「歌唱台湾」(陳培豊著、2021.9.30 三元社発行、A5版 375pp、3500円)、
サブタイトル:重層的植民地統治下における台湾語流行歌の変遷。
本書の帯に次のように記されています。
《「歌唱台湾」=「台湾を歌う」。本書は台湾語流行歌から台湾を描き出そうとするものである。台湾語流行歌の日本化は戦後、国民党政府支配になってからである。台湾人が日本的な要素を自らの歌唱文化に取り込んだのは、いかなる要因に由来するのだろうか。台湾社会が工業化へ向かう中、何が起こったのか。農村人口が大量に移動し始める戦後の社会的な変遷の中で、台湾流行歌はいかなる需要を基盤に、どのようにして日本演歌と共に自分が歌う「伝統」を作り出したのか。》
私は2~3年前から「台湾で台湾人が歌う(演奏する)日本演歌」を聞くことが多くなりました。そして「何故台湾で日本演歌なのか?」と不思議でなりません。
ネットの動画などを見て、台湾で日本演歌を歌ったり、聞いたりする人が結構いるのは間違いないと実感するのですが、日本演歌が一般の台湾人にどれ程受け入れられているのか? 受け入れられているとすればそれは何故なのか?
こんなことを気にしながらあれこれ調べているうちに、辿り着いたのがこの「歌唱台湾」です。
序 章 台湾語流行歌――台湾人のある社会文化史 (14pp)
一 研究動機及び問題提起
(日本人の心を表す「演歌」/「伝統」的な「台湾語演歌」
本章の書き出しに…
《台湾が工業化を展開していく中で、台湾語流行歌がどのように、なぜ日本化したのか、その過程の背後にいかなる社会的、政治的、文化的、経済的、エスニシティ的意義が隠されていたのかを明らかにする。ここで言う「日本化」とは、台湾語流行歌が日本の流行歌を大量にカバーし、また特に日本の流行歌、とりわけ「演歌」を模倣、流用したことを指す。》
とあり、私の問題意識にピッタリ相応しています。
「伝統」的な「台湾語演歌」について次のように解説しています。「伝統」がかぎかっこ付きであることに留意されたい。
《演歌は土着的な雰囲気を持っているために、日本以外の国や民族に受容、借用、模倣されにくいと一般的に考えられている。ところが、台湾にはヤクザや苦労人、流浪人、マドロス、場末や酒場の女といった社会的弱者やアウトローの心境を歌う演歌風の台湾語流行歌、つまり「台湾語演歌」がある。
台湾語演歌は日本の演歌と同じく、こぶし/ゆりを利かせ、本来の台湾土着の節回し(歌仔(かし)調)を加えた、つまり「台・日混成」の歌唱技法を特徴とする。歌詞の方は社会のアウトローが主な登場人物で、彼らの挫折、別れ、貧困、漂泊、せつなさ、怨念、自暴自棄などの題材や情緒を描く。一方、努力、我慢、根性、立身出世を果たすような人の心を鼓舞する内容も歌っている。日本の流行歌と同様、台湾語流行歌にも様ざまなジャンルがあるが、2000年前後の台湾語流行歌のヒット曲は、ほとんどこの演歌風の台湾語流行歌である。またこのような楽曲は台湾の人びとから愛され、台湾を代表する歌謡と認識されている。
2012年から2014年、台湾のテレビ局が争うように台湾語演歌を流す番組を制作し始めた。その過熱するブームの中で、「台語演歌秀」(「台湾語演歌ショー」)はその代表的な番組である。この番組は台湾語演歌だけでなく、日本の演歌も盛んに歌われる。じつは台湾語演歌にはかなり高い比率で、日本の楽曲のカバーが含まれているので、このような共演は両者の類似性をまのあたりにさせる。》
《演歌調の台湾語流行歌を自分の歌唱文化の「伝統」と決め付ける言い方は、枚挙に暇がないが、このような主張は決して根拠のない妄想ではない。歴史上、台湾はかつて半世紀にわたって日本の植民地統治を受けた。この台・日の歌唱文化の「類似」は、第二次世界大戦終結前、台湾に残された日本文化の「残滓」と考えられている。そしてこのこぶし/ゆりを粘っぽく使う歌唱法は、じつは台湾語演歌だけではなく台湾「民謡」にも見られる。土着的、伝統的、庶民的なイメージを伴う民謡に裏打ちされて、多くの人にとって台湾語流行歌に含まれる東洋的な要素は、古くからこの地に存在する伝統文化であるという考え方に、説得力を持たせる。
ところが、日本統治下の台湾の戯劇(演劇)、俗謡、さらに流行歌を聞くと、ほとんどの歌手は意図的にビブラートを使わず、異なる音と詞が滑らかで、また揺らぎさえ抱かせる技巧は使わなかった。「歌仔調」という台湾の俗謡の歌唱法を主な技巧として取り入れているこの「本嗓(ほんそう)」という歌い方を用いるために、一つ―つの音程や歌詞は明確に区切られて粒状に点々と流れていく。また流行歌の歌詞においても社会的周縁に置かれた人びとの心境を描くものがまったくなかったわけではないが、決して主流とはいえなかった。したがって、台湾の歌唱「伝統」としての演歌的な要素、その由来は日本統治期であるという言い方は成り立ちにくい。
台湾語流行歌の日本化、演歌化が植民地統治を受けた結果でなければ、両者の類似は戦後台湾人が自ら日本へ傾倒した文化の受容現象であろう。じつは戦前において台湾人は、あまり日本の楽曲をカバーしなかった。しかし戦後は一変して大量、かつ頻繁に日本の楽曲を借用するようになった。台湾語演歌というのは、戦後同じ楽曲を歌ううちに、原曲の影響、制約を受け、自発的に日本人歌手の歌い方を踏襲、模倣した結果と考えられる。台湾語流行歌の日本化、演歌化は、戦前というよりも戦後になって、日本に代わり対岸中国の国民党政府がこの島を支配し始めてから発生した文化受容の結果と考えたほうが妥当である。では、国民党政府支配のもとで台湾人が日本的な要素を自らの歌唱文化に取り込んだのは、いかなる要因に由来するのだろうか。
「歌は世につれ世は歌につれ」という文言を借りて鑑みれば、台湾語演歌の生成過程、特徴に、おそらく台湾で生活する台湾人の歴史的経験、社会的境遇、集団記憶が凝縮されているであろう。だとすれば、長期、大量かつ代表的な台湾語流行歌を分析することによって、台湾人の歌唱文化がいかに形成され、変遷していったか、同時に台湾の歴史、経済、社会、政治がいかなる変化を辿ったかを見ることができるだろう。》
二 研究課題と方法
( 音声の歴史・歴史の音声 / 基本概念及び章立て)
《戦前戦後、台湾人がいかに「自ら」の節回しを調整し、評価し、伝統化し、正典化していったのか。そのプロセスの分析は波瀾の歴史の下、この島に暮らしてきた台湾人の歴史や生活経験、社会境遇、集団記憶を抉り出す貴重な方法である。
ここで「貴重な」という表現を付け加えるのは、今日に至るまで大部分の台湾人の母語である閩南(びんなん)語をはじめ、台湾原住民、広東系の住民の言葉は、いずれも近代的書記法が必要とする標準化、規範化、制度化の作業が未完成な状況にあるからだ。台湾人は自分の母語の代わりに戦前は日本語、戦後は中国国民党政府が持ち込んだ北京語に頼って、読み書きの生活を営んできたため、近代的な「言文一致」の形で存分に文学創作を行うことはできない。流行歌という音声を媒介とした大衆娯楽の誕生は、ネイティブな台湾人にとって他力本願の文化的な苦境を打破し、「自らの口で自らの心を歌」わしめる「貴重な」手段ということになるからだ。
例えば1950、60年代、台湾が工業化社会へ入ろうとするまさにその時、当時農村から都市に出稼ぎに来た台湾人の姿をリアルな手法で描いた台湾語演歌が大量に出現している。知識人の手で行われた報道や小説の活動が盛んではなかった時代、これらの楽曲は事実上、文学を代替する役割を果たし、今日我われが世相を理解する上で重要な手掛かりとなっている。》
《そして、副題である「重層的植民地統治下の台湾語流行歌の変遷」からも分かるように、本書では戦前の日本だけではなく、戦後台湾を支配する中国国民党政府をも植民地支配と位置付ける。戦前、戦後台湾人が置かれた多重の苦境を台湾語流行歌の変遷を通して描き出すことが、本書の主意であるからだ。》
第一章 台湾語流行歌の生成と発展――新民謡運動・閨怨女・太平洋戦争 (52pp)
一 はじめに
二 蓄音器と台湾の音声 ― 台湾語流行歌の前夜
(他者の声しか聴けない蓄音器 / 蓄音器が発する珍奇な台湾の声)
三 他者が作る台湾の「新民謡」
(新民謡運動の一環としての台湾 / 他者によって創作された台湾「新民謡」)
四 恋愛至上の台湾語流行歌
(「街頭の文明女」と「室内の閨怨女」 / 離郷、労働、流浪、男性性の欠如)
五 台・日流行歌の「同」と「不同」
(いずれも伝統や俗謡から養分摂取 / 楽曲作成の自主と台湾性 / 戦時下における流行歌の融合と交流)
六 結論
第二章 半封建的な農業社会で暮らす台湾人――「平穏」な籠の中で歌う (46pp)
一 はじめに
二 家に閉じ籠る台湾女性
(養女と歌仔戯、芸旦、流行歌 / 自宅近辺が生活、労働の範囲)
三 籠の中で「平穏」な生活を送る庶民
(未工業化と離郷のない庶民 / 籠の中の「平穏」な暮らし / 異なる離郷の意味―台湾と朝鮮
四 啓蒙、識字、教化の道具として
(百家争鳴の裏に―文化的地位の低い層の啓蒙 / 知識人にとっての流行歌―啓蒙、識字の道具
五 民謡から見た台湾の閨怨物語 ― 閉塞、挫折、憂悶、無力
(民謡の援護がない台湾語流行歌 / 台湾社会の感情の構造
六 結論
第三章 再植民地統治と台湾語流行歌――「閨怨」から「苦恋」への戦後初期 (56pp)
一 はじめに
二 終戦後の台湾語流行歌の沈黙
(集団「蒸発」した台湾語流行歌の先駆者 / 二二八事件、失語の世代 / 白色テロ
三 差別統治と空白期の台湾語流行歌
(国家権力の中心からの差別化 / 「空白期」の台湾語流行歌―貧困、失業、エスニシティ)
四 社会の感情の構造としての「苦恋」
(捨てられ、騙され、裏切られた「苦恋」 / 「安平追想曲」と「河邊春夢」 / 「夢が叶った」後の災難 / 小説に見る「苦恋」の感情の構造)
五 農村人口の流出と階級の固定化
(農地政策と農村の疲弊 / 農村人口の流出と階級の固定化)
六 結論
第四章 「港歌」に見る再植民地統治下の台湾語流行歌――海/港から日本へ (60pp)
一 はじめに
二 オリジナル曲とカバー曲の協同の「港歌」
(貧困、漂泊、不安の台湾版港歌 / 日本の港歌とそのインパクト)
三 都市の海を漂泊する農民
(象徴コードとしての海/港 / 初体験の遠距離感、孤立感)
四 現実の閉塞生活からの逃避
(「監獄島」逃避への渇望 / 「去って帰らず」という必然 )
五 過去への追慕と新「台湾民謡」
(「脱日本化」の台湾民謡運動 / 「再日本化」の台湾新民謡)
六 「懐旧親日」の変換
(台湾語流行歌と新しい節回し / 全面的な日本傾倒)
七 結論
第五章 台湾語流行歌の全盛期と日本――工業化社会の望郷演歌と股旅演歌 (52pp)
一 はじめに
二 台湾の工業化と「望郷演歌」
(朝鮮戦争がもたらした相乗効果 / 社会の「現実」を共有する「望郷演歌」 / 「拜託月娘找頭路」が浮き彫りにする問題)
三 「集団就職列車」は走ったか― 高度経済成長の台・日の差異
(「集団就職列車」に乗って都市へ / 一人で都市へ向かう台湾人 / カバー対象の拡大―アウトローのルサンチマン)
四 天涯孤独な「股旅演歌」
(「股旅物」とアウトロー / 女性化した股旅演歌 / 他者の「過去」と重なる「現在」)
五 結論
第六章 自力救済か、他力本願か ――1970年代のテレビ布袋戯と社会問題 (62pp)
一 はじめに
二 台湾史上最高視聴率を記録した布袋戯
(伝統的な布袋戯から雲州大儒侠へ / 「淪落」した遊侠―布袋戯のアウトロー)
三 アウトローの心を伝える布袋戯楽曲
(ヘテログロシアの布袋戯歌謡 / 悔恨の渡世人 / 女性アウトローのテーマ曲)
本書には日本演歌からカバーされた台湾演歌がいろいろと紹介されていますが、その一例として「港町ブルース」をカバーした「苦界女神龍」についての解説を転載します。
《多くの布袋戯(ほていぎ、指遣い人形芝居)歌謡の中で「苦海女神龍」(「苦い世界の女神龍」)と「為銭賭生命」(「金のために命を賭ける」)は、最も知られた台湾の名曲と言える。
「苦海女神龍」は「港町ブルース」をカバーしたものである。原曲では恋に落ちた一人の女性が、船乗りの恋人に会うために、南から北まで日本の港を訪ね巡る姿を描いて、歌詞には多くの日本の港の名前が歌われている。ところが、この「港町ブルース」は台湾では、落ちぶれた異族の皇女苦海女神龍が愛する史豔文のために重い足を引きずりながら、中国の遠く西域の砂漠から暗黒中原まで歩んでくる姿を描いた歌としてカバーされる。苦海女神龍の流浪の旅は、まさしく茨の道で常に苦難、危険、やるせなさがつき纏っている。それでも、「小娘」ではなく「女妖精」である彼女は、…》
四 工業化をめぐる挫折組のユートピア
(「ポスト望郷演歌」としての布袋戯歌謡 / 布袋戯のファンタジー性―武林、女侠、欠陥 / 「不能/欠陥」と「超能」の反転)
五 飛躍した経済成長の翳り
(経済発展の奇跡 / 資本家天国の台湾労働者 / 「不能」と化した労働者)
六 布袋戯と国家イデオロギーの緊張関係
(物語とテーマ曲に投影された社会像 / 救済者の出現と『雲州大儒侠』の終焉)
七 救済者は誰か
(救済者としての国家、政府 / 自力救済か他力本願か)
八 結論
第七章 結論に代えて――再植民地統治下の国語・台湾語流行歌 (30pp)
一 「平穏」から「放浪」へ―戦前戦後の人口移動
(「放浪の歌」と「閨怨」 / 農村疲弊から始まった人口移動)
二 異なるエスニシティ異なる節回し
(弱者の自力救済 / こぶし/ゆりを「敬遠」する国語流行歌)
三 二つの国に捨てられた本省人
(本省人に残された心の傷痕 / 再植民地統治下の哀歌)
四 心の傷の癒合と新しい民謡
(民主化された後の「流浪之歌」 / 「赤い夕陽の故郷」から「帰郷する私」へ / 『多桑』と戦後立ち上がった民謠運動
《流行歌は大衆娯楽であり、その前身は民謡である。民謡とは過去の歌謡に対する見方であり、国民的アイデンティティの養分と見倣されている。国民的アイデンティティが創造されようとする時、民謡活動は活発になる。流行歌と民謡の関わりから見て、戦後 台湾語、国語流行歌は、この島で交じり合っているが、異なる歴史を背負う二つの流行歌は、それぞれの道を歩んでいくことは、むしろ必然の結果である。しかし二つの流行歌が発展していく途中、自分は何者か自分の歌とは何かという問いを確認する際、「民謡」は必ず立ち上がってくると思われる。
1960年代本省人の主導によって、密かに新「台湾民謡」が誕生した。それは戦前の台湾語流行歌を「台湾民謡」と追認し、その歌い方も戦前と変わってこぶし/ゆりを大いに取り入れている。…新「台湾民謡」はレコード販売及びラジオ放送によって聴かれてきた。民謡という伝統の庇護の下で、「閨怨(けいえん)」を中心とした台湾語流行歌と新しい歌い方は神聖性と古典性を賦与され、今日までも依然として一種の伝統として台湾民謡の地位にありつづけている。
それに対して国語流行歌の日本化、演歌化が一瞬の徒花で終わった後、1970年代後期に「中国民歌運動」が立ち上がる。この運動は大学生を主体とし、作詞、作曲と歌い手の多くは外省人二世であった。ここで作られた歌は「校園民歌」(「学園フォークソング」)とも呼ばれている。ところが、同じ民謡運動ではあるが、1970年代の「中国民歌運動」の主旨態様は1920年代日本人が主導した「新民謡運動」、また1960年代本省人による台湾民謡の「追認」とは明らかに違う。「自らの歌を歌う」という理想を唱えるものの、台湾語の作品はほとんど見られず、社会的な弱者、とりわけ当時工業化社会の下で喘ぐ農民、労働者への関心も薄かった。また戦前日本人によって作られた台湾「新民謡」のように、台湾を舞台とする作品は少なく、中国を描写対象とした楽曲が目立ったのである。》
《「中国民歌運動」は節回し、雅・俗、アイデンティティ、対日感情など複雑な問題が絡んでいただけでなく、エスニシティ、階級間題にも関わっている。具体的にいうと、戦後 同じ国語世代の異なる階級、エスニックグループの「自分の歌とは何か、また如何に歌うか」の問題に対する見解、主張の争いと言えよう。その争いには社会エリート対労働階級、西洋対日本というような構図が見られる。
「中国民歌運動」は約9年間も続いている。しかし蓋を開けて見ると、「自らの歌を歌う」という大義名分とは裏腹に知識人たちが自作自演した作品は、ほとんど当時の欧米の流行歌を真似たものであった。「中国民歌運動」は、最終的には中国ナショナリズムが高揚する中でピリオドを打つが、この運動の最大の功績は、国語流行歌の節回しや雰囲気を日本の演歌から西洋のポップミュージックに転向させ、それを主流の座としたことである。
一方、この運動の埒外にあるが、台湾語流行歌は相変わらず、国語流行歌、「校園民歌」とはある程度の距離を持ちながら、台湾の歴史の道を歩んでいる。》
あとがき (3pp)
曲名索引 (9pp)
人名索引 (10pp)
著者プロフィール:
陳培豊[ちん・ばいほう/Chen Peifeng]
1954年 台湾台北市生れ。1990年 早稲田大学第一文学部卒業。
1997年 東京大学総合文化研究科博士課程(地域文化専攻)修了。2000年 『「同化」の同床異夢―日本統治下台湾の国語教育史再考』により東京大学学術博士号を取得。
帰国後 台湾国立成功大学台湾文学系副教授を経て、本書出版当時(2021) 台湾中央研究院台湾史研究所研究員。
(2023.3.31掲/4.14改)
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