「アズマカイドウ」のことを初めて聞いたのは5年以上前のこと。
古代・中世の頃、平泉から紫波東部まで「あづま海道」という道が通じており、矢沢地区を縦断していた、ということだった。
その後しばらくは「あづま海道」のことをあれこれ調べていたのだが、何時しか関心も薄れ、ほとんど気にすることも無くなっていた。ところが今年に入って、矢沢地区のコミュニティ誌に「あづま海道」について寄稿することになり、また「あづま海道」について調べ直してみたのだが… 結局のところ矢沢地区については全くの暗中模索!?
本稿では私がこれまでに目を通した文献類を紹介する。
(1) あづま海道 ― 清衡道とその風土 ―
佐島直次郎・編集責任、H5(1993).9.30 あづま海道歩くの会(江刺市岩谷堂公民館内)発行
B4判、189ページ
目 次
▪ 口絵
(黒石寺薬師如来像、餅田十五面観音像、金銀字交書経(江刺郡益澤院)、極楽寺青銅龍頭)
▪ 序文
(序、発刊によせて、発刊を祝す、「あづま海道」の刊行によせる、刊行によせて)
▪ 例言
(凡例、あづま海道の謎)
▪ 序章
陸奥国の古道 序説 (p.1~12)
(四道将軍の派遣、大化の道路制度、天下の三関、奥羽の三関、陸奥国の古道)
▪ あづま海道紀行 (p.13~46)
(お山から五位塚まで、五位塚から光明寺まで、重染寺から佐野向、佐野向から極楽寺まで、羽黒山から黒石まで、黒石以南の道を歩く、極楽寺から蓮華寺まで)
▪ 町村の風土 (p.47~183)
(岩谷堂地区、愛宕地区、田原地区、藤里地区、伊手地区、米里地区、玉里地区、梁川地区、広瀬地区、稲瀬地区、羽田地区、黒石地区、口内地区、
義家にまつわる伝説地名(胆沢))
▪ 付章 江刺地区古代遺跡地名 (p.184~)
▪ 跋文
▪ あとがき・編集後記・奥付
[注記]
・本書は江刺市(現・奥州市)や北上市における「あづま海道」復元(創造?)活動に大きな影響を与えた。
・本書では「あづま海道」を、平泉から江刺を経由して紫波町遠山に至る(というよりはむしろ、江刺から平泉と江刺から紫波町への)古代の道路としている。
しかしこれには異論もある。(後述)
・佐島直三郎(さじま なおさぶろう):大正9年(1920)、江刺市愛宕(おだき)に生まれる。日本大学高等師範部地理歴史科・文学部史学科卒業。東京都港湾局・目黒区役所勤務の後、昭和23年(1948)から岩手県高校教員、県職員(文化課)として勤務し、岩手県の歴史や風俗、文化の研究に尽力する。56年(1981)に定年退職。49年(1974)から岩手古文書研究会を主宰するなど、古文書や郷土史の研究などで幅広く活躍し、著書も多数執筆した。
(2) あづま海道の要点
佐島直次郎・筆、H6(1994).10.6~9 胆江日日新聞・連載
[注記]
・この記事は(1)の発行後1年ぐらい後に掲載されたものだが、提示されたルートの内矢沢地区南部のルートが(1)のものとは異なっている。(⇒「あづま海道とは何か」参照)
(3) 「あづま海道」紀行
朝倉 薫・筆(文責)、H15(2003).3.1 えさし郷土文化館・発行
B4判、60ページ
目 次
「あづま海道紀行」Ⅰ
平成14年7月7日(日) 参加者 56名
序文
(1) 江刺市から衣川村まで (p.1~15)
(「陸奥話記」(陸奥物語)、阿弖流為 征東軍を敗る、古戸古戦場跡・中の営・安倍館遺跡、衣川村遠望・史跡の地名と由来、長者ヶ原廃寺跡、衣川村歴史ふれあい館)
(2) 平泉町 (p.16~28)
(柳之御所資料館、古代東北と日本海海流、港湾都市・国際都市 平泉、「金色堂大修理と漆芸のことなど」、阿弥陀堂とその本尊
(3) あづま海道 江刺中心のコース (p.29~32)
(4) 参加者名簿 (p.33)
(5) あとがき (p.34)
「あづま海道紀行」Ⅱ
平成13年7月8日(日) 参加者 44名
(1) 紫波町赤沢 (p.37~43)
(亘理権太夫藤原経清公母之の墓、「藤原経清一族と赤沢」、「木造七仏薬師如来立像」、蓮華寺廃寺跡、彦部・是信坊墓所
(2) 石鳥谷町・光勝寺五大堂 (p.44)
(3) 北上市 (p.45~56)
(更木・大竹廃寺跡、黒岩・白山神社、立花・毘沙門堂、内門岡・極楽寺)
(4) みちのく「道寺・道地・童子」論 (p.57~58)
(5) 参加者名簿 (p.59)
(6) 主な参考文献・引用文献 (p.60)
[注記]
・本書では、矢沢地区について全く触れられていない。矢沢地区内の「あづま海道」は霧の中、五里(二里?)霧中ということか!?
・えさし郷土文化館:江刺地方に伝わる歴史遺産を守るとともに、地域の伝統文化を広く発信・普及するために、平成12年に設立された博物館機能と体験学習室をあわせ持つ、奥州市立の総合交流施設。
(4) あづま海道を考える -江刺の歴史を紡(つむ)ぐ④-
えさし郷土文化館 前館長 千葉俊一・著、H21(2009).8
A4判、34ページ
目 次
一、はじめに (p.1)
二、「あづまかいどう」の研究 (p.2)
三、「あづま」とは? (p.4)
四、道路整備の変遷 (p.5)
五、【あづまかいどう】(東海道・東街道・吾妻街道)とは?
「あづまかいどう」を『文献』から辿る~
六、【あづまかいどう】沿道の歴史を辿る
七、多くの文人が【歌枕求め】足を踏み入れた「あづまかいどう」
八、芭蕉が踏み入れた「奥のほそみち」は、実は「あづまかいどう」
~しかも「奥のほそみち」、芭蕉のオリジナルではなかった~
九、地域に残る『文献』から辿る
十、「岩谷堂で得た天啓」~推理作家・高木彬光の世界~
十一、そのまた延長線上には、何がある? (p.25)
~…旧江刺郡域境附近から、さらに「北」へ…~
十二、まだまだ「地域に残る『文献』」から (p.28)
十三、おわりに (p.34)
(5) 「あずまかいどう・あづま海道・東海道」を探る
阿部和夫・筆、H22(2010).6.26/6.28/6.30/7.3/7.17 胆江日日新聞・連載
目 次
① 古代の官道
② あずまかいどう
③ 「あづま」と「街道」の問題
④ 「あずまかいどう」の成り立ち
⑤ 「あづま海道」の問題
[注記]
・⑤の中で、〈東北における古道の研究は、佐島先生らが「あづまかいどう」を取り上げたときに比べて、かなり進展している。このため同書によって解決済みだった問題も、再度検討しなければならない事態を迎えている。〉とし、〈「あずまかいどう」が、奈良~平安前期に成立したと見る立場からすると、この時期は藤原氏の台頭や奥州平泉が成立する前にあたり、人々が北上川を渡って衣川十日市場に向かう必要はなかったのである。〉とある。
(6) あづま海道について
えさし郷土文化館 相原康二・筆、H29(2017).2.21 あづま海道連絡協議会講演会資料
A4判、8ページ
目 次
◆古代の地方行政区画・官道 (p.1)
(陸奥の東山道(山道)、陸奥の海の道(海道) )
◆あずまかいどう(東海道) (p.2)
(安永2年「安永風土記」、文政年間、大正14年「江刺郡志」)
◆あずまかいどうの起原―現状では不明というほかない (p.5)
(佐島説の紹介と評価)
◆あずまかいどう(東街道)の検討 (p.6)
(あずまかいどうルート周辺の平安時代寺社・仏像の存在、あずまかいどうの役割は太平洋岸の地方との連絡路か、)
(付) あづま海道推定ルートと沿線に存在する平安時代の文化財群
[注記]
・本資料に示されている矢沢地区内のルートは、(1)のルートよりかなり東側を通っている。
・「◆ あずまかいどうの起原」と題する節に〈現状では不明というほかない。〉と付し、さらに〈佐島直三郎氏は平成5年に「あづま海道―清衡道とその風土―」を責任編集され、(江刺)郡志と同様の奥州藤原氏時代説に立ち、「清衡道」という呼称をもちいている。ただし、いまひとつ有力な根拠に欠ける。〉とある。
(7) 紫波町史 第1巻
紫波町史編纂委員会・編、S47(1972).3. 紫波町・発行
第6章 交通機関 / 第1節 陸上交通 / 第1 陸路の整備
目 次
一 奥州街道の整備
二 東街道の整備
三 稲荷街道の開削
四 承慶橋の架設と新東街道の開削
五 その他の支線道路
[注記]
・〈一〉に、〈東山根道は、三戸方面から不来方(こずかた、後の盛岡)にかかり、これより乙部・東長岡・赤沢・佐比内・大迫を経て遠野へ通ずる道路であり、この時代には「東街道」の名で呼ばれていた。〉とあり、
また〈中央部の道路というのは、稗貫郡北寺林村の光林寺付近から志和郡犬渕村の古道(ふるみち)にかかり、…飯岡・太田方面に通ずる道路であり、現在でも「鎌倉街道」とか「東奥(あずま)街道」の名と共に断続的にその道筋を残している。〉とある。
・〈二〉に、〈盛岡城下と遠野を結ぶ東街道が、古くから主要道路として発達してきたことは既に述べた。〉とある。
(8) 地域認識と幹線道路―いわゆる「あづまかいどう」を材料に―
岡 陽一郎・著、H30(2018).12.25
東北学院大学東北文化研究所紀要50号 p.57~69 (13ページ)
目 次
はじめに (p.57)
一 矛盾を抱える道路 (p.57~63)
二 「あづま」が意味するもの (p.64~66)
三 懸け橋・物差しとしての「あづまかいどう」 (p.67)
おわりに (p.68)
註 (p.68~69)
[注記]
・こちらからこの論文の全文をダウンロードできる。
・岡氏は、現在一関市博物館骨寺村荘園遺跡専門員。
・岡氏の著作は、従来の郷土史、地方史の枠を超越した「あづま海道」の論考として注目した。
・本論文〈一〉の冒頭で、〈道路の誕生時期には諸説あれ、「あづまかいどう」の名称を実際に文献資料で確認できるのは、管見の限りでは道路が機能していたとされる時代よりも遙か後、近世になってからである。興味深いことに、これは鎌倉時代の幹線道路とされる「かまくらかいどう」と同じである。
では、その近世にあって、肝心の「あづまかいどう」は同時代人たちに、いかなる道路と認識され、どのような環境に置かれていたのかを、確認してみよう。〉と問題提起している。
(9) 大道 鎌倉時代の幹線道路 -歴史文化ライブラリー 481-
岡陽一郎・著、H32(2019).3.1 吉川弘文館・発行
四六判 294ページ
目 次
▪ 道路と中世社会-プロローグ (p.1~11)
▪ 不思議な古道たち
かまくらかいどう (p.12~40)
あづまかいどう (p.41~73)
(仙台領の古道、近世の「古道」、繋がらない歴史、結びつかないみち、「あづま」が意味するもの、東北観-内と外との-、懸け橋・物差しとしてのみち、「名取郡誌」はかく語りき、道路研究の材料として)
▪ 大道という名の道路 (p.74~111)
大道のかたち / 大道を規定する / 路上の平和 / 大道は動く
▪ なにかが大道をやってくる (p.112~143)
異界への扉 / 源頼朝とモノノケたち
▪ 大道と地域社会(一) (p.144~183)
葛川 / 骨寺村
▪ 大道と地域社会(二) (p.184~215)
犬懸坂を越えるみち / 掘り出されたみち-杉本寺周辺遺跡 / みちのあゆみ-都市開発の中で
▪ 大道と公 (p.216~270)
大道を作る / 権力と大道 / 政と聖の間で
▪ 大道の社会史へ向けて-エピローグ (p.271~282)
▪ あとがき (p.283~289)
▪ 参考文献 (p.290~294)
[注記]
・岡氏は本書の69ページで「あづまかいどう」を次のように定義付けている。
〈人々は自分の住む土地に、中央との回路の記憶を見出し、時には創作や再解釈を施し、自己認識と誇りの拠り所とした。「あづまかいどう」は、まさにそうした渦中の産物であり、来歴も道筋もさまざまな古道群は、この名前と、京都に向かう道路としての歴史や物語を与えられ、地域の評価を高める材料となった。…「あづまかいどう」は明らかに中央から見たときの名称である点、より中央側のまなざしを意識しているといえる。〉
・さらに岡氏は次のようにも言う。
〈図20(下図)は江戸時代後期に平泉周辺で作成された絵図である。当時の地形や道路に、過去の名所旧跡をはめ込んだ中、奥州街道に「吾妻街道」と注記している点に注目したい。絵図作成者は、平泉を京都から相対的に自立し、各地からヒトやモノが向かう東北の都とはせず、この道路によって中央と結びついた、いわば中央の出先と評価することに、繁栄の源を求めていると読み解くのは、うがち過ぎか。〉
(2020.7.3掲)