年とか、そんなものだと思う。
…自分が蝦夷の末裔だと思っていても、それをなかなか口にしなかった人たちが、最近は言い始めた」と述べている。そのエミシの末裔という(民族)意識の醸成において、象徴的な役割を果たしたのが、アテルイ復権運動であったといえよう。…》
■アテルイと照井(テルイ)
この2語の間には何か関連があるかもと、面白半分でネットをググってみると…ありました!!!
余白を感じるちから
《…おそらく、仙台の書店だから気軽に手に入るのでしょう。…地元ならではのマイナー本。
「ゆりかごのヤマト王朝」(注6)・・・こ、これは~。即買い!
前々から、征夷大将軍田村麻呂と戦った、アテルイは「阿・照井」なんだろうな、と思っていましたが、やっぱりそう捉えている内容でした。「あてるい」とは照井一族のまとめ役で「阿」という頭文字がついていた、と書いてありました。
そして、照井一族は馬の民族。大陸から来た馬の民です。「照る・火」から「照井」へ変化したのだと。…》
但し、この本はAmazonで「歴史・時代小説」に分類されています。
いずれにしても…
「阿弖流為」という名は、元々『続日本紀(しょくにほんぎ)』、『日本紀略(にほんきりゃく)』という古い文献2冊にそれぞれ一度登場するだけとのこと。
□
[補足]
(注1) 冒頭の写真:右側が「続日本紀 巻四十」の延暦8年(789) 6月の条、左側が「日本紀略 前篇十三」の延暦21年(802) 3~8月の条、⇨拡大表示
(注2) 薬師館:[「東十二丁目誌」註解覚書(6) -遺跡・補遺-]の「65.薬師館」と
□ [「東十二丁目誌」註解覚書(2) -中世-]の「第9節 村の館跡」をご覧下さい。
(注3) 隠里:地名のようですが、読み方・場所は不詳。これを「いんり」と読めば、この付近にあった古い地名「以加里(いかり)」に似ていないこともない。
(注4) 「東十二丁目誌」:石崎直治著、H2.2.28 同人発行
(注5) 「岩手県の歴史-県史3-」:細井計・他著、1999.8.26 山川出版社発行
(注6) 「新版・ゆりかごのヤマト王朝」:千城央(ちぎ ひさし)著、2012.7.10 無明舎出版発行。
「照井党の巻」、「坂上父子の巻」、「盛党の巻」、「道嶋一族の巻」の4部構成で、各地に割拠する照井氏の人々が主要な登場人物になっています。そしてアテルイが照井建麻呂(たけまろ)という名前で出てきます。
著者は本名・佐藤明男、元宮城県図書館長で、『新たな地方法人課税の実現に向けて』等の著書があり、博識・多才な人のようです。
(2016.10.6掲/10.8改)
「『あてるい』は照井一族のまとめ役で「阿」という頭文字がついていた」についていて:
「ゆりかごのヤマト王朝」の新版(2012 無明社)と旧版(2009 本の森)の両方を読んでみました。
旧版には「照井建麻呂とは、ヤマト史書にいう、”阿弖流為(あてるい)”である。つまり、阿部が部(べ)の民の第一党であると名付けられたように、照井党をまとめる第一人者だというわけである。」とありましたが、何故か新版ではこの文面が削除されています。
私は、塩竃神社とは、志波彦神とは。。。。という謎を探求しております。
長い間東北六県を仕事で廻りながら、神社や史跡を訪れておりますが、先日読み始めた「ゆりかごの大和朝廷」は、今までの私の知識にはない気づきがあり、楽しく読んでおります。
私は、会津出身、仙台在住。「ナガスネ彦は、アビ彦(安比彦)とあいづ(安比津)で落合って、北へ向かった。」などの伝承が大好きです。
今後の掲載を楽しみにしております。
岩手の故郷の歴史、よく調べられた素晴らしい内容ですね。参考になります。
セ〇〇ツ様
コメント有難うございます。
先ほど流山の自宅に戻りました。
今後忌憚のないご意見・ご批評を御願いします。