天保の総検地の際に東十二丁目村の絵図面(地図)が作成され、石崎文庫に全体の絵図面1枚と小絵図26枚のコピーが所蔵されています。
この絵図面の右下に次のように記されています。
《稗貫郡東拾弐丁目村天保十四年秋為御吟味御竿
打直被仰付候砌書上絵図面写御下ヶ被成置候以上》
この図(以下「地割図」という)に示されている (い)、(ろ)、(は)…(の) 毎に1枚の小絵図合計26枚があります。
次に現在の東十二丁目の概要図(以下「現在図」という)を示します。
現在の東十二丁目では、土地が「花巻市東十二丁目第〇地割〇番地〇」と表示されますが、この図の①、②、③...㉖は「第1地割」、「第2地割」、「第3地割」...「第26地割」を示します。
現在図の向きに合わせて地割図を再掲すると、
この2枚の図面を比較してみると、「いろは...の」が「1 2 3 … 26」に変っているほかは、かなりよく似ています。
地割図が作られたのは天保4年(1833)、今から180年前の事です。
小絵図の例として肝入・源之助の屋敷が書かれている「わ」印(現在の第13地割に相当)を示します。
天保の検地に際して「天保十三年御検地仕様御定目」(注1)が制定され、その中に絵図面について次のように定められています。
《一 村地割絵図面書上げ申す可き事
但し、堰川・道筋の類並びに山林・広野、其の外神社・仏閣等、村境は別(わけて)て委(くわ)しく、尤(もっと)も、他村入込の場所も之有る可く候はば、是亦委しく相認(したた)め候上、いろは印を以て割図いたし、仮令(たとえ)ば堰川・道・土手之類境にして、大場に之無きよう割合、何れはっきりと見得分り候様、別紙雛形絵図面の通り書上げ申す可き事、》 (「覚」第1項)
《一 一割図毎、田畑一軒、地限・地続之小絵図面、別紙雛形之通り書上げ申す可き事、》 (「覚」第4項)
この定めの中に「地割」という用語が出てきます。
「第〇地割」という地名表記は180年以上前に起源を持ち、現在は正式の表記として使われていますが、日常生活ではあまり使われないように思います。
例えば、第4地割と第13地割は「荒屋敷」、第5地割の一部は「小袋」と呼ぶのが普通です。これらの小字(こあざ)名も地割図に記されています。
検地地割と小字名の対応を「東十二丁目誌」(注2)から転載しておきます。
天保検地の「地割」(いろは)から明治以降の正式の地名表示である「第〇地割」に至る経緯については、こちらをご覧下さい。
蛇足ながら、東十二丁目と高木では「第〇地割」ですが、南隣の北上市更木では「〇地割」と「第」が付いていません!?
[補足]
(注1) 天保十三年御検地仕様御定目:藩法研究会編「藩法集 9 盛岡藩 下」(S46.3.31 創文社発行) 所収
(注2) 東十二丁目誌:石崎直治著、H2.2.28 同人発行
(2017.5.20掲)
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