「東十二丁目誌」補解の補覚書:
堤防考

堤防が北上川左岸(東側)を朝日橋から南方に北上市方面へと続いており、堤防の上は自転車専用道路になっています。朝日橋から東十二丁目北端まで約1.6km、東十二丁目地内の堤防延長が約2.5km。
「東十二丁目誌・補解の補」では、この「堤防」が「水害」と共に主要なテーマの一つになると考えているのですが、なかなか資料が見つかりません。
本稿ではこの堤防について、これまでに分かった事や気になっている事をメモ風に記すに止めます。

▪ 堤防の概要
岩手河川国道事務所からの2024年2月29日付回答によれば、
矢沢堤防概況:
  位置  起点 距離標 86.0k + 120m (花巻・北上市境)
      終点 距離標 90.2k + 230m (朝日橋)
         長さ  4.31km(注1)(注2)
  施工年  着手 昭和38年
       完成 昭和48年

終戦直後の台風水害から矢沢堤防工事の着手まで15年、着手から完成まで10年、4.3kmの堤防の建設に25年を要しました。
今思えば随分時間が掛かった感がありますが、当時は国の予算の都合もあったでしょうし、東十二丁目の農民の方々もいろいろご苦労されたことと推察します。

▪ 仮堤防
水害に遭った直後に、稗貫部落の住民は洪水の再来を恐れて、川の水が越流してきた場所に100m前後(?)の土手を築いたとのことです。この仮堤防は現在でも本堤防に並んで残っています。

▪ 用地提供と農地改革
堤防用地がどのように取得されたのか、私は何の資料も持ち合わせていません。かなり広い用地が必要だったはずです。ほとんどが民有地で、原野もあったでしょうが畑も多かったと思います。水田は多分無かったか?

用地と関連して気になったのが農地改革。最近では「農地改革」という用語を聞くことも滅多になくなりましたが、戦後を語るに当たっての重要必須用語です。
簡単に言えば、戦後GHQの指令によって強行された政策で、地主の持っている小作地を強制的に国が買収し小作人に売却するといものです。建前は「自作農創設」を標榜していますが、GHQの本音は地主階級を弱体化し旧体制の復活を阻止する、ということだったのではないか。
当時のインフレも加わって多くの地主たちに大きな負担を強いました。
私の祖母は昭和39年に69歳で亡くなりましたが、存命中時々農地改革に対する恨み言を口にしていました。

1946年に自作農創設特別措置法が公布され、農地の買収・譲渡が1947年から1950年までに行われたとのことですので、堤防用地の取得時期とは重ならないかもしれません。しかしヒョットすると元小作人がタダ同然で手に入れた土地を堤防用地に良い価格で売渡した、なんてことがあったかもしれません。

▪ 我家の思い出
○ 私の祖父・省九郎は合併(昭和29年)で花巻市になる前の矢沢村最後の村会議員の1人でした。その祖父が亡くなった時(昭和58年)の弔事の一節に次のような件くだり)があります。
「…わけても東岡公園の建設や堤防建設そして学校統合など、とことん自分の理想を押し進めて行くあの情熱は…」
○ 最近妹に聞いたところでは、大学の受験勉強をしていた当時(昭和37年)、家でしばしば開かれる堤防建設に関する談合が気になって、勉強の邪魔になったのだとか。

▪ 佐藤源太郎翁之碑
「タウンやさわ 第39号」(2023.2. 矢沢観光開発協議会発行)に泉沢義雄氏が投稿した「埋もれた郷土の先人 – 佐藤源太郎」と題した記事が掲載されています。この中で堤防築堤の経緯や「築堤之恩人 佐藤源太郎翁之碑 昭和四十七年八月十六日」と記された顕彰碑のことなどが書かれています。佐藤源太郎は市会議員ではあったが、堤防建設との直接の関わりは明らかにできなかった、とのこと。佐藤源太郎は東十二丁目長根の人で、私の遠縁に当たります。名前は良く憶えていますが、顔の記憶はありません。

この碑は高木下通りにあり、その裏には大きく「八重樫利康 伊藤祐武美 建立」と刻され、その左側に控えめに「佐藤清見」とあります。八重樫・伊藤両氏は当時の花巻市長・市議会議長でしたが、何故か肩書は記されていません。佐藤清見は高木の人で市会議員、高木島土地改良区の(代表?)理事でもありました。

▪ 水門と排水ポンプ
堤防は土手を築けば完成というわけではありません。多くの場合、水門と排水ポンプが必須の付帯設備です。
東十二丁目地内の北上川には2本の用水路と1本の発電所放水路が接続しています。台風などで北上川が増水しこれら水路より川の水位が高くなった場合、川水が水路に逆流してしまいます。これを防ぐのが水門です。しかし水門を閉じると今度は堤内に水路の水が溜まってきて、浸水面積が徐々に拡がっていきます。そこで排水ポンプの出番です。ポンプを使ってこの溜った水を本川に放流するのです。(発電所放水路の場合は発電所で放水を止めれば済むが…?)
しかし東十二丁目地内の3本の水路には水門はありますが、排水ポンプがありません。先日友人から聞いたところでは、今でも排水ポンプの設置を陳情中とのことでした。戦後の台風水害から76年、矢沢堤防の竣功から半世紀、東十二丁目の堤防は今なお未完成と言えそうです。

[補足]
(注1) 「東十二丁目誌」の「第9章 現代」/「第10節 北上川に堤防工事」には次のように記されている。
《起点 荒屋敷地先、終点 上小路地先まで延長1800m、天端幅5mで…また起点以南は更木堤防として着工建設を終っている。》

(注2) 河川距離標:国土交通省の管理する河川において、川の調査や維持管理を行うため、目印に左右岸の堤防に河口を起点として、川の中心を基準に等間隔で設置している。従って距離標に基づいて計算した堤防の延長はその実延長とは若干異なる。

(2024.2.29掲 / 3.16改)

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