「東十二丁目誌」註解覚書:なぜ「矢沢村」だったのか?

本誌(注1)「第7章 近 代」/「第12節 五ヶ村合併」の「町村制施行」の項に、
《明治22年(1889)4月町村制(という名称の法律)の実施によって、矢沢・高松・幸田・高木・東十二丁目の…5ヶ村が合併し、…新しい矢沢村の発足となり、…》
とあるが、これら5ヶ村が合併し、新村名が「矢沢村」とされたのは何故だったのか?

旧・矢沢村
旧・矢沢村の今
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  • 5ヶ村合併までの経緯
    本書には《町村合併の調書》(注2)からの引用として次のように記されている。

《〇新町村名:矢沢村
・旧村名 /   面積(町) / 人口 / 戸数
  矢沢     493   1,033   184
  高松     776    858   167
  幸田     309    198    40
  高木     331   1,019   181
  東十二丁目  367   1,067   212
  計     2,278(ママ)  4,175   784
・合併を要する事由:本村中、矢沢・高松・幸田は東北に位(くらい)し、猿ヶ石川其の南端を還流し、高木・東十二丁目は西南に方(かたよ)り、北上川に面し、地味沃壌にして又木材に富み、且つ従来一戸長役場の管轄区域に属し、交通の不便なし、又高木村の内小舟渡は北上川を隔(へだ)てたる飛地なるを以て、便宜の町村即ち花巻・里川口の両町村に分合し、残地を本村に合併す》

戸長役場:  明治維新から町村制施行までの20年間に、岩手県では行政機構・区域が頻繁に改変された。明治21年時点では県内に9郡役所が置かれ、その下に119の戸長役場があった。稗貫・和賀地方は、花巻に置かれた「東西和賀稗貫郡役所」の管轄とされ、高木にあった戸長役場が高木・東十二丁目・矢沢・高松・幸田の5ヶ村を管轄した。

これによれば、町村制施行以前から5ヶ村が1つの区域として扱われていたことが分かる。

明治元年(1868)12月白石に転封となった盛岡南部氏は、翌2年8月に旧地復帰が認められ新盛岡藩が発足した。しかし3年7月には盛岡藩が廃止され、盛岡県が置かれた(廃藩置県)。
明治4年2月、県内を39区に分け各区に郡長が任命された。その第32番区が矢沢・幸田・高松・高木・東十二丁目の5ヶ村であった。
しかしこの5ヶ村を1区域とする行政区域が、その後町村制施行まで継続したのではない。

明治4年11月に盛岡県は一旦廃止され、管轄領域が変更されて新置盛岡県が置かれた(6郡59区制)。そして翌5年正月には岩手県と改称され、間もなく6郡21区に区画改訂された。
その時の区域を見ると、矢沢・幸田・高松は第9区(24ヶ村)に属し、高木・東十二丁目は第15区(24ヶ村)に属している。(第15区は和賀郡の一部と記されている。)

明治8年(1875)1月になって、21区制を廃し6郡を17大区に改定した。17大区は224小区に分けられ、数小区を管轄する扱所(81ヶ所)が設けられた。
矢沢等5ヶ村は第7大区(16ヶ村)に属し、矢沢・幸田が第9小区、高松が第10小区、高木・東十二丁目が第11小区とされ、4番扱所(高木)の管轄となった。

明治12年(1879)1月以降、郡区町村編制法により大区小区制が廃され、旧来の体制に戻し、町村の事務を行う戸長役場を設けた。高木にあった戸長役場は当初高木・東十二丁目2村を管轄していたが、明治17年の戸長役場の整理統合により、矢沢・高松・幸田3村を加えた5ヶ村と所轄村が多くなった。
そして冒頭に述べた明治22年の町村制実施に至る。

ところで、明治維新前まで遡(さかのぼ)って見ると、これら5ヶ村は安俵高木通という代官区に属していた。安俵高木通代官所は36ヶ村を管轄していたが、上記5ヶ村が稗貫郡、他は和賀郡にあった。
即ち、矢沢・幸田・高松・高木・東十二丁目の5ヶ村は安俵高木通に属す稗貫郡内の村々ということになる。

  • 「矢沢村」という村名
    矢沢・幸田・高松・高木・東十二丁目の5ヶ村が合併してできた村の村名が何故「矢沢村」とされたのか?このことに言及した資料は見当たらない。
    旧・矢沢村は人口・戸数にしても面積にしても5ヶ村の中で最大というわけではなかった。冒頭に示した調書によれば、人口・戸数最大の村は東十二丁目村で1,067人・212戸、面積最大は高松村で776町。そしてそれまで戸長役場は高木にあった。

ここで気になったのが幸田村の存在。本稿ではこれまで幸田村を独立の村として扱ってきたが、資料の中には幸田村を矢沢村の一部としているものもある。(注3)
上記調書の矢沢村と幸田村の分を合算してみると、人口・戸数が1,231人・224戸、面積が802町となり、いずれも最大となる。
何となく納得できるような気もするが、実際はどういう経緯で「矢沢村」となったものかは不詳!!

  • 矢沢村その後
    明治22年(1889)に発足した矢沢村は、65年後の昭和29年(1954)4月に1町5ヶ村が合併した花巻市の誕生によって、消失した。しかし曾(かつ)ての5ヶ村の村名である矢沢・幸田・高松・高木・東十二丁目は大字名として受継がれている。
    そして私の育った家の所在地は「稗貫郡矢沢村東十二丁目第13地割13番地の1」から「花巻市東十二丁目第13地割13番地の1」へと変った。

    100年前の矢沢村(5万分の1地形図「花巻」(大正2年(1913)測図)より)
    (右クリックで拡大表示できます。)

「第13地割」の謂(いわ)れについては[「東十二丁目村天保検地絵図面」を読む]を、「稗貫郡」については[稗貫郡消滅 -近・現代の稗貫郡-]をご覧あれ。

[補足]
(注1) 「東十二丁目誌」:石崎直治著、H2.2.28 同人発行

 (注2) 「新町村区域資力調」:明治22年(1889)の町村合併による市町村区域及び資力に関する調書、岩手県庁所蔵。(熊谷章著「花巻市史 近代篇」(1968 花巻市教委発行)より)

(注3) 幸田村:①「花巻市史 近代篇」では、「第1章 行政の変遷」/「第4節 新盛岡藩」の中に《(新)盛岡藩の所管地は13万石、242ヵ村とあるが、これは旧南部領内だけの呼称であり、幕府書上の郷村は162村である。》と記した後に、稗貫郡等の郷村石高を列記している。その中に東十二町目村・高木村・高松村・矢沢村の4ヶ村は記されているが、幸田村は見当たらない。
この郷村石高によれば、矢沢村の村高が1,175石余で4ヶ村最大である(東十二丁目村は766石余)。
②「角川日本地名大辞典 (3) 岩手県」(S60.3.8)でも、「(近世)村名一覧」の「稗貫郡」の中に矢沢・高松・高木・東十二丁目の4ヶ村はあるが、幸田村はない。

(2019.1.30掲)

「東十二丁目誌」註解覚書:なぜ「矢沢村」だったのか?」への3件のフィードバック

  1. 「100年前の矢沢村」(地図)を追加しました。

  2. 私は神奈川県に住む矢澤進と言います。自分のルーツを調べたく地図資料を見ていたら全国にいくつか矢沢という地名を見つけました。地名による苗字のようですが矢沢川沿いにある字であり特に花巻と長野県上田には矢沢村名が残っています。沢が付く苗字は長野県の木曽辺りから起こったようです。諏訪湖、伊那、飯田辺りに矢沢名が今でも多いです。私はいずれそのうち花巻を訪れるつもりです。花巻に矢沢村がいつからあったのか矢沢名が今でもいられるのか調べようと思っています。

    1. コメント、有難うございます。
      私は矢沢中学校を昭和32年に卒業しましたが、同期生164名の中に矢沢姓の人はいません。
      なおこちらの「矢沢」は元は「八沢」だったとのこと。詳しくは「押切藤左衛門家のルーツ」の[注9]をご覧下さい。

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